412.俊敏
興奮しているせいか、胸の傷の痛みは感じない。
モースの身体はぼんやりと発光したままだ。
彼は、軽くナイフを振るフェイントをかけてみた。
兵士は動かなかった。
仕方がない。
もう少し深く、当てるつもりで誘いをかけようとした時、モースの身体が一瞬ぶれた。
少年は知らなかったが、それは強化魔法を使った瞬動と呼ばれる一種の加速攻撃だった。
そんな攻撃など見たこともないフロストだったが、生来の眼のよさと反射神経が彼の命を救う。
白く糸を引く光に、とっさに出したナイフが当たり金属音を響かせた。
危なかった――
首の手前で受け止めたモースのナイフが震えている。
防御しなければ、首がほぼ寸断されていただろう。
ひと安心する間もなく、男の左拳が唸りを上げて、彼のあばら目がけて襲ってきた。
さすがにこれは避けられない。
少年は、わき腹を守るために、腕を曲げて肘で拳を受け止めた。
骨にひびが入る感触がする。
体重差のために、壁際まで吹っ飛ばされた。
激痛が腕を走るが、あえてそれを無視して身体を捻って足から壁に着地し、そのまま跳ね返って床を滑り、モースに足払いをくらわせた。
もんどりうって男が床に倒れる。
少年は椅子に手をかけて立ち上がった。
左手は、だらんと下におろしたままだ。
戦い初めて10数秒しか経っていないが、体感的にはその数倍の時間のように感じていた。
男が暴れてすぐに、誰かが助けを呼びに走ったはずだが、まだ応援はやってこない。
モースはうなり声を上げて飛び起きると、ナイフを振りかざして襲いかかって来た。
標的が、メイラから完全に彼に移ったのは喜ばしいが、そのために危険は増している。
倒れた拍子に、男の強化魔法は解除されていた。
魔法に詳しくない少年も、強化魔法が連続で使えないことは知っている。
これからは戦闘力の高さによる勝負だ。
何とか勝機のとっかかりを掴むことができた。
魔法さえなければ、素早さの点で彼の方が上回るはずだ。
今こそ、美女によって、あえて俊敏となずけられた彼の力を示す時だった。
だが、片腕のハンデは思った以上に過酷だった。
何とか食卓ナイフでモースの攻撃を躱そうとするが、徐々に追い詰められ、腕、胴、足、頬など、数か所を浅く斬られる。
さらに、
「なんだ?」
急に足が重くなったフロストが愕然とする。
ふわふわと体に力が入らない。
足が滑り、その理由を彼は知った。
血を流し過ぎたのだ。
足元には胸や腕から流れた血だまりができている。
これは、まずい。
フロストが、俊敏でなくなったらおしまいではないか、動け――
そう自分に言い聞かせながら数度の攻撃をしのいだ時、モースの脚が跳ね上がって、腹にまともに一撃を受けた。
机と椅子を倒しながら跳ね飛ばされる。
男の影が、彼にのしかかるように近づく。
彼の命は風前の灯だった。
ダメだ、俺は死ねない。
極度の緊張感からか男の動きはゆっくりに見えるが、体は動かない。
その時――
迫るナイフを見つめる彼の前に、黒い影が立った。
まさか!
その人からただよう甘い香りに気づいて少年は絶句した。
姉さん、ダメだ!
