413.義弟
バラッドに抱かれて現れた彼女を見た時、彼は我が眼を疑った。
シュテラ・ミルドの月猫亭にいるはずのマフ姉が、こんな場所にいるはずがなかったからだ。
だが、彼女がここにいるなら、ありえない数の魔犬の襲撃も納得できる。
突然の登場も、姉さんのことだ、きっと何か理由があるに違いない。
少し心配なのは、どうみても訳ありでこの護衛隊に編入されたアルト・バラッドに連れてこられたことだった。
バラッドは並の兵士ではない。
シッケルとして、暴力の蔓延する王都に暮らし、フロストとなって月猫亭を守り、再びシッケルと名を戻して以降、長く戦いに明け暮れた彼の眼に間違いはないはずだ。
本来なら、ボルズ程度では、体に触れることもできないだろう。
分かる者が見れば、明らかにわざと殴られ血を流しているという事実と、指揮官であるカーロンと妙に親し気であるという点から考えて、彼が王命を受けていることは間違いないと考えられた。
この護衛任務には何かがある。
最初から、この指令には不自然な点が多かったのだ。
シッケル以下、今回の護衛に編入された兵士たちの多くは、これまで北圏近くで、サンクトレイカに居座り続けるゴランを追い払う任務についていた。
ほぼ魔獣掃討の目途が立って、久しぶりの休暇で骨休みに王都に戻ったところ、急遽、休みが取り消され、この任務に放りこまれたのだ。
そういったわけなので、5年前に会ったきり疎遠になっていたマフ姉は、彼がこの護衛隊にいることを知らないはずだった。
本来なら、王が英雄ノラン・ジュードにかわった時点で、彼女がどう思っているか話し合いをすべきだったのだが、魔王の霧の発生以降、軍の精鋭として任務に忙殺されていたため、シュテラ・ミルドを訪れることができなかったのだ。
ちなみに、魔王の霧の原因になったと言われている、噂の封印の氷の戦いに彼は参加していない。
すぐに事情を聴こうと思ったのだが、彼が声をかける前に、カーロンの命令で、彼女はバラッドに連れられて馬車に乗り込んでしまった。
シッケルは肩をすくめると、自分の馬車に乗り込む。
姉さんとバラッドが、どんな話をするのかは気になったが、今はどうすることもできないだろう。
翌朝、食料馬車に取り付けられた水樽で顔を洗っていたシッケルが、視線を感じて振り返ると彼女が見つめていた。
微かに眼を動かして合図すると、停車地の小山の陰に歩いていく。
彼は用を足す振りをして、さりげなくその後を追った。
「フロスト!」
人目が届かない場所に着くと、いきなりマフ姉が飛びついてきた。
彼を抱きしめる。
今は、彼の方がずっと大きいので、彼女の腕は彼の身体を回りきらない。
「マフ姉……」
彼は、壊れ物のように、そっと彼女の肩を抱く。
「おっと、いけないね」
自分から抱きついておきながら、マフェットは彼を突き飛ばすようにして離れた。
「今のあんたはメイラのものだからね。迂闊に触れちゃいけないんだった」
シッケルは、傷だらけの顔に男っぽい笑いを浮かべて彼女の腕を引き、もう一度、今度はしっかりと抱きしめた。
「バカなことをいうもんじゃないよ、姉さん。俺はメイラのものだが、メイラと俺は姉さんのものなんだ」
軍に入ってしばらくして、月猫亭に帰省した彼は、メイラがいまも独りで彼を待っていたことを知り、マフ姉の後押しもあって一緒になったのだった。
「俺の命は姉さんのものだ。他の女の分はないさ」
そういって一度は拒絶した彼に向かってメイラは言った。
「わたしの命も姉さんのものです。でも、あの日から、わたしの心と身体はあなたのもの。ずいぶん年上で申し訳ないけれど」
その様子を見ていたマフェットは、二人の背中を強く叩き、
「よしよし、ふたりともあたしのものだってことは分かった。だったら、あたしが好きにしていいね。あんたたちは一緒になるんだ。フロスト、あんた、メイラじゃ不満なのかい」
