444.架橋
一番先頭にいたピアノが振り返ってアキオを見る。
彼がうなずくと、少女は走り出した。
彼と他の少女も、その後を追う。
道は緩やかに左へ曲がっている。
しばらく行くと、彼らの前に大きな川が立ちはだかった。
水量は多く、流れはかなり激しい。
かつて掛けられていたらしい木製の橋は、たもと付近の残骸を残してすっかりなくなっている。
真ん中部分は、おそらくはゴランの手によって破壊され、流されたのだろう。
対岸までの距離は90メートルほどだ。
それほど遠くはないが、馬車が飛び越える距離ではない。
向こう岸でも、いくつかの隊商が足止めをされているようだ。
「どうするんだ。これじゃ、とてもじゃないが、ベレンまではいけない」
「それどころか、長い間、荷の行き来がとまっちまうぜ」
エカテル商会の男たちが橋を指さし叫んでいる。
「西の国へは迂回路があったはずですね」
後から来たユスラが尋ねた。
「そんなもん――」
振り向きながら声を上げた男は、ユスラの桜色の髪を見て息をのみ、
「た、確かに、もう一本街道はありますが、もう、ずいぶん前に廃れた険しい崖道なんです。道幅は馬車一台通るのがやっとで、すれ違うこともままならない上、魔獣の出没地域でもある……」
少女はうなずいた。
ここ数カ月、首都近辺で魔獣は減っているが、辺境地域ではまだまだ頻繁に姿を見せているのだ。
「と、いうことは、橋がないと、多くの民が困るということじゃな」
ユスラの細い肩に手をかけて、黒紫色の髪の少女が前に出てきた。
「シミュラさま」
ユスラが困った顔になる。
自由奔放な彼女の考えていることが分かったのだ。
「あまり、大きな力を見せると、人々が恐れてしまいますよ」
「だが、我が魔王は、実際、強大な力を持っておるじゃろう――ピアノ」
「はい」
姉と並んで、片手でボルスを吊り上げながら川を眺めていた少女が答える。
「おぬし、アレを持っておるか」
一瞬、美しい眉を潜めた少女は、すぐに気がつき、
「はい、持っています」
そういって、コートから小さな立方体を取り出した。
透明な素材で作られていて、中に黒い砂のようなものが入っている。
今は、その砂が激しく脈打つように踊っていた。
「そ、それは何です」
襟を持たれて吊り上げられながらも、妙に嬉しそうなボルズが尋ねる。
「あなたに教える必要はありません――姉さま」
そう言いながら、ピアノはボルズを隣にいるヨスルに放り投げた。
彼女は軽々とそれを受けると、さっきからの質問をもう一度繰り返す。
「それで、あなたの何が悪かったか思い出した?」
いったい、どうなってるんだ。
その様子を眺めるデッカーがつぶやいた。
初めにやって来たのは、紅い眼をした少女だった。
青年に殴られた怪我から回復し、地面に座り込んで、ひどい目にあったとふたりで愚痴をこぼし合っているところに長い影が落ち、見上げると、灰色髪、紅い眼が印象的な美少女が立っていたのだ。
それまで、骨の折れた痛みに呻きつつ、地面に顔をすりつけながら見た経緯から、空から降り立った少女たちが、アルトの仲間だということは分かっている。
少女は言った。
「お二人の会話が聞こえてしまったのですが、あなたはボルズさんですか」
「お、おう。そうだ。俺がボルズ・クーリグだ」
「そうですか」
そういうと、少女は無表情にボルズの襟をつかんで、猫でも持ち上げるように軽々と吊り上げた。
「では、尋ねます」
少女は、大男のボルズを頭より高く差し上げながら言った。
「この数日で、あなたは許されないことをしました、何かわかりますか」
「な、何のことだ」
「だ、そうです。お姉さま」
そう言って、少女は自分の3倍はあるボルズを菫色の瞳の美少女に軽々と投げる。
