042.天才
「――ピアノ」
アキオが声をかけた。
「はい」
憑き物でもおちたように、少女が可愛い声をだす。
彼女は、さっきからアキオに抱き着くように湯につかっている。
湯で温まってくれているから特に問題はないのだが、各部が当っているので、一応聞いてみることにした。
「色々と当たっているが――」
「いいのです」
予想通りの答えが返る。
「なぜそんなに密着する?」
「そうしたいから。本当は、さっきあなたに完敗した時に抱きつきたかった。でも、身体が治って、一度水浴びしただけだったから恥ずかしかったのです。こうやって湯浴みができて本当に良かった」
ピアノも、ナノ・マシンによって身体が常に清潔に保たれていることを知らないのだ。
アキオは、ひと通り説明する。
「ああ、それでだったのですね」
少女が納得顔になる。
「なんだ?」
「フードにしていた黒い毛布が、だんだん灰色になっていくのでおかしいと思っていました」
聞くと、彼女のかぶっていたフードは、シュテラ・ミルドのどこかの通りに干してあった毛布を盗んで適当に加工したものらしい。
ピアノの髪に触れることでフードが浄化され、汚れが取れたということなのだろう。
アキオは尋ねる。
「お前はサンクトレイカについて詳しいのか?特に裏社会の方面で」
「表も裏も。一応、結社にいましたから……」
「サラヴァツキー女公爵について教えてくれ」
「嫌です」
少女の即答にアキオは憮然となる。
「駄目か」
「嘘です。ただ、他の女性のことを知りたがる恋人に取るべき態度を、女として一応取っただけです」
そういってクスクス笑う。
長く湯につかるピアノは、アルビノに近い白い肌がピンク色になって壮絶なほど美しい。
例によって乳白色に変えた湯に、胸の微妙なあたりまでつかる少女は、笑うたびに見えてはいけない部分が見えそうになる。
「そうですね……あなたは――」
「アキオだ」
「はい、アキオは、どの程度までこの国のことを知っていますか?」
「実をいうと、この国どころか、この世界のこともよく知らない」
「そうだろうと思いました。詮索はしませんが、このナノクラフト――」
そういって、腕を湯から出して指先を見る。
「体から毒を抜き、身体を再生する医術など、この世界には存在しませんから」
そう言うと、手を湯に戻し、キリっとした顔で言う。
「わかりました。まず聞かれたことから答えて、わからないことが出てきたら、その都度教えます」
「――」
アキオは、ピアノの整然とした話し方に嬉しくなる。
具体的思考者である彼は、感覚的な話し方にはついていけないのだ。
「それでは――例の女公爵さまですが」
そういって、少女はアキオの胸に頬を当てる。
腕はアキオの首に回した。
「なぜ密着する」
「恋敵の話を嫌々する時は、普通こうなるのでは?」
アキオはもう気にしないことにした。
「――続けてくれ」
「あの方は天才です」
「天才――シアが」
あの天衣無縫ともいうべき少女が天才。アキオには信じられない。
ピアノがぎゅっとアキオを抱きしめる。
「その愛称は好きではありません」
アキオはそれを無視した。
「何の天才だ」
「天才というより特異家系ですね。代々、サラヴァツキー家には、先天的に戦術思考に秀でた人間が生まれることになっているのです」
「戦術か――戦略ではなく……」
戦略と戦術は、ともに戦いにおける重要な技術だ。
戦争に勝利するために、大局的な視点から兵力や資源を運用するのが 戦略で、個別の作戦の任務達成のために現場の戦闘力を運用するのが戦術となる。
戦場で育ったアキオは、戦術には長けているが戦略は苦手だ。
可能性は低いが、もし今後戦略が必要な局面になればミーナに頼ることになるだろう。
考えてみると、シアが戦略ではなく戦術の天才である方が納得がいく。
あの天然思考の少女が、権謀術数も含めた戦略の天才であるとは考えにくい。もちろん戦術にも駆け引きは必要だろうが。
「女公爵さまは、サンクトレイカ王国の戦術の要。120年前の建国の折、王族にサラヴァツキー家があったからこそ、この国ができたともいわれています」
「戦術の要?ここしばらくは国同士の戦争は起こっていないはずだが」
たしか、キイはそう言っていた。
「戦争は……起きていません。公式的には」
紅い眼の少女が囁くように言う。
「非公式には戦闘がある?」
「西の国との模擬戦闘という形で二年に一度、海戦が行われるのです」
「海戦?」
サンクトレイカは四方を陸に囲まれた国だ。
「西の国とサンクトレイカの中間に、ラトガ海という巨大な湖があるのです。戦いはそこで行われます」
アキオの脳裏にテルベ河に浮かぶ多数の軍艦が浮かんだ。
「大陸の北部、極北のノスパから南へトーラス河が流れています。それが巨大なラトガ海に注ぎ込み、湖の南端で左右に分かれ、一つがテルベ河となりサンクトレイカに流れ、もう一つがアドレ河となって西の国へ向かっているのです」
つまり、2年に1度、お互いの大河を遡ってラトガ海に行き、そこで海戦が行われるということだろう。
アキオはあることに気づく。
「シアは、今日、軍艦を初めて見たといっていた」
少女はアキオの胸から顔を上げる。
「あの噂は本当だったのですね……」
「なんだ」
「サラヴァツキーさまは、代々の戦術家の中でも傑出した才能がおありで、戦場に出ずに複数のシナリオを書かれるだけなのだと噂されていました。真偽のほどは定かではありませんでしたが」
