427.痩身
「ねえ、お願いアルト。アルト・バラッド」
少女の声が耳に届いて、彼は意識を取り戻した。
短時間だが気を失っていたらしい。
その間に、昔の経験を夢に見たようだ。
首をつかまれ、いたずらをして捕まえられた猫のように力なくぶら下げられたままケイブは目を開けた。
殴られ過ぎたためか、ひどい耳鳴りで言葉の内容はよく聞こえなかったが、その鈴のような声は彼女に違いなかった。
目だけを動かして声の方角を見る。
そこに、彼の少女がいた。
指輪の位置など見なくてもわかる、リリーヌだ。
花の盛りであるはずの年齢で、見る影もなくやせ衰えて、腕も脚も棒のようになってしまった少女だった。
その顔も痩せすぎて目ばかり大きく、頬骨が飛び出し顎が尖って、かつての美しさの面影はない。
マフ姉に助けられ、月猫亭で暮らし初めて3年が経つころ、捜し続けていた少女の方から連絡がきた。
いかなる方法で彼を見つけ出したのかは分からなかったが、小躍りして読んだ彼女からの文は、喜びと不安の両方を彼に与えたのだった。
その中で、少女は、エカテルの屋敷で働くことになったことと、それまでに一度、彼の街まで会いに行くことを記していた。
文を読んで、彼は、再会を喜ぶより不安のために蒼くなった。
ディフラクト商会が潰されて4年、当時は、なぜ、エカテル商会があれほど乗っ取りに執念を燃やしたかわからなかったが、数年を月猫亭で暮らした今の彼にはよくわかる。
あれは、エカテル商会がディフラクト商会に執着した乗っ取りではない。
エカテルのバカ息子が、美しいフラネルに冷たく拒絶された復讐だったのだ。
少女たちと別れたあとで彼は思い出したのだった。
エカテル商会が敵対する少し前に、フレネルは困ったように、リリーヌは小馬鹿にしたように、さらりと嫡子であるラミオ・エカテルの誘いを撥ねつけたと言ったことを――
あまりに些細な出来事として、世間話のついでに話す少女たちの口調に乗せられ、長らく彼もそのことを忘れていた。
世間には、こうしたことはよくある。
おそらく、少女たちは、自分に向けられた好意を、何気なく断っただけだったのだろう。
しかし、相手からすれば、それが自分のすべてを否定したように感じることがあるのだ。
特に自尊心の高い人間にとっては。
もしそうなのだとすれば、彼女がエカテル邸に勤めるのは危険だった。
ある種の男は、手に入らない女性に対して、異常な憎しみを抱くものだからだ。
彼も、月猫亭で何度かそんな光景を目にしている。
「久しぶりね、ザイアン」
シュテラ・ミルド中央公園の、遊歩道から少し離れた陽だまりにある木製の椅子に腰かけてリリーヌが笑いかけた。
少女は気軽な調子で声を掛けてくるが、彼は、久しぶりに会った彼女の変わりように唖然としていた。
美しく肉づいていた少女の身体は、病み上がりのように痩せて骨と皮だけになり、整った顔立ちは、目ばかり大きく目立つ異様な表情になっている。
有体に言えば、彼女は醜くなっていたのだ。
「驚かせたわね」
痩せ衰えた姿とは異なり、意外にしっかりとした口調で彼女が話しかける。
「大丈夫よ。病気じゃないから」
彼は口を開きかけ、閉じた。
彼女がそういうなら、そうなのだろう。
それよりも要件だ。
彼には、彼女に言わねばならないことがある。
そして、リリーヌにラミオ・エカテルの復讐心について語った。
「ああ、気がついたのね」
あっさりと少女が言う。
「その通りよ、あいつは、わたしにふられた腹いせに、ディフラクト商会に採算度外視の攻撃をしかけて潰したの」
「だったら――」
彼の抗議の声にかぶせるように彼女がいう。
「だからこそ、この姿なのよ」
「え」
「何か月も前から、わたしは計画的に食事をひかえているの。これから仕上げに入って、バカ息子の家に勤める頃は、あいつがわたしの身体に手を出したくなくなるような姿になっているはずよ」
「君の身体が心配だ」
「大丈夫。加減をみながらやってるから。フレネルには申し訳ないけれど」
「彼女は、自分の身体のことをどう思っているんだ」
