422.毒素
「これはね、ドリンブル。ドリンブの実を二晩煮詰めてつくるお菓子よ」
少女から手渡された、小さなパオカゼロに真紅の具を挟んだ菓子を一口食べた彼は目を丸くした。
こんな美味しいものは食べたことが無かったからだ。
彼の反応を見てフレネルが笑う。
「滅多に食べられないものだから、味わって食べるのよ」
「あらあら」
横から声がかかり、少女の表情がわずかに硬くなった。
声のした方を見ると、褐色の髪のきつい顔立ちの美少女が彼らを見て笑っていた。
「ディフラクトさまは、ドリンブル程度のお菓子を、たまにしかお食べにならないのかしら?」
「エルノさま」
にこやかな笑顔に戻った少女が会釈をしながら、話しかける。
「わたしくどもは、ほんのささやかな商売を王都の片隅でさせていただいているだけです。サンクトレイカ一大きな商売をなさるフェドラ商会の皆さまのような生活は到底できません」
エルノと呼ばれた少女の眼が釣り上がった。
もともときつめの顔がさらに冷酷な顔になる。
「また、あなたは、すました顔でそんな嫌味な当てこすりを!」
そういって、手にしたカップの液体を、フレネルに向けて振りかけた。
メナム石の光を受け、緑色に輝きながら飛ぶ果汁を見て、少年は、咄嗟に彼の身体で少女をかばう。
緑の液体は、大部分が少年の正装にかかり、少女のドレスにも少しだけ飛沫が飛んだ。
「失礼、手が滑りましたわ」
そういって、少女は褐色の髪を揺らして取り巻きたちと一緒に去って行った。
「大丈夫、ザイアン」
少女に名を呼ばれて、彼は小さく身震いする。
「なんでもありません。ぼ、わたしの服は黒ですから。あなたの方こそ、ちょっと飛沫が飛んだのではありませんか」
「ありがとう、わたしは平気よ」
少女は、手を上げて給仕を呼び、布を受け取った。
それを彼にわたしながら言う。
「昨年の売り上げで、フェドラ商会がディフラクトにわずかに及ばなかったのを根に持って、ああいった他愛のない悪戯をされるのです」
少年は、眉間に皺を寄せた。
サンクトレイカで、貴族でない良家の子女が通う学習所は決まっている。
おそらく、フレネルはあの少女と同じ場所で毎日顔を合わせているはずだ。
少年の表情の動きを機敏に読み取って、少女は笑顔を見せた。
「そんな心配な顔をしないで。こう見えても、わたしは強いのですよ――それよりザイアン、あなたの服はひどく濡れてしまいましたね。早くおうちに帰って着替えてくださいな」
そう言ってから、少女は声をひそめ、
「ザイアン・ファレノさま、これから、仲の良いお友だちになってくれますか?。さっきのように、身を挺して庇われたことなど生まれて初めてです。まるで立派な騎士さまのように……どうか、わたしの心よりの感謝をお受けください」
輝くような美少女の懇願に近い申し出を受けて、彼の気持ちは夜空高く舞い上がる羽のようだった。
「ぼ、いえ、わたしでよろしければ、喜んで」
「ありがとう。では早速ですけど、明日の午後、時間はおありですか?」
「はい」
「わたくしは英雄物語が好きなのですが、屋敷にあるご本は全部読み終えてしまったので、図書館で本を借りたいのです」
「ああ」
少年はうなずいた。
図書館の本は誰もが閲覧、貸出できるのではない。
登録した資産家だけが利用できるのだ。
そのためには、家の当主の許可がなければ利用できないが、多くの家長は、娘が本を読んで余計な知識を身につけることを好まないため、本好きの少女たちは、知人の男性を介して図書館を利用するのだった。
「いいですよ」
「では、明日、約束ですよ」
彼の腕をつかんで顔を近づけ、少女が目を輝かせた。
「午後に図書館で待ち合わせ!」
「わ、わかりました」