アキオは少女の可憐な笑顔を思い出す。
それが真実ならば、恐るべき分析力と思考力、そして軍事的想像力だ。
「彼女の存在は重要か?シア抜きでは模擬戦に勝てないのか?」
「そうですね――」
少女は顎に指を当て、
「戦に絶対はありませんが、軍艦の性能や兵の練度から考えて、おそらく十中八九、西の国には勝てないでしょう。一般的にそう言われていますし、わたしもそう思います」
「勝てない、か」
「ええ、女公爵がいなければ、サンクトレイカは海戦には勝ません。サラヴァツキーさまの才覚だけでこの国は勝っているのです」
「所詮、模擬戦だろう」
紅い眼の少女はゆるゆると首を振る。
「20年前、時の王たちの盟約によって2年に1度の『平和の海戦』が定められました。規定にしたがった模擬戦です。それ以来、ふたつの国は海戦の被害に応じてお互いの国民の命を削りあっているのです。戦闘の結果で、決められた数の国民が抽選で選ばれ処刑される……」
「よく暴動が起きないな」
「そのことは公にはされていません。はやり病をよそおって地方の村が犠牲になるため人々は気づかないのです。秘密のうちに村には番号が割りふられ、海戦の結果で人々が処刑される……」
「――」
「実際に市街地で戦闘が起きれば、建物は壊れ農地は荒れ被害は甚大です。しかし、このやり方なら、わずかな艦船と人の命を失うだけで済む――」
「バカな……」
アキオがつぶやく。
その声音の苦さに、美少女ははっと彼の顔を見た。
「アキオ……」
「それでは戦争は終わらない。血と涙を流しつくしてこそ戦争は終わる。農地も荒れず建物も壊されない水上の海戦で死人の数を決めていたら、戦争は永遠に続く――」
「サラヴァツキーさまのお陰で、ここ10年、艦隊戦で死ぬ兵士以外の被害はサンクトレイカに出ていません」
その分、西の国で人が死んでいる、ということだ。
「あの誘拐は――」
「おそらく西の国の手の者ですね」
(大切?盗まれないように見張られて育ったのです)
シアの言葉がよみがえる。
少女は、あの細い体に多くの人々の命を背負わされていたのだ。
生まれ持った能力のおかげで『道具』扱いされながら。
だが、それも彼女の人生だ。部外者である彼にできることはない。
「その戦いは近いのか?」
「2日後に開戦のはずです」
「そうか」
アキオは目を閉じた。
ヴィド桟橋に停泊していた軍艦はそのために集結させられていたのだろう。
今頃、少女はいくつもの戦術を練っているのかもしれない。
次いで、アキオはもうひとつ気になっていたことを少女に尋ねる。
「サラヴァツキー家には代々戦術に適性のある者が生まれるという話だが――」
アキオは天才を信じない。『天才』という言葉を否定する。
この世にそんなものなど存在しないと思っているからだ。
ある分野に偶々『適性』をもって生まれるものがいるだけだ。
適性を伸ばし、楽をして世を渡っているように見える者を世間が羨望と揶揄を込めて天才と呼びたがるのだ。
「手首に痣のある者が、能力を引き継ぐといわれています」
「引き継ぐ?その意味は」
少女は、アキオの胸から顔を上げ、彼を見る。
「意味、と申されますと?」
「砂が水を吸うように、戦術の知識に習熟していくということなのか」
「ああ、いえ、詳しくは知られていません。しかし、一説には、まるで先代の記憶を知っているかのように最初から知識がある、ともいわれています、きゃっ」
アキオが突然身を起こし、少女が小さく悲鳴を上げた。
「どうしました?」
「それは、本当か?」
「あくまでも噂です。個人的には、それほど才能がある、という誇張だと思いますが……」
「そうだな――」
アキオは身体を湯に戻す。
まさか、そんなことなどありえないと思うが、もし、代々記憶が引き継がれている、あるいはどこかにある思考バンクから記憶が受け継がれているのなら、なんとしてもそれを解明したい。
彼の望みへの限界突破になるかもしれないからだ。
アキオは焦る気持ちに飲み込まれそうになる。
今すぐにでも、グレーシアのもとへ行き真実を問い詰めたい――
「――!」
目まぐるしく頭脳を働かせ焦るアキオの顔を見ていたピアノが、突然、彼に口づけをした。
頬を両手で挟んで、しっかりと口づけする。長い口づけだ。
「突然、何を」
やっと顔を離した少女にアキオは不満をいった。
同時に逸る気持ちが消えているのに気づく。
「顔を見ていたら、したくなりました」
少女はにっこり笑う。
「冗談です。あまりあなたが焦ったような、苦しそうな顔をしたので心配になりました」
ピアノの言葉にアキオは苦っぽく笑った。
確かに、思わぬ情報に衝撃を受けたのは事実だ。
それを自分の20分の1あまりしか生きていない少女に見透かされ、鎮められたことを恥ずかしく思う。
「落ち着かれました?」
「そうだな――助かった、ピアノ」
ざば、と少女が半身を湯から出す。
「助かった、っていいましたね、今」
「ああ」
「ね、わたしは役に立ちますでしょう。ですから――」
少女はそういって、アキオの首に手を回し彼の顔に頬を寄せる。
「捨ててはダメですよ――あなた」
そう囁いてにっこり笑う。
アキオは、少しばかり驚いて少女を見つめた。
暗殺を諦めてからのピアノの豹変ぶりには驚かされるばかりだ。
本来は、貴族の娘として、こういう性格だったのかもしれない。
「考えておこう。お前がいい子にしている限り――」
アキオは手を伸ばし、ピアノの灰色の髪の毛を、くしゃくしゃと掻きまわした。