415.若返
アキオは、眠りに落ちたマフェットを起こさないように腕を持ち上げ、アーム・バンドに指を触れる。
サンクトレイカ兵の着る軍用コートに偽装された腕のタッチパネルが、光を放って地図を浮かび上がらせた。
GPSのない世界だが、シルバラッドを出る時に基点設定をし、そこから方位、及び慣性センサを使って位置の追従を行わせている上に、さっきいた場所の地形をカメラに読み取らせてマップ照合させているから、表示される現在地はかなり正確なはずだった。
それによると、敵の出現地域まで、およそ90キロ。
あと5時間あまりだ。
アキオは、それまでの時間を、昨夜の作業の続きに当てることにした。
マフェットは、安心しきったような表情でぐっすりと寝込んでいる。
魔犬に追いかけられ、氷点下に近い気温の中で水に浸かったために、かなり体力を消耗していたのだろう。
4時間後、ナノ・マシンへの機能追加用プログラムのコーディングは終了した。
一度、WBを体内に持つ生物、マーナガルかゴランで試してみなければわからないが、おそらく大した問題は発生しないだろう。
思いついて、もうひとつ、今回の機能を応用したものも作成する。
陽が高くなり、馬車の窓から差し込んだ陽光が、マフェットの顔に当たるのを見たアキオは、コートを伸ばして日陰になるようにした。
「ありがとう。優しいんだね」
眼を閉じたまま彼女が言う。
「起きていたのか」
「さっきからね。でも、あんまり気持ちがいいから、寝穢くグズグズしてしまったよ。不思議だねぇ。普段、あたしは寝つきが良くないんだ。あんたの身体から何かでてるんじゃないのかい」
そういって、眼を開けて彼を見上げる。
アキオは少しだけ表情を変えた。
いつもは、逆に、悪夢にうなされる彼を、ヌースクアムの少女たちが穏やかに寝かしつけてくれているのだ。
「そもそも、誰かに抱かれて眠ったことがないから、あんたが特別かどうかわからないんだけどね。でも、毎晩、あんたがこうやって一緒に寝てくれたら――」
そこまでいって、彼女は手を打ち振った。
「いやいや、冗談、冗談だよ。こんな婆さんが何をいってるんだい、って話だね」
「若くなりたいか」
寒くないか、とでも言うように彼が尋ねた。
「え」
「成人した頃の若さに戻りたいか」
マフェットの眼が夢見るように輝き、その言葉の甘さをかみしめるように眼を閉じ、胸を抑える。
だが、再び彼を仰ぎ見て、その唇から零れたのは、
「戻りたくないね」
拒絶の言葉だった。
「辛いことや悲しいこと、嬉しいこと、苦しいこと……これまで経験したことの全てで、今のあたしはできているのさ。あたしは、一度きりの人生をすでに生きた。もう一度、繰り返す気はないね」
アキオは彼女の顔を見下ろした。
「それに、若くなって男と暮らしたりすると、子供ができて、新たに面倒ごとが増えてしまうんだよ」
「そうか」
「でも、ありがとうよ。あんたがまるで、それぐらい簡単にできるかのようにいってくれたから、一瞬、その気になって胸が熱くなったよ――なんだい、笑ってるのかい」
彼女に指摘されて、アキオは、自分が微笑んでいることに気づいた。
この、マフェットという、謎多き女性の心根の清々しさが、彼の心の深い部分を動かしたのだ。
地球にいた頃、彼が生み出したと噂される不老不死を欲しがる王族、為政者は多かった。
研究に必要な資金、物資、機材などの見返りが大きかったため、たまにミーナの判断で、制限付きで一度きりの延命措置を行ったが、その期限が近づくと、彼らの多くは、さらなる命の延長と若返りを求めて、彼の居場所を探し出し、不老不死の秘密を手に入れようと躍起になったものだった。
もちろん、その全ての試みは失敗に終わり、最後に彼の命を狙ってやってきた暗殺者は、ことごとく返り討ちにあったのだが――
かつて、ミーナが言ったことがある。
本当に成し遂げなければならない国の発展、開発、科学の探求のために、長い寿命が必要だというなら理解できるし、協力するのも吝かではない。
だけど、不老不死を願うほとんどの人間は、ただ死にたくないから不死を願う者ばかりなのよ、と。
高潔な人々は、限りある生命を力の限り生きて潔く死に、死を恐れるがゆえに生きたがる下種な人間たちは、汲汲として、生きる値打ちのない人生にしがみつく……
かつて、暗殺者を倒し、その命令を出した為政者の寝室に出向いて、きっちりと脅しをかけて帰った彼に、AIが尋ねたことがあった。
「どうだった?」
「驚いていた。どこから入った、と」
「いつも通り意味のない質問ね。それで納得してくれた?」
「色々いわれたが、最後には分かってくれたようだ――俺は、自分だけが生き続ける地球一手前勝手な人間だそうだ」
ミーナは大きくため息をついた。
「あの人たちに、寿命で自然に死ぬことは、神さまにかけられた呪いではなく、個体の記憶と経験をリセットし、種に多様性を持たせるための能力であることを理解するよう期待する方が無理なんでしょうね。愚かな人たち」
戦場で育ち、親しい女性の死によって自我を獲得した、事実上、永遠不滅のAIは、冷酷に大国の指導者を愚物扱いする。
生への執着――
それについては、アキオ自身よくわからなかった。
当時、すでに200年以上生きていた彼だが、もともと死に対する恐怖が削られているため、死ぬことに恐怖はない。
生きるだけは生きるつもりだが、投げられた賽の目が悪い方に出れば、その場で死ぬこともあるだろう、常にそう考えている。
もちろん、自ら死を選ぶつもりはない。
傭兵部隊、あるいは国に所属する兵士であった頃は、任務完遂のために、死を薙ぎ払って戦い続けてきた。
だが、部隊に捨てられ、国に裏切られて、極点近くの研究所に流れついた時、彼女によって、あなた自身があなたの最高司令官、元帥、国家になって自分自身に命令を下しなさいと諭された。
以来、彼の最高司令官は彼自身であり、彼に命令できるのも彼だけとなった。
それは、同時に彼が死ぬ自由も得たことを意味する。
ただ、彼女を失って以来、彼には為すべき研究があり、達成すべき明確な目標が生まれた。
それを完成させるために、彼は生き続けなければならないのだ。
逆にいえば、それさえ達成すれば、異端すぎる彼の命は、世界から抹消されるべきだろう。
マフェットが、ちょっと怒った顔になっていう。
「なんだい、婆さんが粋がって良い格好してるって、思ってるのかい」
アキオはゆっくりと首を振り、
「違うさ」
「じゃあ、なんだい」
「君は、本当に綺麗だ、と思ったんだ」
まるで、音を立てるように彼女の顔が真っ赤になる。
そのまま彼の顔を見つめ、
「その言葉は子供のころから何千回もいわれてきたよ。でも、今のあんたのひと言が一番うれしかった、といったら信じてくれるかい」
「信じるさ」
「あたしの――」
彼女の言葉を遮るように馬車が急停車し、外から兵士の叫び声が聞こえてきた。
どうやら、車外で何かが起こったようだ。
敵が現れたのだろう。