こうして少年は、生まれて初めて少女と、しかも、まごうことなき美少女と待ち合わせの約束を交わしたのだった。
屋敷に帰って服を着替えると、彼はすぐに横になった。
少しでも早く明日の午後になるように。
翌朝、日が昇る前から彼は目を覚ました。
学習所になんか行きたくはなかったが、どうしても出席しなければならない講義があったため、少年は仕方なく屋敷を出た。
退屈な時間が過ぎ、待ちかねた午後になる。
しかし、間が悪いことに、午前中の課題に問題があったと言われ、少年は居残りをさせられたのだった。
ようやく解放された時には、約束まであと少しという時刻になっていた。
学習所から走り出た少年は、図書館へ向け急いだ。
目抜き通りの角を曲がると、石造りの古い建物が見える。
石段の前にフレネルが立っていた。
彼の眼には、少女の周りだけ強く午後の陽光が当たっているかのように輝いて見える。
「ごめんよ。待たせたかい」
息を弾ませ謝る彼に、
「いいえ」
実際はかなり待たせたに違いないが、嫌な顔一つ見せずフレネルは微笑んだ。
「さあ、行こう」
久しぶりに図書館に来たという少女は、嬉しそうだった。
その様子を見るだけで、彼の気持も暖かくなる。
フレネルは、分野別に分けられた館内を足早に移動して、様々な種類の本を見つけ出して行った。
物語が好きだと彼女は言ったが、彼女の興味は多岐に渡っていて、最終的に貸し出しを依頼した十冊の書物の中で、英雄物語は2冊に過ぎなかった。
貸出冊数は、図書館に行う寄付の金額によって定められていて、少年の父は、彼のためにかなりの額の寄付を行ってくれていた。
普段は、そんな父の期待がうっとおしかった彼だが、この時ばかりは心の底から父に感謝したのだった。
それから5日後、彼女から文が届いた。
本を借りさせてくれたことへの感謝の文だったが、そのなかで彼女は、王都北東の街壁近くにある、湖沼公園への散策へ彼を誘っていた。
もちろん彼は承諾する。
女性への生まれて初めての文を、何度も書き直して彼は返信したのだった。
そして10日後、約束の時間よりずっと早く家を出て、公園の入り口で待っていた彼は、誰か供を連れて来るとばかり思っていた少女が、独りで可愛い服に身を包み、肩から大きめの鞄を斜めにかけて現れたのをみて驚く。
「お友だちのお家に行くと言って出かけてきたの。あ、大丈夫よ。ちゃんと話は合わせてくれるよう、頼んであるから」
「どうしてそんなことを?」
「あなたとふたりだけで、ゆっくり歩きたいからに決まっているでしょう。ザイアン」
その言葉だけで彼の心は舞い上がった。
ふたりで肩を並べて、整備された木道を歩いていく。
湖沼公園は、木道など人が歩く周辺は一応の手入れはされているが、中に生息する動植物は、ほとんど人の手がつかないままだった。
博学な美少女は、歩きながら、珍しい虫、花や木を次々と彼に教え、時折、持って帰りたいから取ってほしいと少年にねだった。
彼は腕まくりをし、林に分け入り沼につかり、できる限り少女の希望にそうよう努力する。
フレネルは不思議な少女だった。
綺麗な花より、苔やシダのようなものを見て大はしゃぎするのだ。
一番の難関は、湖沼地区いち小高い丘の崖にある鳥の巣に似たものを取ることだった。
さすがに躊躇する彼だったが、悲しそうに彼を見る少女の顔を見て、身を乗り出してなんとか手に入れることができた。
「ありがとう、ザイアン」
危険な作業を終えた彼は、飛び跳ねるようにして彼の手を取るフレネルの姿を見て再び有頂天になる。
自分は、美しい少女と知り合い、彼女のために命をかけることができたのだ。
まるで、かつて祖父が話してくれた思い出話の主人公のようではないか――