420.敗北
地面に転がり、土を削りながら青年は20メートル近く滑った。
服が破れ、身体の皮がむけて血が地面に染みていく。
しかし、不思議に痛みは感じない。
ケイブは跳ねるように起き上がった。
殴られた時に体内に轟いた骨の折れる音が、嘘のように身体はよく動く。
数か月前に、急に強くなってから、こんなにひどく殴られるのは初めてだった。
怪我をしたのも。
追撃を警戒し、身を屈めながら、そっと手で背中に触れる。
傷は完全に治っていた。
それで、彼は、自分が強くなるとともに怪我をしない身体になったことを理解した。
アルトが、ゆっくりと彼に近づいてきた。
彼の手前30エクル(6メートル)ほどで立ち止まる。
青年は、口の中にたまった血を吐いて言った。
「やっぱり、あんた強いな。だけど、まだまだだ。俺は怪我もしちゃいない。やっぱり戦うのは楽しいぜ」
言い終わるが早いか、彼に向かって突進する。
気が抜けたように、彼を見ているアルトに向かって、ケイブは袖に隠したナイフを手にして右から突き刺すフェイントをかけ、立ち上がる時に左手に握った土を、彼の動きを見越して左側に投げつけた。
これでナイフを逃れて左に逃げる奴の眼をつぶせるはずだ。
そう確信したケイブの目が、驚きに見開かれた。
予想に反して、アルトはまったく動かなかったのだ。
あり得ないことに、彼の突き出したナイフを、そのまま指で挟んで止めている。
「これでは、俺は刺せないな」
そういって彼の指先が少し白くなると、ピン、という小気味よい音が響いてナイフの刃が根元から折れ飛んだ。
「くそっ」
ケイブは短く叫ぶと、折れたナイフの柄を捨て、今までで最高のパンチを繰り出した。
強くなってから、彼の全力の拳を防いだものなど、ひとりもいない。
だが、アルトは、あっさりと彼の手首を掌で弾き、反対の拳で彼を殴ってきた。
ケイブはその手を弾き、今度は右足で彼を蹴り上げる。
その足はアルトの膝によって止められた。
これらの動きは一瞬の間で、さらに戦いが続く。
凄まじい速さで突きと蹴りの攻防が繰り広げられ、6回目の蹴りを止めたケイブの腹に、アルトのパンチがまともに入った。
さっきと同様、痛みはさほど感じないが、身体は正直に反応して、ケイブの動きは格段に鈍くなった。
アルトの手刀、膝蹴り、肘うちを受けた手足の折れる音が、骨を通じて不気味に耳に響く。
ケイブは、地面に頽れた。
アルトは、そんな彼を、追撃もせずに、じっと見下ろしていた。
骨折はすぐに治癒する。
「おおっ」
唸り声を上げて立ち上がったケイブは、後ろに数メートル飛び下がった。
不気味に沈黙する男を見る。
「こんな、こんなバカなことがあるもんか」
彼は呻くようにつぶやいた。
ケイブは、腕試しに、これまで多くの魔獣を倒してきた。
ゴランの群れすら生け捕りにするほど強い彼に、アルト・バラッドは余裕の戦いを見せているのだ。
これでは……まるで、噂に聞く魔王ではないか。
彼は、アルトの青みがかった灰色の髪の色と緑の瞳を見た。
いや違う、こいつは魔王じゃない。
魔王は、黒い髪、黒い瞳と聞いている。
だいたい、そんな化け物が、この世界にいるはずがない。
彼は、昔、シッケルに教えてもらった通り、深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
アルトが強いのは確かだが、人間の範囲内だろう。
だが、俺は人間を越えている。
負けるはずがない。
ケイブは、足と腕に意識を集めた。
こうすると、実際に腕と足が太くなって力が増えるのだ。
ドン、と音を立てて踏み込むと、彼は凄まじい速さでアルトに襲い掛かった。
一直線に灰色の髪の男へ突進し、顔に拳を突きだす。
が、アルトは、ほんの少し体を捻るだけで、それをいなしてしまった。
目標を外された青年は、止まることができず崖に拳を放つ。
轟音が響いて、岩壁が大きく円形に抉れた。
倒れたまま、その光景を見ていた兵士たちから驚きの声が上がった。
罵声をもらしたケイブは、振り返りざま、再びアルトに突進する。
今度は、彼も逃げなかった。
ケイブの頬に残忍な笑顔が浮かぶ。
これで確実に、こいつを倒せるはずだ。
アルトの顔に向けて、青年は腰の入ったパンチを放った。
が、何も起こらなかった。
アルトが、片手でケイブの拳を掴んで、受け止めていたからだ。
青年は、手を振りほどくと、再びアルトに連打攻撃を加えた。
今度は4度目の攻防で、アルトの肘打ちがわき腹に入った。
口の中に血があふれる。
ケイブは、激しく咳きこんで膝をついた。
折れた肋骨が肺に刺さったのだろう。
地面に手をついたまま、ケイブはなかなか立ち上がれない。
今回は、さすがに、さきほどより回復に時間がかかるようだ。
「そりゃないぜ」
血と共に青年は言葉を吐き出した。
さすがの彼も、これもまでの殴り合いではっきり悟ったのだった。
アルトの方が、彼より力が強い。
それだけではなく動きも速かった。
彼が3回殴る間に、奴は4回、いや5回殴る。
彼が5度蹴る間に、アルトは7度蹴るのだ。
こんなはずない。
俺は世界で一番強い男のはずだ、あの日から――
ふらつきながら、ようやく立ち上がった彼にアルトが近づいてきた。
彼の回復を待っていたようだ。
「ちょ、ちょっと待って――」
ケイブの言葉は聞き入れられず、そのまま彼の腰の入ったパンチを受けて吹っ飛ぶ。