次の瞬間、新たなる驚きが彼を襲った。
マフェットの身体が青く発光したのだ。
「あたしの――」
迫るナイフをものともせず、形のよい腰を軽くひねって、
「家族になにをする!」
素晴らしい速さで突き出された美女の拳は、見事にモースの顔面に炸裂し、男は空中をコマのように回転してフロアの端まで吹っ飛んだ。
殴られた瞬間に気絶している。
美女はさっと振り向くと、少年に襲い掛かるように飛びついた。
「フロスト!」
「姉……さん」
「ああ、なんてことだ。こんなに血を流して。誰か、早く、早く医者を呼んどくれ!」
店の女たちに叫ぶマフェットを見ながら少年が尋ねた。
「魔法が使えたんだ」
緊迫感のない彼の声の調子に、彼女はつられるように答える。
「そうさ。いろいろあったからね。でも、それはまた別の機会に話すよ」
その夜から、彼は熱を出して寝込んでしまった。
思ったより体の回復には時間がかかり、完全に復調したのは15日後だった。
その間、ずっとマフェットが面倒を見てくれる。
特に初めの数日は、下着までかえてくれようとしたため、危うく彼は裸同然の格好で寝台から逃げ出すところだった。
「姉さん」
寝込んで数日後、横たわる彼の傍で椅子に座り、髪を整えてくれる美人に少年が話しかける。
「なんだい」
「やっぱり、姉さんには面倒を見る男が必要じゃないかな」
「何をいってるんだい」
「マフ姉は、人の世話を焼くのが好きだろう。だったら、誰彼なく世話を焼かずに、ひとりの男だけに集中した方がいいんじゃないか」
「ませたことをいうじゃないか。まだ子供――いや、そんなこといっちゃいけないね。あんたはひとりで店を守ってくれたんだから」
そう言って真面目な顔になり、
「男はダメだよ。子供ができたら……あんたにもわかるだろう。あたしの血はあたしで終わりにしないと。この国に余計な火種を残すことになるからね。あたしの子は敵味方から狙われることになる。だから、男の相手は、もっと年を取るまで待つことにするさ。その頃には誰も相手にはしてくれないだろうけどね」
「そんなことはないさ」
フロストは叫ぶように言う。
「いざとなったら俺が姉さんと」
「何いってんだい。あんたはあたしの家族、弟じゃないか。姉弟は一緒になれないよ」
「わかってるさ。でも、もし、相手の男が誰にも負けない、国相手でも勝てるような強い人間なら……」
マフェットは優しく笑う。
「ありがとうフロスト。心配してくれてるんだね。わかるよ。そんな男がいるなら一緒になってもいいかもしれないね」
「姉さん」
マフェットが彼の唇に指を当てる。
「その話はもう終わりだよ」
「違うんだ。俺、元気になったら、誰かに剣技を教えてもらおうと思う。いいかい」
美人は迷った顔になる。
「強くなるってことは、逆に危険も増えるってことなんだけどね――でも、どのみちあんたは自分の身を守れたほうがいいんだろうね。わかった。あたしも心当たりを探してみるよ」
「あともう一つ。俺もイニシエーションを受けたい」
「魔法使になるのかい」
「いや、でも、いざという時の手札はたくさんもっていたほうがいいだろう?」
「先祖代々の魔法使か、魔法学校で良い成績をおさめないとイニシエーションは受けられないんだけどねぇ。わかった、儀式の歳までまだ5年はあるんだ。それまでに方法を考えればいい」
「ありがとう、姉さん」
「礼をいうのはあたしのほうさ。うちの子を、店を守ってくれてありがとう」
その後、剣を習い、公爵のはからいでイニシエーションを受けたフロストは、マフェットを助けて、すべての宝石を取り戻すことに成功した。
さらに数年後、店で踊ることをやめ、落ち着いた女主として月猫亭を切り回すマフェットを残し、フロストはサンクトレイカの正規軍に入隊する。
当時は、まだ西の国との間に平和の海戦の協定は作られておらず、公爵の息子であるマルケス・サラヴァツキーの戦術に従って戦う有能な兵士が不足していたのだ。
すでに、マフ姉ユーフラシアを陥れて女王となったルクレシア・サンクトレイカは子を成さないまま病没し、彼女たちの末妹のアトラシアが王位を継いでいた。
年の離れた妹を愛していたマフェットは、同時に真の女王として国を愛していることをフロストは知っている。
アトラシアは良き女王だった。
彼女は、父王バルディア・サンクトレイカの遺志を継いで、魔の苔ガズルを撲滅するよう厳命を発した。
それを知ったフロストは、マフェットにいとまを願い、髪の色を戻し、本名のシッケルの名で軍に入隊すると、ついに、かつて彼を追いまわした組織を壊滅させたのだった。
以来20年、軍人として勤めあげながら、しばらく会っていなかったマフェットと期せずして再会したシッケルは、彼女が、アルト・バラッドに惹かれているのを、複雑な気持ちで見守るのだった。
綺麗なマフ姉――年を取ったと彼女が言い、世間もそう言うが、彼の眼には昔と変わらぬ美しい女性としてしか映らない。
不思議だったのは、謎の男アルト・バラッドも、彼と同じような眼でマフ姉を見ていることだった。