429.魔犬
「そ、そんなバカな!」
少女はそう叫んで――妖しく微笑んだ。
「なんていうと思った?そんなことは織り込み済みよ」
「強がりはやめた方がいい。ディフラクトのお嬢さん。名前はたしかフレネルだったな」
シッケルが魔犬をひと撫でして起き上がる。
「あら、ご存じでしたの」
「ああ、まさかケイブの奴と顔見知りだとは思わなかったが」
「顔見知りではなく、幼馴染、そして恋人ですわ。あなたたちより、ずっと長い付き合いですの。それと少し訂正させていただきますと、わたしはフレネルではございません」
少女は痩せた手でスカートをつかみ、優雅に会釈した。
「あらためて自己紹介させていただきます。わたしの名はリリーヌ。リリーヌ・ディフラクト」
「それはご丁寧に。なぜ名前を変えたかは、後で聞こう。俺は、シッケル。シッケル・アスフェルだ」
「初めまして、アスフェルさま、皆さま。そして、さようなら」
そういって少女は口元に手をやると、鋭く指笛を鳴らした。
その音は、切り立った崖にはさまれて細長く切り取られた青い空に消えていく。
嫌な予感に襲われて、アキオは、いったん解除したナノ強化を再発動した。
直後、道をはさんだ崖の上から、彼めがけて凄まじい勢いで黒い塊が飛んで来る。
アキオの強化された動体視力がそれを捉えた。
マーナガルだ。
だが、そのスピードが尋常ではない。
彼は、強化した身体で、そいつの胴体を殴りつけた。
巨大な鉄塊を叩いたような、こもった音がして彼の身体が弾かれる。
ありえないことだ。
同時に、魔犬の鋭く爪の伸びた前足が目にも止まらぬ速さで動き、彼の横腹を薙いだ。
咄嗟に身を捻って躱すが、ベルトポーチが爪にひっかけられ、遥か遠くへ飛び去ってしまった。
アキオは数歩下がって、何事もなかったかのように地面に降り立ったマーナガルに対して身構える。
この速さ、強度、まさかこいつは――
続いて、もう一体、空からマーナガルが降って来た。
そいつは、まっすぐに魔犬女王の首を抱くマフェットめがけて降下する。
その速度は、明らかに魔獣の域を越えていた。
「マフ姉!」
シッケルが、青く光る身体で魔獣に体当たりする。
衝撃で、マーナガルはマフェットからそれて地面に降り立った。
同時に、何かが地面に落ちる音がした。
見ると、男の腕が転がっている。
シッケルの腕だ。
魔獣は、前の一体が、アキオにしたのと同じように、シッケルに体当たりされた瞬間に、前足の爪で彼の腕を刈り取ったのだ。
「シッケル!」
悲鳴のような声で叫んだマフェットが、青白く輝きながら跳ね起き、肩から血を吹き出して倒れた傭兵に駆け寄った。
「あんた、あたしの身代わりに」
「そんな顔をしないでくれ、姉さん。俺は嬉しいんだ。前にもいったろう。俺の命は姉さんのものだ。助けてもらったあの夜から」
「だからって、こんな、こんなひどい怪我を」
「俺は大丈夫だ。姉さん、しっかりしてくれ。まだ終わっちゃいない。気をつけろ、あいつは普通の魔犬じゃない」
「ああ、わかったよ」
そう言って、彼女は上着を脱ぐと彼の傷口に当てた。
「血を流し過ぎないように押さえておくんだ」
立ち上がろうとしたマフェットを魔犬が襲う。
どういう理由なのか、そいつは彼女を憎んでいるようだ。
今度は、巨大な魔犬女王が盾となってマフェットを守る。
血しぶきが飛んで、女王は片目と鼻を切り裂かれて吹っ飛んだ。
「マーランガ!」
マフェットの悲鳴のような叫び声に応え、一度は身体を起こしかけた巨犬が、再び地面に倒れる。
立ち上がろうともがくが、身体が自由にならないようだ。
殴られた衝撃で、脳が揺らされたからだろう。
それでも、ひと声も上げないのはさすがだった。
強化魔法を発動させたまま、シッケルを抱えたマフェットが魔犬女王に走り寄る。