「あたしが寝ている間に言い聞かせる効果もあって、ちょっと体調が悪いくらいに思っているわ」
「ちょっと、どころじゃないだろう」
リリーヌは、くすり、と笑い、
「あの子は、ああ見えて結構抜けている、っていうのはひどいわね。細かいことは気にしない、鷹揚な性格なのよ」
「シュテラ・ナマドに来たことを彼女はどう理解しているんだ」
「あなたが手紙をくれたから、勤め始める前に会いに来たと思っているわ」
「俺が手紙を?」
「もちろん、わたしが偽造したのよ。この何年かで、わたしは偽造の専門家になったの。そして彼女の心に働きかけて、自発的に思いついて、ここまで来たと思わせた。あとで、わたしは裏に引っ込むから彼女に優しくしてやってね」
彼はリリーヌを見つめた。
「なによ」
「君は、冷たいところもあるが、フレネルに対しては本当に優しいな」
「な、何をいきなり」
心なしか蒼ざめた頬を紅潮させながら彼女が顔を背ける。
「あの子に元気でいてもらわないと、わたしにも不具合が出るからよ」
「わかった、わかった」
「あと、容姿のことはいわないでやってね。気にするだろうから。本当は、こんな方法はとりたくなかったんだけど、仕方ないわ」
「健康に問題はないんだな」
「ええ、痩せることも計画のうちだから」
「計画……」
彼はつぶやいた。
「つまり、君は、いよいよエカテルを潰そうとしているのか」
「潰す?とんでもないわ。ザイアン・ファレノ。少し痛めつけて、全部わたしたちがもらうのよ。そのためには屋敷の中に入ることが必要なの。でも、あいつに身体をおもちゃにされるのは嫌。だって――」
少女は筋張った指で彼の手をつかむ。
「わたしとあの子の全ては、あなたのものだから」
思わず、彼は彼女を抱きしめた。
痩せた肩が彼の胸に刺さるように当たる。
その痛みが少女の決意の強さを示しているように感じて彼の目頭が熱くなった。
「だからこそ、この身体なの。あいつは、今のわたしの姿なら、決して手を出してこないだろうから」
「そうかな」
彼は疑い深そうな声を出した。
初めのうちこそ驚いたが、今の彼の眼には、少女は、昔と変わらない美しいリリーヌに映っているからだ。
「やっぱり、あなたは素敵ね。大好きよ、ザイアン、でも大丈夫」
そう言って、少女は骸骨めいた腕を伸ばして彼に見せ、
「あなたには見られたくないし、見せないけど、服に隠れた部分はもっとひどいのよ。だからわたしは安全――」
そう言って彼女は笑うが、やはり彼は不安になる。
女として手に入れることができないと分かれば、憎しみの対象として扱われるのではないのか?
そんな彼の表情を、機敏に読み取ったのか、
「心配しないで。いじめられるのは慣れてるから。ザイアン、わたしを信じて。この計画がうまくいけば、わたしたちは、エカテル商会のすべてを手に入れることができる」
「わ、わかったよ」
戸惑いながら返事を返す彼に、彼女は今後の計画を話した。
「というのが大まかな道筋ね。急がなくていいのよ。わたしの準備が整うまで1年近くかかるから。あとは、あなたが強くなることが肝心ね。本当は、もう少し手駒が欲しいんだけど」
「それなら手はある」
そういって彼は少女に、世話になっている月猫亭の女主人が、魔犬の女王を操る笛を持っていることを話した。
「それは使えるわね。まだいいから、いつでも手に入れられる用意をしておいて」
「了解だ」
それから一年足らず、ある出来事がきっかけとなって、素晴らしい力を手に入れた彼が、指示された方法で連絡を取ると、彼女の方でも用意が整ったと返事が来て、計画は動き始めたのだった。
ここまでは順調だった。
いくつか他の商会の隊商を織り交ぜながらエカテル商会の商売に打撃を与え、そして、ついに予定通りにロメオが取引先への謝罪のために同行することになった。
あとは、バカ息子を殺せば、王都で彼女が仕掛けた巧妙な罠が発動して、エカテル商会は、彼女のものになるはずだった。
それなのに――こんな化け物が出てくるなんてついてない。
彼は、自分を、軽々と片手で持ち上げるアルト・バラッドを見た。