416.再襲
マフェットがさっと立ち上がる。
年に似合わぬ機敏な動きだ。
馬車の扉を開け、外に飛び出ようとする彼女の手を捕まえ、アキオが引き寄せた。
「慌てるな」
そういってマフェットをコートの中にくるむと、ふたりで馬車を出る。
その途端、黒い影が彼らを襲った。
アキオの手が閃くと、肉の塊になったマーナガルが道の端に吹っ飛ぶ。
人間の襲撃者ではなく、まずは魔犬が再襲撃して来たのだった。
だが――アキオは疑問に思う。
あの魔犬女王は、言葉は話せないながらも知能は高かった。
先の戦いで、この隊商に彼がいることは分かっているはずだ。
動物の本能から考えても、彼らの戦力では到底勝てないことを知りながら、再び襲ってくるのは奇妙だ。
あの時、戦おうとしていたのは、退いても彼が見逃してくれないと思ったからだろう。
よほど、戦うべき理由があるのか、それとも、そのことに、なにか意味があるのか。
アキオは、女王が退いた時響いた、奇妙な笛の音を思いだした。
もし女王が、操られているのなら、今回の行動も理解できる。
青白い球電が、アキオを目がけて飛んできた。
杖を伸ばして、あっさり吸いつくす。
再び彼の手が閃くと、肉塊となったマーナガルが飛んでいった。
「あ」
彼のコートの中で、マフェットが声にならない叫びを上げる。
アキオは、視線を落としてコートの中の彼女を見た。
「殺さないほうがいいのか」
マフェットは彼を見上げ、うなずく。
「了解だ」
そういって、アキオは、彼女をコートに入れたまま食料馬車の陰から出た。
「これは……」
コートから顔を覗かせた彼女が驚きの声を上げる。
峠らしき坂道の途中で隊商は停まっていた。
両側を崖に挟まれたせまい道にはマーナガルが溢れている。
ガッ!
アキオが軽く手を振ると、魔犬が短く叫んで地面を転がった。
今回は、気絶させるだけで殺してはいない。
次々に手を払って魔犬の意識を刈りながら、彼は隊列中ほどのフレネルが乗る馬車、つまりエカテル商会の商人の乗る馬車に向かった。
見たところ、そこに一番マーナガルが群がっていたのだ。
次々と飛んでくる雷球は全て杖に吸収させ、火球は、杖を素早く振り払って発生させる衝撃波で打ち消した。
「あんた、やっぱり強いんだねぇ」
しみじみとマフェットがつぶやく。
「あたしは大丈夫だから、あんたは自由に動いておくれ」
「わかった」
「でも、もし……」
コートの中から彼女が躊躇しながら言う。
「なんだ」
「いや、いいんだ」
「いってくれ」
「もし、マーランガ、銀色の毛の大きな魔犬がいたら、追い払うだけにしてくれないかい」
「知り合いか」
ごく普通に、人間に対していうように話す彼に、彼女は笑顔になった。
「そうだよ。もうずっと以前、まだあたしが若いころに知り合ったんだ」
「わかった。君は――」
「あたしのことは気にしなくていいよ。こう見えて案外強いんだ」
そういって、身体を軽く光らせる。
強化魔法だ。
アキオはうなずくと、コートからマフェットを出して、隊商の馬車に向けて走りだした。
加速は使わない。
近づいてみると、エカテル商会の馬車は惨憺たる様相を示していた。
全体に焼け焦げ、煤けて、豪華な造りが台無しだ。
それでも炎上していないのは、通常より上等な難燃性の素材で作られているからだろう。
マーナガルが、馬車の前に集団で立ちふさがるのを見て、彼は走るのをやめ、歩いて馬車に近づいた。
彼が歩くにつれ、魔犬たちがひと声鳴いては、突風に吹き飛ばされたように宙を舞っていく。
もちろん、彼女との約束どおり一匹たりとも殺してはいない。
彼の姿を見たことのある魔犬も多いらしく、すぐに彼の前には、海が割れるように馬車までの道が作られた。
その中をアキオは静かに歩き、ステップを登ると馬車の扉に手をかけた。
