433.好転
頭を殴られた後、めまいがして彼は膝をついた。
そのまま横転する。
おかしい、あんなちっぽけな人間によって、自分が倒されるはずがない。
強化魔法を使えず、何者でもなかった頃と違って、今や彼は最強の生物なのだから。
ナノ強化されたゴランは、地面の土を掻きむしって立ち上がろうともがく。
馬車、ケルビ、人間、ゴラン、マーナガル……人が主に使う言葉の意味を、だいたい彼は理解している。
粗暴な見かけに反して、ゴランの知能は高いのだ。
ただ、人を餌と見なし、決定的に怒りの閾値が低く、何事もすぐに暴力に訴えるために、一般的にゴランは、マーナガル以下の知能であると考えられているだけだ。
ゴランはヒト族の言葉を理解するが、仲間同士で言葉を交わすことは滅多にない。
会話など弱者が行うものだからだ。
強者は言葉で慰め合ったり、お互い助け合って協調行動など取りはしない。
ひとりですべての行動を完結できるのだ。
ゴランが集団で暮らすのは、より強くなるための儀式、勝者が敗者の胸を切り裂いて心臓を食べ、魔力を強化する決闘を行いやすくするために過ぎない。
それが最強生物ゴランなのだ。
その証拠に、彼らは遠目にしか他の魔獣を見たことがない。
なぜなら、弱い魔獣たちは、決して彼らの縄張りに近づこうとはしないからだ。
だが――長らく彼自身は最強ではなかった。
それどころか、まともなゴランですらなかったのだ。
他のゴランたちが、生まれた直後に投げ込まれる付魔の谷から這い上がって、すぐに発動できる魔法を彼は使えなかった。
それゆえ、強化魔法をより強くするための、誇り高い同族の決闘も挑まれたことがない。
だからといって、彼は同族から蔑まれたり、いじめられたことはなかった。
それ以前の問題として、そこにいるとを認識すらされなかったのだ。
同族にとって、彼は存在しないも同然だった。
それは、ゴランにとっては耐えがたい屈辱だ。
彼と同じような、魔法を使えないゴランがたまに生まれることがある。
そういった者は、ある程度成長すると、群れを離れ、森で独り暮らすようになることが多かった。
いわゆる離れゴランだ。
彼も何度、そうやって群れを離れようと考えたかわからなかった。
強化魔法が使えなくても、ゴランとしての身体の大きさ、力の強さがあれば、森で独り暮らしてもまったく危険はない。
だが、彼は群れを離れたくなかった。
離れゴランとなることは、子孫を残せなくなることを意味するからだ。
彼の種族は、群れの中、あるいは群れ同士でしか番いを作らない。
だから、彼は離れゴランになりたくなかったのだ。
しかし、やがて彼は、ある出来事から、群れにいても自分が子孫を残す可能性が全くないことを思い知った。
そして、離れゴランとなった。
独り、森で暮らしながら彼は死に場所を求め続けていた。
無意味にマーナガルの群れと戦ったこともある。
わざと、危険な断崖絶壁に立つムサカを狙ったこともあった。
自ら死のうとは思わなかったが、敢えて生き残りたいとも思ってはいなかった。
そんな時、彼は、あの仮面の男と出会ったのだ。
信じられないことに、ただの人間に過ぎない、小さなその男によって彼はさんざん痛めつけられ、やっと死ぬことができると思ったのだが――
気がつくと、彼は深い洞穴の中に寝かされていた。
身体中を太い縄でくくられ、身動きが取れない。
そこへあの女が近づいて来て、彼に何かを飲ませたのだった。
血だった。
木の枝で無理やり開けられた彼の口に、液体を注ぎ込みながら女が言う。
「あなたを強くしてあげる。わたしの考えが正しければ、この血であなたはきっと強くなるはずよ」
完全に、ヒトの言葉がわかるわけではないが、女が、彼を強くすると言っていることだけはわかった。
そして――
女の言葉どおり彼は強くなった。
あいかわらず強化魔法は使えないが、もはや、そんなことはまったく問題ではなくなった。
彼の身体は、常時、強化魔法が発動しているように凄まじい力を発揮するようになったからだ。
身体に変化を感じたのは、血を飲まされてからしばらく経った頃だった。
