426.逐電
「だからって、殺すなんて」
「もう遅いのよ、ザイアン」
少女は立ち上がると彼に近づき、手を差し出した。
「ヤフト商会のノリス、フレネルを誘拐しようとした傭兵、わたしはもう何人も手に掛けているの。わたし、つまりフレネルがね」
手を伸ばしたまま、少女が続ける。
「どうする。わたしを衛士に突き出す?」
「そ、そんなことは」
「放っておけば、わたしはまだまだ殺すわよ。だって、フレネルの周りは敵だらけで、この子は無防備すぎるもの――もう一度聞くわ、ザイアン、あなたはわたしの、この子の味方?それとも敵?」
そうたずねて、可愛い顔で少女が笑った。
可愛く、恐ろしい笑顔だ。
その笑顔が彼の最後の抵抗を打ち砕く。
ああ、俺はこの笑顔が好きなんだ。
愛らしい笑顔、でもその眼は決して笑っていない。
氷の眼だ。
少女の瞳を見るたび、彼は噂に聞く、かつて王室にあったと言われている空色光玉もこんな輝きをしていたに違いないと夢想する。
「もちろん、味方だ」
少年はそういって少女の手を取り、力強く握った。
少女は彼の手を握り返しながら、囁よう優しく言う。
「強くなってね、ザイアン。この子を苦しめる奴らから守るために」
その日から、少年と2人の少女との奇妙な交流が始まった。
今、起きているのがどちらかを彼に教えるために、家名の入った小さな指輪を使う、とリリーヌは言った。
「これまでどおり、左の中指にはめていたらフレネル、右の指にはめていたらわたしっていうことでいい?」
少年はうなずく。
そうしてもらえば、何も知らないフレネルに間違えて余計な話をすることもないだろう。
サンクトレイカで商売をするということは、単純、安泰な道ではない。
その後の数か月、商会と少女には様々な困難が降りかかったが、その全てはリリーヌと少年の連携で跳ね返すことができた。
「やったわね、ザイアン。これからもフレネルを守ってやってね」
リリーヌの計画にしたがって学習所教師の嫌がらせを阻止した時、美少女は彼の手を握って、飛び上がるような熱い調子で礼を言ったのだった。
狭い路地の壁の上に立つ彼らの足下には、フレネルを目の敵にしていた女教師が足を骨折して転がっている。
少年は、無残に、あり得ない方角へ足を曲げて気絶する女を見ても残酷だとは思わない。
あの女は、ある級友の親に取り入るために、異常なほどフレネルに辛く当たったのだ。
他ならぬリリーヌの発言なのだから、間違いはない。
いま、彼女は、興奮に頬をフリュラの色に染めて笑っている。
その様子を見ながら、少年は、彼女たちのためなら何でもすると、改めて心に誓うのだった。
そんな彼でも、時には奇妙な気分になる。
日によって少女はフレネルであったり、リリーヌであったりするわけだが、ふたりは性格も違えば、話す話題もまったく違うから、まるで双子の姉妹と同時に付き合っているような気持になるのだ。
おもにフレネルのために、彼は、指輪の位置を見て話題や口調さえも変えなければならないのだ。
しかし、不思議と少年は、それを面倒とは思わなかった。
フレネルには、お嬢さまらしい素直で善良な彼女の良さがあり、リリーヌは悪事すら飲み込む隙のなさが魅力があって、それに彼は夢中だったからだ。
少年は、夢みるような気分で少女たちとの日々を過ごしていく。
だが、平和な日々は短く、やがて彼ら少年少女ではどうにもならない大波がディフラクト商会を飲み込んでしまったのだった。
波の正体は、同業のエカテル商会だった。
ふたりは策を立て、殺人を含む、さまざまな対抗策を講じたが、王族の後ろ盾を持つエカテルに、最終的にディフラクト商会は、吸収解体されてしまうことになってしまった。
奇妙だったのは、エカテル商会の執拗ともいえるディフラクト商会潰しへの執念だった。
それまでは、お互いに競合会社ではあったが、あからさまな敵対はしていなかったはずなのだ。
半年に及ぶ、商売上の攻防の中で、精神をすり減らした少年の父が倒れた。
わずか数日寝込んだだけで死んでしまう。
それから先、実務主任を失ったディフラクト商会が潰れるのは早かった。
最終的に、フレネルたちは屋敷を出て再起を図ることになる。