メイラは、モースが夢中になるのも当然なほど、美しく気立てのよい娘だ。
「だけど俺は――」
「ああ、もう、ごちゃごちゃとうるさいね。一緒になっても、ふたりともあたしのものなんだからいいだろう」
そう言って、マフ姉は二人の手を重ねさせた。
「お願いだから、早くあたしに孫の顔を見せておくれよ」
「ダメですか?年上すぎますか」
思いつめた表情の彼女に、彼が答える。
「君は俺にはもったいない」
「フロスト!」
マフ姉の怖い顔を見、メイラの涙に濡れた美しい泣き顔を見て彼は心を決めた。
「わかった、一緒になろう。年のことは気にしないでくれ。知らないかもしれないが、俺は年上が好きなんだ」
激務のため、あまり王都でゆっくりできなかったからか、子宝には恵まれなかったが、今も一緒になりたてのように彼とメイラは仲睦まじい。
お互いの体温を感じて落ち着いたふたりは、岩に腰掛けた。
「どうして、こんなところへ」
シッケルが尋ねる。
「ケイブさ」
「ケイブ?コンケイブがどうかしたのか」
5年前、任務の帰りに月猫亭によった彼は、マフ姉に銀髪の少年が悪態をついているのを目の当たりにした。
「うるせえ、ババァ。お前の説教は聞き飽きたんだよ」
「喧嘩はダメだっていってるだろう」
「俺が悪いんじゃない。悪いのはあいつらさ。よく調べてからいいやがれ、ババ――」
少年が吹っ飛んで壁にぶつかる。
もちろん彼が殴りつけたのだ。
情け容赦のない暴力だ。
だが何の問題もない。
誰であろうと、たとえ子供であろうと、マフ姉に対して失礼な口を利く奴は許さない。
「ケイブ!」
驚くマフェットに彼が尋ねた。
「こいつは何だい、姉さん」
「あ、ああ、フロスト」
心配そうに、床にのびた少年に近づこうとする彼女を止めて、彼が続ける。
「大して強く殴っちゃいない。しばらくしたら目を覚ますだろう。座ってもいいかい」
店の女たちが眼を回した子供に駆け寄るのを見ながら彼は言った。
「ああ、いいよ。よく来たね。その子は、コンケイブ、ケイブって呼べばいい。あんたの――弟になるのかね」
彼がうなずく。
面倒見のいいマフ姉は、再び子供を引き取ったのだろう。
それから、しばらく彼は彼女に近況報告をした。
「もっと近くへ来い」
背後に立つ少年の気配を感じた彼が言う。
なかなかの回復力だ。
振り向くと銀髪の少年が立っていた。
初めてこの店に来た時の彼より2、3歳年上だ。
「あ、あんた、フロストだろ」
少年の声には憧れがあるが、それを無視して彼は冷たい声音で言う。
「2つだけいっておく。ひとつ、俺の名はシッケルだ。呼ぶならそう呼べ。フロストと呼んでいいのはこの世でふたりだけだからな。ふたつ、今度、姉さんになめた口をきいたら、お前の顎を引き裂く、覚えておけ」
あたりを凍らせるような非情な言葉だった。
だが――
「わかったよ、シッケル兄さん。あんたのことは店のみんなから聞いてるよ。強いんだってねぇ。いや、今、殴られたばかりの俺にはわかる。あんたは強い。最高だ」
驚く彼に、マフ姉が笑いながら言う。
「この子は、あんたが好きなんだよ。憧れてるっていうのかね。店でのあんたの活躍、戦場の武勇伝、そしてあの魔犬の――」
「姉さん」
「あ――いわない約束だね。とにかく、あんたに会いたがってたんだよ」
「そうか」
シッケルは少年を見た。
「さっきのふたつさえ守れば、おまえは俺の弟だ。どうだ」
「守る、守るよ、そのかわり、剣の稽古をつけてくれ」
それが、彼と年の離れた弟との出会いだった。
「あいつがどうしたんだ」
彼の問いに、マフ姉が眼を伏せる。
絞り出すように声を出した。
「今年に入ってから、なんだかあの子は急に強くなってね。この何カ月か、サンクトレイカから西の国へ向かう隊商を襲うようになったんだよ」