「思い出すまで、体に聞く、という方法でもよいのではないですか、ピアノ」
デッカーは、横でそれを見ていた。
身体が小刻みに震えだす。
この姉妹はアルトと知り合いだ。
ということは、彼女たちが知りたがっているのは、当然、ボルズの新兵いじめ、つまりアルトへの暴力についてだろう。
思い返して、彼はさらに身体を大きく震わせた。
あのアルトの動き、魔獣との戦い、あいつは化物だ。
同様に、ボルズを片手で持ち上げる少女も普通ではないだろう。
なのにボルズはへらへら笑ったままだ。
多くの戦いを生き抜いてきた古参兵であるボルズはバカではない。
バカではないが、おそらくボルズは彼が思っていた以上に鈍いのだろう。
デッカーは声を出さずに口だけ動かしてボルズに言った。
〈アルトのことだ。素直に謝っておけ〉
何度か繰り返す。
だが、大男は、彼の思惑を無視して大声で言う。
「ああ、なんだ、はっきりいってくれねぇと分からないじゃねえか」
その時、斥候が、橋が落ちたといいながら帰ってきて、彼はぶら下げられたまま、ここまで連れて来られたのだ。
ここでも、さらに何度か質問が繰り返され、そのたびボルズは川岸の速い水流の上を、行ったり来たりしている。
「そろそろ面倒くさくなってきたわね。このまま手を滑らせれば、すべてが片付きそうだけど、それでいい?」
少女が妖しく笑った。
やっと、ボルズの顔に不安の色が浮かび始める。
「おう、それじゃ」
一方、ピアノの取り出したキューブを見て、シミュラは手を叩いていた。
「この踊り方じゃと、すぐそばにおるな、よし、ピアノ、それを貸してくれ」
紅い眼の少女が近づき、キーホルダー型の立法体を渡す。
ピアノが離れると、彼女は、マフェットと並んで立つアキオへ顔を向けた。
吊り気味の美しい目でウインクをすると、橋のたもとに集まった兵士たちをゆっくり見まわして、よく通る声で語りだした。
「皆、橋が落ちて困っておるのだろう。といって、迂回路は危険で時間もかかる。そこでじゃ」
シミュラはアキオに近づき、マフェットに軽く目をやると、ひたと身を寄せて彼を見上げる。
「ここにおわす、我が夫にして、ヌース――」
シミュラの言葉が途切れた。
口がミストラによって塞がれたからだ。
「何をする、おぬしら」
不明瞭な言葉でシミュラが苦情を言った。
「いくらなんでも、やりすぎです」
ヴァイユもそういいながら、アキオから魔女を引き離す。
「表向き存在しないはずの国の名前を出すのは、いかがなものかと」
「いきなり夫っていうのもどうかな」
ミストラとシジマが呆れたように言う。
シミュラは、口からミストラの手を外し、ヴァイユの頭をひと撫でして拘束から解放されると、
「あー、わかったわかった。とにかくじゃ、ここにいる男が、いまこれから橋をかけてくれる」
内部で幾何学的に美しい紋様を描くキューブをアキオに渡した。
「やれ」
「だが」
「橋がないと、こやつらは危険な迂回路を通らねばならん。やるのじゃ」
アキオは視界に、困った顔をしながらも、うなずくユスラの顔を捉えた。
「グリム」
彼が名を呼ぶと、地面から土を跳ねのけて黒い塊が伸び上がり、少女の形をとった。
色はついていないので、黒い粘土でできた人形のようだ。
「はい、あなた」
「やっぱり、あなた、なんだ……」
シジマのつぶやきを無視して、グリムは膝をつき頭を下げた。
「ご命令を」
「川に架橋してくれ、浮遊橋脚橋、いや軍橋タイプDでいい。わかるか」
「固定橋脚橋ですね。仰せのままに」
そう言うと、少女の姿はかき消すように消えた。
そして、川の両岸にいる人々は、大いなる奇跡を目撃したのだった。