父をなくした少年には、なぜか豊かだったはずの財産が残ってはおらず、ほとんど親交のない遠縁を頼って、王都を遠く離れた、西の国近くの街へ移動することになった。
「元気で過ごすのよ」
旅立つ日の前夜、すでに売れるものはすべて売り払ったディフラクト邸の庭で少女が言った。
指輪は、右手にしているからリリーヌだ。
「俺は問題ない。フレネルは君がいれば大丈夫だろう」
不意に少女が少年の手を握った。
「ザイアン。わたしたちは、しばらく離れるだけ。いずれ必ず合流するわ。だから、この別れの時間を使って強くなってね。あなたがどこにいても、わたしはあなたを見つけ出して連絡するから――いい、ザイアン。あなたはわたしのもの、それは忘れないで」
そう言われて、少年は首筋の毛が逆立つほどの感動を覚える。
「もちろん、俺は君のものだ。心配しなくてもいい。必ず、もっと強くなってみせるから」
翌朝、指輪を左の指にはめた少女は、別れの挨拶をする彼を前に、ただ泣きじゃくるだけだった。
「泣くんじゃない、フレネル」
少年は優しく少女の手を取った。
「ごめんなさい。でも、ザイアン、わたし、わたし――あなたと離れたくない」
少年は、嘘でも少女を安心させるべきだと考えて言う。
「大丈夫だ。俺が必ず君を迎えに行くから。それまで元気に暮らすんだよ」
わたしがあなたを見つけるっていったじゃない、そう少女の中で笑うリリーヌの声が聞こえるようだ。
「わかったわ」
少女は気丈に微笑んでみせ、
「あなたを信じる。きっと迎えに来てね。待っているから」
少年は、フレネルの手を力強く握ると別れを告げて街を出たのだった。
だが、初めて一人旅をする彼は、馬車の相場も乗り方も分からず、様々な無駄な出費を重ねたあげく、なけなしの金をかき集めて作った旅費を目的の街に着く前に使い切ってしまった。
少年は、何とかたどりついた、目的地のはるか手前の街で、知恵と体力を駆使して何とか生活を始めた。
ほどなく彼は、街の浮浪児たちの中でも一目置かれる存在となった。
喧嘩の強い奴は多かったが、彼のように格闘の専門家に学んだものはいなかったため、素人同然の彼らを容易に叩き伏せることができたからだ。
よほど水が合ったのか、見る間に少年の態度、物腰、言葉遣い、そのすべてから坊ちゃん育ちの甘さが消え、一癖も二癖もある浮浪児の首領が生まれた。
遠縁の親戚を頼ることなど、すっかり忘れてしまった彼は、少女リリーヌのやり口を緩くまねて、盗みや置き引きなど小さい悪事を重ねていく。
だが、その生活も長くは続かなかった。
その日暮らしの生活にも慣れ、それなりの強さも身につけた頃、彼の街に、どういうわけか、王都を逃れた組織の連中がなだれ込んできたのだった。
暴力に慣れた彼らに、浮浪児の集団は為すすべなく壊滅させられた。
だが、組織の男たちは、執拗に首領である彼を追い続ける。
彼は逃げた。
こんなところで捕まるわけにはいかない。
少年は、フレネルを迎えにいかなければならないのだ。
夜になるまで逃げ続けたあげく、待ち伏せにあって、あやうく捕まりそうになった彼が、とっさに灯の消えた窓から逃げ込んだ部屋には先客がいた。
甘い香りがするところを見ると女のようだ。
「おやおや」
良い声が響いてメナム石が灯された。
「この年になって、若い男に忍び込まれるなんて、わたしも捨てたもんじゃないと喜んだけど、あんた、まだ子供じゃないか」
振り向いた彼の前に、背の高い女が立っていた。
年老いて髪が白くなってはいるが、若いころは、さぞ美しかったろうと思われる容姿をしている。
「あんた、追われてるんだろう。かくまってやるよ。なに、こういったことには慣れているから安心するがいいよ」
女は彼をじっと見る。
「しかし、似てるねぇ。登場のしかたまでそっくりってのはどういうことなんだろうね」
女の世間話をするように明るい口調に、少年は肩の力を抜いて床に座り込んだ。
「まずは礼をいう。俺の名は――」
「ああ、名前はいわなくていいよ、どうせ、ろくでもない過去を引きずってる名前だろうからね」
そういって、女は豊かな白い髪を揺らしながら微笑んだ。
「あたしについてくれば、何とかしてやるよ」