空中を飛びながら、青年は、何がなんだかわからないが身体が滅茶苦茶になったことだけは理解する。
実際、彼の胸の骨は微塵にくだけ、肺は両方とも裂けていた。
心臓も破裂している。
胃も十二指腸も千切れて体内がグズグズの肉塊となっているのだ。
受け身も取れないまま激しい勢いで壁にぶつかると、他の臓器、脾臓、腎臓も破裂した。
しかし、彼は死なない。
気も失わない。
それどころか、身体が急速に回復しつつあるのを感じる。
だが、もはや、そのことを彼は喜べなかった。
身体が元に戻っても、奴がもう一度破壊するだけだ。
それに――
寒かった。
真冬の川の水に使ったように、全身が氷のように冷たかった。
崖にできた窪みの中で、ガタガタと肩を抱いて震える彼に影が落ちる。
見上げると、逆光で全身を黒くしたアルトが立っていた。
その身体は大きく、恐ろしい化け物に見える。
まるで、うわさの――
「ひ」
たまらず声を上げかけたところへ彼のフックが頬を襲った。
右、左、右と連打される。
殴られるたびに首が千切れそうに頭が回転して、衝撃で目の前が赤くなり、方向感覚が消し飛んだ。
左目が真っ赤になったのは、おそらく目玉が破裂したのだろう。
「う、うう」
攻撃が終わり、地面に平たくなった彼の身体の下に靴が差し込まれ、上に蹴り上げられた。
血まみれの皮袋のようになった身体が跳ね上がって、一瞬、立ち上がった体勢になったゲイブの無事な右目に、アルトが拳を構えて殴る体勢に入る姿が映った。
「う、うわあぁぁ。た、助けて」
彼が叫ぶ。
実際には、顎が破壊されているので、ほとんど意味不明の叫びだが――
それに構わずアルトのパンチが放たれようとしたとき、
「もう勘弁してやっておくれ!」
必死な女の声が響いた。
彼の拳は止まらず突き出される。
爆発するような音が響いて土煙が上がった。
アルトは拳を引き、地面に崩れ落ちようとするケイブの首を掴んで立たせたままにした。
「うう……」
ぶら下げられた青年は、無事な右目を動かして、頭の横にできた大穴を見て震えあがる。
目から涙が零れた。
「まだ、闘いが好きか。もっと闘うか」
彼の静かな問いに、ケイブが必死で首を振った。
青年を見ながら、アキオは考える。
コンケイブ・アスフェルは子供だ。
彼も、アラント大陸に生きているからには、魔獣の殺戮、王のきまぐれ、貴族、傭兵、暴力組織の横暴など、多くの理不尽さに翻弄されてきたのだろう。
その過程で、さまざまな死も見てきたに違いない。
だが、実際に闘ってみて、アキオには分かった。
闘いの本質、人と人が殺し合うという意味も、そこに横たわる非情さも恐ろしさも理不尽さも、青年は本当の意味で理解していない――まるで競技のように闘いを捉えているのだ。
闘いの先には、常に死が控えているというのに。
昔、ある元傭兵が彼に言ったことがあった。
多くの者は、どんな手をつかっても闘いに勝ちさえすればよいと考える。
それは、ある意味、真実だ。
闘いに負ければ、命を含め、すべてを失うのが常であるから。
だから、人は、兵士は闘い続け殺し続ける。
だが、ある時、なにかの拍子に気づくのだ。
両親、恋人、愛娘の死、背中を預けた友軍の全滅をきっかけにして。
殺し合いに勝ち続けることで、自分がどれほど大きなものを失ってきたかを。
殺さずに済むのなら、その道を模索すべきであったのだと。
殺し合いは、その後に、血の味と腐臭しか残さない破壊的な行為なのだから。
誰かを殺すということは、同時に、自分の一部を少しずつ殺していくことに他ならない。
殺しを生業にしていると、やがて、本当の自分はすべて殺され、消え果てて、抜け殻だけが残ることになる。
そうなる前に、お前は殺しから足を洗って人間になれ、と。
その話が正しければ、地球で万を超える人を殺してきた彼には、もう何も残っていないことになる。
だから、アキオ自身も、いまだその言葉を完全に理解しているとはいいがたいが、共に戦った多くの戦友たちが、それに似た結論に達していたのは事実だった。
それは尊重されねばらなない。
アキオがよく理解できないのは、おそらく彼が人為的に作り出された殺人機械だからだ。
だが、コンケイブは人間だ。
マフェットの関係者には自分のような道を歩んで欲しくない。
だから、アキオは青年に闘いと、それに連なる殺人に対する畏怖を教え込もうとしたのだ。
もちろん、彼は教育者ではないし、その資格もない。
ゆえに、どれぐらい効果があるかはわからないが、少なくとも、しばらくはおとなしくしているだろう。
背後にマフェットの気配を感じながら、アキオは白鳥号に備えられていた、カマラが熱量石と名付けた小さな円盤を取り出した。
表の突起を押して起動させ、ケイブの首と服が破れて丸見えになっている背中に貼り付ける。
身体を温めるホット・パックの改良版だ。
今までの動きでわかる。
ケイブの体内には、予想通り、グレイ・グーではない汎用ナノ・マシンが入りこんでいる。
そうなった経緯はこれから調査するとして、まずは治療を施すのだ。
「申し訳ないけれど、その人を離してくれるかしら」
背後から聞こえた声に振り返ると、そこには、巨大な魔犬を従えた線の細い少女が腕を組んで立っていた。
魔獣の口には、瀕死のロメオが咥えられている。
「お願い、優しい兵隊さん」
そう言って甘えた声を出すフレネル・ディフラクトは、ぞっとするほど冷たい笑顔を浮かべた。