彼女は、傷ついた兵士を女王に並べて横たえると、マーナガルに向けてシッケルから借り受けたナイフを構えた。
「あたしの子供たちに何をするんだい」
毅然とした声が路上に響く。
「これ以上、手出しはさせないよ」
強化魔法を、もう一段強く発動させたのか、上着をシッケルに与えて地球のタンクトップに似たシャツ一枚になったマフェットの胸部がさらに明るく輝く。
道路を吹き抜ける風が、彼女の豊かな白髪を揺らした。
一方、アキオと魔犬の対峙も続いている。
唸り声を上げず、彼へ向けてマーナガルが飛びかかった。
凄まじい速さだ。
アキオは、流れるような足さばきで回り込むと、左拳を魔犬の顔に叩きこんだ。
鼻から先が潰れ、両眼が飛び出したマーナガルは、ひと声鳴いて崖にめり込んだ。
腕に違和感を感じたアキオが左手をみると、アーム・バンドが斜めに切り裂かれていた。
魔犬が、殴られるの同時に反撃したのだろう。
侮れない素早さだった。
崖に開いた大穴を見ながらも、アキオは攻撃体勢を解かない。
まだだ、まだ終わっていない――
こいつは加速を使っている。
つまり、このマーナガルは、ナノ・マシンを体内に持つ魔獣なのだ。
もちろん、人間を含むあらゆる大陸の生物は、3ヶ月前から体内にグレイ・グーを持っている。
だが、グレイ・グーは、人間以外に影響を与えないよう慎重に調整されているはずだった。
人が、釣ろうとした小魚に殺されたのでは話にならないからだ。
当然、魔獣がナノ強化するなどということもあり得ない。
考えられるのは、ケイブの体内のナノ・マシンだ。
彼と同時に、魔獣にグレイ・グーではない通常ナノ・マシンが魔犬に入った。
いや、おそらくリリーヌが青年の身体から取り出した血をマーランガに与えたのだろう。
不思議なのは、ほぼ100パーセントの割合で体内にWBを持つ魔犬が、ナノ・マシンを使いこなしていることだ。
通常、WBはナノ・マシンを拒絶する。
だが――
考えてみると、魔犬はさっきから一度も魔法を使っていない。
答えは、そのあたりにありそうだった。
本来なら、アーム・バンドを使って、魔犬のナノ・マシンを停止させれば済む話だ。
だが、いま、バンドはひどく破壊されてしまっている。
しばらくすれば、ナノ・マシンによって自動修復されるだろうが、あと20分は使用不可能だ。
それまで待っていると、彼はともかくマフェットたちの命が危ない。
だから、このまま魔獣を倒すしかないのだ。
アキオは再び、崖に開いた穴を見る。
さっき、彼は魔犬の頭を潰しきれなかった。
ナノ強化された生き物であれば、すぐに回復するだろう。
崖の穴が爆発したように吹き飛んだ。
粉塵に紛れて、魔犬が襲いかかってくる。
今度は、直線的な動きを避け、不規則に向きを変えながら地面を走って攻撃のタイミングを計っている。
素晴らしい速さだった。
常人では、目で捉えることも困難だろう。
だが――
アキオはマーナガルの攻撃を待っていなかった。
魔犬程度が考える不規則行動など、百戦錬磨の彼には簡単に予測できる。
加速して、犬の移動方向に先回りをし、足払いを喰らわせた。
空中に浮いたところを、強烈なローキックで道の彼方まで蹴り飛ばす。
即死させるため脳を狙ったが、ナノ強化された野獣の反射神経によって頭への直撃を避けられ、胴体に蹴りが入った。
おそらく、あの程度では死なないだろう。
アキオの口元が、苦笑するように僅かに釣り上がる。
数百年生きる彼だが、ナノ・マシンを体内に持つ生物と戦った経験は数度しかない。
ナノ強化された相手は、滅多に死ななくなるため、敵に回せば、かなりやっかいだ。
まして、野生のマーナガルのように、もともと身体能力の高い生物が強化されていると、なかなかの難敵になるだろう。