鍵がかかっているのを知って、力ずくで開けようとする。
「や、やめるのです」
頭上から声がした。
ラミオ・エカテルが、屋根の上から叫んでいた。
ほかに数人の男の顔が見える。
フレネルの姿はない。
「扉が壊れたら、犬どもがなだれ込んでくるではないですか」
「助けに来た」
「あなたを知っていますよ、あのごつい兵隊に殴られて血まみれになっていた弱虫でしょう。この馬車が頑丈なのを知って逃げ込もうとしても無駄ですよ」
ラミオは、彼が馬車に近づいた様子を診ていなかったらしい。
小太りの男の言葉を無視して、アキオは尋ねる。
「フレネルはどこだ。中にいるのか」
屋根にいる5人の男たちは、顔を見合わせた。
「あの娘は、わたしたち置いて真っ先に逃げだそうとしたのですよ。その時に犬の間に落ちて、それっきりです」
「突き落としたのか」
「そんなことはしません。手を滑らせて落ちたのです。マーナガルに襲われたところは診ていないので、うまく逃げたのかもしれません。まあ、あの娘が死んだとしても、ディフラクトから借金を引き上げるだけなので、何も問題はありませんがね」
アキオは、馬車の取っ手を引きちぎると、手首を軽くきかせて男の腹に向けて投げた。
身体をくの字に曲げて、ロメオが空中に跳ね上がる。
手加減をして投げた木片だ。
胃と脾臓ぐらいは破裂したかもしれないが、知ったことではない。
このまま、マーナガルの群れに落ちて、少女の恐怖のいくばくかでも感じれば良いのだ。
手足が喰い千切られても、あとで治してやれる。
頭がなくなったら――その時は仕方がない。
男に運がなかったのだ。
だが、事態は、彼の予測を超える展開を見せた。
空中に浮かぶロメオへ、巨大な影が襲い掛かったのだ。
魔犬女王だった。
彼女は、見事に空中でロメオを咥えると、一回転して路面に降り立った。
美しい緑色の瞳で馬車を睨むと、彼女の頭上に巨大な火球が発生し、馬車に向かって飛んでいく。
アキオは炎を見つめる。
考えてみれば、今回の任務は隊商の妨害をする人間の排除だ。
そこには、つまらぬ商人の保護も、魔犬の襲撃への対処も含まれていない。
だが――
彼は、空中へ跳ね上がると、コートから取り出した杖を一振りして伸ばし、凄まじい速さで空気を切り裂いた。
先ほど火球を消滅させたものより数倍激しい衝撃波が発生し、炎を霧散させる。
地面に降り立った彼は、マーランガを追って走り始めた。
護衛兵士たちは、マーナガルの対応で手一杯のようだ。
いくらも走らないうちに、アキオは険しい崖に挟まれた道で立ち止まる魔犬女王に追いついた。
彼女を足止めしているのは、ひとりの小柄な兵士、ジャッケルだ。
アキオの睨んだとおり、彼は熟練の兵士だった。
口を使えず攻撃ができないため、隙を見て横をすり抜けようととする巨大な魔犬女王に対して、機先を制して剣を突きつけ、彼女の好きにさせない。
「その男を話せ」
甲高い声でジャッケルが魔犬に話しかけた。
声を聞くのは初めてだ。
だが、おそらく人語を解しているはずの女王は態度を変えない。
「ならば仕方がない」
ジャッケルは、腰を落とし攻撃の体勢に入った。
アキオは彼に走り寄り、胴体をつかんで跳ね上がった。
その勢いで、ジャッケルの兜が弾け飛ぶ。
一瞬後、彼の立っていた場所を、二匹の銀色の魔犬の爪が引き裂いた。
女王の子供たちだ。
「大丈夫か」
彼は、兵士を地面に下ろして尋ねた。
怪我をするほどの加速は与えなかったが、念のためだ。
ジャッケルは、振り返りながら、怒りの声を出す。
「あれぐらい自分で対処できた。余計なことをするな!」
「そうか、すまなかった、俺は――」
アキオの言葉が途中で止まる。
腰に手を当て、険しい表情で彼を見上げていたのは、流れる豊かな青い髪、水色の瞳、小さな顔の――少女だったからだ。