423.埋葬
公園での、夢のような半日が過ぎてから7日後、彼が学習所から帰ると、珍しく父が屋敷にいて、黒い服に着替えていた。
ほとんど姿を見せない彼の父が、たまにこうして家にいる時は、何かしら理由がある。
祝い事の時もあるが、たいていは取引先の誰かが亡くなったときだ。
帰宅の挨拶だけをして、部屋に行こうとした彼を珍しく父が引き留めた。
「ザイアン、お前、フェドラ商会のお嬢さんを知っているかい。お前と同い年のはずなんだが」
「知らない」
間髪を入れずに少年は答える。
フレネルならともかく、彼女以外に女の知り合いなどいないし、必要でもない――いや待てよ、フェドラ商会?
少年は少女の名前を尋ねる。
「エルノだ。エルノ・フェドラ」
彼の脳裏に、褐色の髪の、気の強そうな少女の顔が蘇える。
「その子がどうしたの」
「亡くなったんだよ、昨夜」
「死んだ……」
少年の胸が、どくん、と大きく拍動する。
「ザルドから落ちたの?」
資産家、上流階級の娘は乗馬を趣味にするものも多く、したがって事故も多い。
「いや、まだ原因はわからないが、突然苦しみ出して死んだらしい。顔が紫色になって腫れあがり目から血を吹き出すという、かなりひどい死にざまだったようだ。噂では、召使によって食事に毒が入れられたのではないかとの疑いがあって、衛士が屋敷の者を調べているそうだが――いや、知らなければいいんだ。わたしはこれから、葬儀に出てくるからね」
父と別れ、自分の部屋に戻る少年の心臓は早鐘を打っていた。
サンクトレイカで人が死ぬのは珍しくはない。
知り合いの隊商が魔獣に襲われて全滅することなど日常茶飯だし、重い病気にかかれば、ほぼ助からない。
事故も多い。
現に彼の祖父も馬車に轢かれて死んだ。
だが、毒殺となると話は別だった。
服毒死自体、王国では珍しい死に方ではないが、その多くは貴族間の争い、あるいは王位継承の過程で行われる。
少年が、そういったことに詳しいのは、祖父の話に毒殺がよくできてきたからだ。
かつて国軍の兵士であった祖父が、眼に涙を浮かべて何度も語ったのは、愛らしく、信じられないほど美しかった王女ユーフラシアの毒殺だった。
彼女が兵の練度を見に来るだけで、彼らの士気が弥増ますほど、兵は王女を敬愛し、彼女も王兵を大切にしていたらしい。
そのユーフラシア王女が毒殺された。
絶世の美姫の小さな棺を、遺体を安置する王廟へ運ぶ道すがら、彼ら兵士は涙を流し続けたのだという。
その直後、祖父は貴族の内紛に嫌気がさして兵士を辞め、各街を放浪したのちにシュテラ・ナマドで傭兵となったのだった。
ユーフラシアさまを殺すような王族に仕えるより、金で商家に雇われた方がましだ。
刀傷で半分閉じた右目を光らせて、いつも祖父はそう憤っていた。
つまり――
それほど毒殺は、高貴な人々の間でのみ使われる、特殊な殺害方法だったのだ。
少年の周りでも、様々な形で死はいつも存在したが、毒殺は聞いたことがなかった。
しかし、なぜ自分の胸は激しく動悸したのだろう。
部屋に帰って横になり、窓から赤い夕焼け空を眺めて彼は考える。
あの娘、エルノ。
あんなに元気で生き生きとフレネルに対して怒っていたのに死んでしまうなんて――
ばっと、少年は身体を起こした。
このことをフレネルは知っているのだろうか。
もちろん、知っているだろう。
それどころか、同じ大手商会のつきあいで、今夜の埋葬に参加しているかも知れない。
彼女は、エルノの死をどう思っているのだろうか。
少年はしばらく物思いに沈んでいたが、頭を振って立ち上がった。
窓に手をついて、暗くなった夜空に上った3つの月を見上げて彼は決めた。
あと4日すれば、少女と会う日がくる。
その時に、彼女とエルノの毒殺について話をしよう、と。
それからの数日、時間が過ぎるのを、ひどく遅く感じながら少年は過ごしたのだった。
やっと、その日が来た。
前回同様、図書館前で彼女と待ち合わせた彼は、すぐに館内に入らず前庭に彼女をさそった。
ふたり並んで、人気の無い庭園に向かう。
よく整備された美しい庭には、小さな泉がつくられ、水鳥が水浴びをしていた。
「フェドラのお嬢さんだけど」
おもむろに彼が口を開いた。
鳥を眺めていた少女が、つと顔を上げ、彼を見た。
その顔が、ついこの間会った時より何倍も大人びた、神秘的なものに見えて、彼の呼吸は止まりそうになる。
「エルノさまのことね。埋葬にはわたしも参加したわ」
「毒殺って聞いたけど」
「わたしもそんな噂を耳にした。ある商人が、フェドラ商会にひどい扱いを受けたのを恨みに思ってやった、っていわれているけど」
「貴族でもないのに毒殺なんて」
「そうね。でもエルノさまなら貴族のように殺されて満足だったかも――」
「なんだって?」
少年の言葉を遮るように、少女が彼の胸にしなだれかかった。
「ザイアン」
甘く彼の名を呼ぶ。
少女の頭が彼の顎の下で揺れて、少年の心臓は爆発しそうになった。
「わたし恐いの。うちの商会だって、その気はなくても、色々な商店や商売敵から恨まれることもあるでしょう。いつわたしや家族が殺されてもおかしくないもの」
少年の頭にかっと血が上る。
「そんなことはさせない。君は絶対に僕が守ってみせる」
「うれしいわ、ザイアン。あなたなら、きっとわたしが誰かに襲われても守ってくれるでしょう。信じているわ」
「あたりまえさ」
ぎこちなく回した手で少女を抱きしめた少年は力強く言い切った。
その日から、ひ弱な金持ちの子息だったザイアン・ファレノは、貪欲に強さを追い求めるようになった。
週に2度、傭兵崩れの男について戦い方を学ぶ。
始めは渋った彼の父も、いずれ商会の隊商に伴って旅をするのだから、自衛するために、闘いを学びたいという彼の熱意に折れたのだった。
その傭兵は、剣ではなく格闘の専門家だったので、彼は専ら肉体を鍛えさせられた。
後になって考えると、武器を持たせるのを嫌がった父の考えが反映されていたのだろう。
体質によるものか、大きく筋肉がつくことは無かったが、見る間に彼は強くなった。
男から、悪い言葉遣いも学んだ彼の自称は、僕から俺に変わる。
そして、少女と知り合って1年が過ぎるころ、彼は恐ろしい真実を知ったのだった。