439.良心
アキオは、軽々とマフェットを抱いたまま立ち上がり、そっと彼女を地面に下した。
素早く近づいたユスラが、ポケットから汎用布を取り出すと、ストールのように身体に掛けてマフェットの胸元を隠す。
「あ、ああ。胸が出てたんだね。ありがとう」
マフェットは、腰まである白い髪を揺らして礼を言った。
ユスラは軽くうなずき、
「怪我はありませんか、アキオ」
彼に尋ねる。
彼女の言葉でマフェットは彼を見た。
「アキオ?」
「俺の本当の名前だ」
「そうなのかい」
ユスラのすぐ近くまでやって来た少女たちを見て、さらにマフェットが尋ねる。
「この綺麗な子たちは」
「婚約者です」
アキオが口を開く前に、ヴァイユが答えた。
「まあ」
マフェットが目を細める。
嬉しそうだ。
「やっぱりあんた、もてるんだねぇ」
「アキオ」
一歩前に出たピアノが彼に声を掛ける。
マフェットを見て、優雅に会釈をし、
「ご挨拶は後ほど――」
そう言って続ける。
「向こうで、ひとり負傷しています。重傷です」
言われて目を向けると、ケイブが倒れたリリーヌを抱き上げていた。
彼自身の手足は再生しているようだが、血まみれになっている。
おそらく少女の血だろう。
アキオが近づくと、ケイブは彼女の胸に刺さった黒い刃を引き抜こうとしていた。
「抜いてはいけません」
言葉をかけながら近づいたヨスルを青年は手で払いのけようとした。
ナノ強化された、凄まじい威力を秘めた掌を、少女は軽く指でつかむと、その勢いのまま彼を引き回し、腕を捻り上げて逆関節をきめた。
猫でもつかみ上げるようにリリーヌから引き離し、地面に押し付けて確保する。
強化された青年が、まるで子供扱いだ。
体内のマシンの性能差もあるが、これまでに受けたきた訓練と越えてきた死線の差が如実に現れている。
阿吽の呼吸で、ケイブの代わりにピアノが入って、少女を抱き上げた。
「成人女性、体重42プラスマイナス0.5キロ、栄養不良、第4、第5肋骨間に刺創、傷は心臓に到達、心停止しかかっています」
地面とヨスルに押さえつけられた青年の血を見て続けた。
「出血総量800cc。危険ですね」
通常、全血液量の20パーセントの失血で出血性ショックを起こし、30パーセント以上失えば生命に危険を及ぼす。
「リリーヌは強化魔法を使っていたのか」
少女の状態を見てアキオが尋ねた。
「そうだ」
そう答えた青年は、彼女が傷ついた場面を思い返す。
「わたしのザイアン、あなた、やっぱり素敵ね。愛してるわ」
身を挺して救った彼に対し、彼女は優しく抱きしめながら礼を言った。
手と足と、内臓の一部を失ったものの、痛みは感じない上、すでに再生が始まっていることを感じた彼は、再び彼女に尋ねた。
「なぜ……教えて、くれ」
少女は答えず、首を曲げて路上を見ている。
訳が分からないまま、リリーヌの視線の方向を見た彼は思わず叫んだ。
「マフ姉!」
彼の視線の先で、彼を弟と呼び、愛してくれた恩人が胸を貫かれて倒れていたからだ。
青年は、直感的にさとった。
「マフ姉がああなることを見越して――」
彼の言葉を遮ってリリーヌが叫んだ。
「なっ」
再び少女の視線の先を見ると、アルトが素手でゴランの身体を切断しているところだった。
「何なの。あいつ、どれほどの化物なのよ。女が倒れても無視するところは素敵だけど」
「なんだって?」
「ケイブ。あなたのいう通りだったわ。もうあの子に隊商を全滅してもらうのは無理みたい」
少女はやさしく彼の頬を撫で、
「逃げましょう」
「そうしてくれ」
「あなたも一緒によ」
「俺は残る。マフ姉を置いてはいけない」
「あの魔王がなんとかするでしょう」
「だが……俺はまだ動けない」
「大丈夫よ。2年ほど前、久しぶりにあなたに会った時の言葉を覚えてる。いろいろ準備するっていったでしょう。これも準備の一つよ」
そう言うなり、少女の胸元が妖しく光り始めた。
強化魔法!
青年は驚きに眼を見張る。
「あなたぐらい、簡単に抱き上げてつれていけるわ」
そう言いながら、彼を肩に担いで立ち上がったその時、少女は激しい衝撃を受けてよろめいた。
見下ろすと、黒い刃が痩せた胸に突き刺さっていた。
凄まじい勢いで飛んできたのだ。
強化魔法で力は強化されていても、それに反射が追いついていなかった少女は、まともに心臓に刃を受けたのだった。
少女は、しばらく硬直したように立ち尽くすと、口から血を吹いて後ろ向きに倒れる。
ケイブは少女から飛び降りると、片手片足で倒れる彼女を受け止めた。
流れる血が彼の腕と服を濡らしていく。
「リリーヌ」
青年が声をかけると、うっすらと目を見開いて彼女は言った。
「ダメ、わたしは死ねない。わたしが死んだら可哀そうなフレネルも……死ぬ、ダメ、ダメ……」
少女の声は少しずつ小さくなり、やがて消えた。
青年は、しばらく呆然と、痩せこけた少女の顔を眺めていたが、このままでは可哀そうだと、刃を抜こうとして少女に止められたのだ。
「確かに、強化魔法発動中に負傷したようですね」
ピアノの言葉にうなずいたアキオは、シジマを見た。
「ナノ・カプセルはあるか」
「はい、これ」
すぐさま小さな掌にのせて、カプセルを差し出す彼女にアキオは言う。
「そのままにしていてくれ」
彼はアーム・バンドを操作して、マフェットの時同様、カプセル内のナノ・マシンをPS対応方に変えた。
「アキオ、今のって、PS対応へのオーバーライドじゃないの」
自身のアーム・バンドでナノ・マシンをチェックしていたシジマが尋ねる。
「そうだ」
彼は少女の胸からナイフを抜いた。
すでに心停止しているため、出血は少ない。
傷の位置から考えて、WBは損傷していないはずだ。
アキオは傷口からカプセルを押し込んだ。
「ケイブ」
彼の呼びかけに応えて、ヨスルが青年を持ち上げて運び、少女の前に下した。
「彼女はまだ死んでいない。お前の声が届けば生き返る。彼女に呼びかけて、強化魔法を使わせろ」
「ほ、本当か」
リリーヌが助かると聞いて、ケイブは懸命に少女に声を掛け始めた。
アキオは立ち上がって後ろに下がる。
青年の呼びかけを聞きながら、彼は、ほんの少し前に、彼女を敵と見なし殺すと決めたことを思い出していた。
胸に手を当て、心配そうにリリーヌの蘇生を見守る少女たちを見る。
アキオは、心持ち唇の端を動かして苦笑に似た表情を作った。
リリーヌは敵だ、だが――
彼女たちの目の前で、同年代の少女を殺すわけにはいかないではないか。
彼は少女たちの横顔を見る。
彼女たちこそが、俺の外付けの良心、人間らしさなのかもしれない。
彼は首を振って、すぐにその考えを打ち消した。
彼女たちを、そのように使うべきではない。