彼は、マフェットに、もう一体の魔犬が飛びかかるのを見た。
素晴らしい反応で、ナイフを使って彼女がマーナガルを弾き返している。
だが、力の差は如何ともしがたく、マフェットの身体が倒れそうになった。
アキオは、マフェットに走り寄ると、彼女を狙って地面から跳ね上がった魔犬に会心のボディブローを放った。
「大丈夫か」
ぐしゃぐしゃになって30メートルほど吹っ飛び、地面に転がった魔犬を後目に、マフェットに話しかける。
「ああ、あたしは大丈夫さ。でも、この子たちが――」
そういって、重傷のシッケルとマーランガに目を向ける。
兵士は目を閉じて痛みに耐え、魔犬女王の傷を2体の銀色の魔犬が必死に嘗めていた。
この、ひとりの人間と一体の魔獣は、ともに体内にWBを持っている。
ということは、普通のナノ・マシンでの治癒は望めない。
アキオは、とりあえず状態維持のためにナノ・コクーンを取り出そうとして、さっき魔犬にポーチを跳ね飛ばされたのを思い出した。
目の届く範囲には見当たらない。
まずは、それを探さなければならなかった。
だが、その前に――
アキオは、真っ青になって体を震わせるマフェットの両肩に手を置くと、ゆるく抱きしめるようにして言う。
「大丈夫だ。彼らの傷は完全に治せる」
「ほ、本当かい。このままだと、あたしはマイラに顔向けができない。それにこの子たちにも」
うっすらと目に涙を浮かべるマフェットの髪の毛を、アキオはくしゃくしゃとかきまわした。
妙齢の女性に、ヌースクアムの少女たちと同じような調子で接したことに気づいた彼は、
「ああ、すまない」
そういって彼女の頭から手をどけた。
「いいよ、こんな時だけど、なんだか嬉しい」
「マフェット・アスフェル」
「なんだい」
「魔犬は、もうすぐ復活するだろう。だが心配するな。すぐに片付ける。それまで彼らを守ってくれ」
「もちろんさ」
「だが、無理はするな」
「アルト……」
「なんだ」
「もし――もし、これを無事に切り抜けて、シッケルとマーランガが助かったら、あたしにできる限りのことをさせて欲しい。女としてできることは、もうないけれど」
珍しくアキオが、戦闘中に、笑顔に近いほど表情を緩める。
前に尋ねた時、マフェットは若くなる気はないと言っていたが、今の言葉から考えると本心は別にあるようだ。
彼女が望むなら、いくらでも若返らせることはできる。
だから、彼は言った。
「大丈夫だ。女としてできることは、まだ、たくさんあるさ」
「ほんとかい。じゃ、じゃあ、恥ずかしいけど、精いっぱい女としてお礼をさせてもらうよ」
若干、お互いの理解に齟齬をきたしているようだが、時間がなかった。
アキオはうなずくと、
「ジャッケル」
横たわった魔犬から、目を離さずに名を呼んだ。
このインターバルを利用して、できることはやっておくつもりだ。
「はい」
意外なほど近くから返事があった。
「さっき、俺のポーチが道の向こうに飛んでしまった。探してきてくれないか」
「助けてもらった恩は返します」
「頼む」
その時、彼によって道の彼方に吹っ飛ばされたマーナガルが駆け戻ってきた。
身体は完全回復しているようだ。
地面に横たわっていた、もう一体の魔犬に近づくと、そいつも起き上がる。
2匹は同時に、空に向かって遠吠えを始めた。
激しく吠え続ける。
見る間に、その身体はナノ強化され、1.5倍ほどに大きくなった魔犬2体は、遠吠えをやめて彼を見た。
歯を向いて威嚇する。
「2対1よ、あなたに勝てるかしら、信じられないほど強い兵隊さん」
からかうような言葉が響いた。
目の端に、微笑みを浮かべて彼を見る痩せた少女と、その傍らに困惑した表情で立つ青年を捉えた彼は、軽い口調で応えた。
「試してみよう」
そして、アキオは魔犬に向けて決然と言い放つ。
「来い」