全身に力が溢れる気がして、彼は洞穴の隅に置かれていた巨大な丸太を試しに掴んでみた。
これまでなら持ち上げることすら難しかった重さの木を小枝のように振り回すことができる。
試しに力を入れてみると、太い木は、水にぬれて腐った枯れ木のように粉みじんに砕けてしまった。
さらに、地面に転がる黒い石をつかんで壁に向けて投げつけると、石は壁にめり込んで大きな窪みを作った。
彼は楽しくなって、何度も壁に石を投げ続け、その狙いは徐々に正確になっていく――
力が強くなる意外に、彼にはもうひとつの身体の変化があった。
怪我をしなくなったのだ。
血を飲んでしばらくして、洞窟から逃げ出そうとして失敗した時、腹を立てて洞穴の壁を思い切り殴りつけたことがあったが、潰れた拳がたちまち元通りになったのだった。
自分は怪我をしない身体になったのだ。
にわかには、信じられなかったが、試しに折れた木で掌を突いてみると、血すら流れず傷口がふさがった。
彼は有頂天になる。
あとは何とかして、この洞穴から逃げ出すだけだ。
だが、強化された身体をもってしても、それは難しい作業だった。
彼が閉じ込められた大きな洞穴は、途方もなく頑丈な上、出入口は巨大な岩で塞がれていて、彼の力をもってしても外に出ることはできなかったのだ。
幸いなことに、閉じられた洞窟内ではあっても、天井に埋め込まれた光る石のおかげで、あたりの様子は知ることはできた。
水は洞穴の隅にある小さな泉から無制限に飲むことができたし、時折、天井に開いた穴から大量のムサカやマーナガルが投げ込まれるため、飢えることもなかった。
しばらく暮らすうち、逃げ出す機会はムサカを投げ入れる瞬間しかないと彼は考えるようになった。
毎回、餌を与える時に、女が、穴から顔を覗かせ、歌うように言うのだ。
「もうすぐ、もうすぐ自由にしてあげるから。外に出たら、手当たりしだい全てこわしてしまっていいのよ」
その当りまえのことに彼は腹を立てた。
自由の身になったら、すべてを壊し、殺すのは当り前だ。
だが、まず最初に殺すのは、あの女だった。
そう考えた彼は、ある時、隠し持った石を、穴から顔を出す女に投げつけた。
残念なことに狙いは僅かにそれ、石は、女が顔を覗かせる穴の縁に当たって、大きな窪みを作った。
女は素早く身を隠す。
それ以降、女は姿をみせなくなり、声だけが洞窟に響くようになったのだ。
そしてどういうわけか、今日、ついに出口を塞いでいた岩の扉が回転して開き、彼は自由の身になったのだった。
喜びのあまり飛び出そうとして、思いついて彼は洞窟に戻り、持てるだけの石を持って出口を目指した。
外に出た途端、たくさんの美味そうなヒトの匂いがして、彼はそちらへ向かい、最初に目に付いた男に向けて石を投げたのだった。
石――そうだ。
地面に転がる彼は、もがくのをやめ、黒い髪、黒いコートの男を睨みつけた。
最初に投げた石で、この黒ずくめの化物は腕を失った。
彼と同様に、すぐに腕は再生したようだが、それでも攻撃は効いていた。
直感が、それでいい、それでうまくいく、と彼に囁く。
石を使って離れて攻撃をすればよいのだ。
彼は、あたりを見回し、道を挟む崖に空いた大きな穴に目を止めた。
その下には、彼が最初に投げたのと同じ硬く黒い石が無数に転がっている。
投げるのに手ごろな大きさのものも多い。
彼は満足げに息を吐き、全身に意識を集中して身体に力が戻るのを待った。
何を考えているのか、男は彼を見たまま動かない。
その理由はわからないが、これは好機だった。
ついに、彼の身体に力がみなぎりだした。
反撃の時は来たのだ。
ナノ強化されたゴランが、寝たままの状態から真上に跳ね上がった。
通常の生物ならあり得ない動きだ。
そのまま空中で体勢を変え、足が地面についた途端に姿が消えた。
アキオとケイブだけが、魔獣の動きを捉えている。
ゴランは、さっきケイブがぶつかって開けた大穴に飛び込んだ。
「隠れろ」
アキオが青年と娘に言った。
「え」
驚く少女に向けて、凄まじい速さで投擲された石が飛んでいった。