411.公爵
なぜ、そんな面倒なことを始めたのかは分からないが、マフ姉がやるなら彼は全力で支えるだけだ。
俺たちは家族だからな。
そう胸の中でつぶやいたフロストは、思いついた疑問を口にする。
「だけど、危なくはないのかい」
「危ない?」
月猫亭に通う男たちの中にも乱暴な男たちはいるだろう。
馴染みになった女に、最終的に拒否されて暴れだす奴はいないのだろうか。
おまけに、このシュテラ・ミルドは街と名がついていても、最辺境地域だけあって、エストラの王都のように、街中で弱いながらも魔法が使えるのだ。
少年の意図を察したマフェットは、穏やかに笑って、
「大丈夫さ。この仕事をして5年になるけど、そんなことは一度もないからね。ただ――」
「ただ?」
美人は少し悲し気な顔になる。
「せっかく一緒になっても、うまくいかないことはあるのさ」
少年はうなずき、そんなこともあるのだろうな、と思う。
聡く、大人びた彼であっても、まだ、そういった男女間の機微といったものは、よくわからない。
だが、彼には、これまでの短い人生で学んだ真理がある。
人と人が関われば争いが生じる、ということだ。
いずれは月猫亭でも、騒動が起こるだろう。
それはいい。
その時は、彼が身体を張って止めればよいだけだ。
マフ姉は頭もよく、苦労もしていて物事もよく分かっているように見えるが、生まれの良さためか、最後の部分で人が好いところがある。
人間の悪い面ばかり見てきた少年には、彼女のそういった部分が危なっかしく、まだ同時に輝いて見えるのだった。
そして、思うのだ。
俺が足りない面を埋めなければ、と。
彼の心配をよそに、シュテラ・ミルドの日々は、静かに過ぎていく。
彼女と共に暮らし始めて20日ほど経った深夜、彼らの住まいに、ひとりの老人が訪ねてきた来た。
走り寄ったマフ姉は、押しいただくようにその手を取ると部屋に招き入れ、フロストを呼んだ。
「フロスト、この方が公爵さまだよ」
老人は穏やかに笑うと、
「家督は譲ったから、いまでは、ただの爺じゃがな。お前がフロストか」
そう言って彼をじっと見る。
「話は聞いている。利発そうな子だ。ユーフラシアのことは好きかい」
あっさりと彼女の本名を呼んで尋ねる。
「俺は姉さんのために死ぬんだ」
彼もあっさりと答える。
考えるまでもないことだ。
「馬鹿なことをいうんじゃないよ」
マフェットは恐い顔で彼を睨み、
「あんたが思うより、あたしは強いんだよ」
そう言うと、老人に会釈した。
「お待ちくださいな、いま、お茶をいれますから」
美女が隣の部屋に消えると、老人は一歩近づいて彼の腕を持った。
「もう一度聞くよ。お前はあの子の味方かい」
少年は、彼をつかむ老人の手を、しっかりと上から握る。
腹の底から声を出した。
「姉さんが背中にいてくれるなら、世界を相手に俺は戦う」
かなり恥ずかしい、尖った言葉だ。
だが、少年には、老人が本心から彼女を心配して尋ねたことがわかった。
だから、彼の本心からの言葉で答えたのだ。
老人は笑わず、目をしばたたかせて、言った。
「わかった。あの子を頼むよ。可哀そうな子なんだ。15の年に毒を盛られて、地下の墓所に閉じ込められてね。あらかじめ計画に気づいたわたしが毒薬を眠り薬にかえさせたんだが、瓶の中に少し毒が残っていたらしくて、意識を失ったところを、死んだことにされてしまった。おまけに、あの悪魔が王家代々の墓所と違うところに葬ってしまったから、見つけ出すまで3日もかかってしまってね――」
少年は唖然とする。
たったひとりで、死体だらけの部屋に三日も放置されるなんて……
「15だよ。花のように美しく可憐だった彼女は言葉を失い、その髪は全て抜け落ちてしまって、元に戻るまで随分長くかかったんだ。でも、あの子は生来、強く明るい子だ。おまけにもっと良いことに善良でもある。その気になれば、自分を陥れた妹を破滅させ、本来の地位に戻れるものを、ただ母の愛した宝石を取り戻すだけでいいというんだからね」
少年はうなずく。
「命をかけて、その仕事を手伝うよ」
老人は嬉しそうに彼を見た。
「頼んだよ。わたしのことは、公爵と呼べばいい」
「わかった」
老人うなずくが、思いついたように言葉をついだ。
「さっき、お前はあの子のために死ぬといったが……」
「そうだよ」
「その考えはいかん。お前が死んだら一体誰があの子を守るのだ?まず、お前は、自分が生きることを考えるのだ」
「随分話が弾んでいるじゃないか」
笑いながら美女がお茶を持って部屋に戻ってくる。
「お話したフロストです。お眼鏡に適いましたでしょうか」
「ああ、いい子だ。これからは、この子の力も加えた計画を立てるよ」
その後、40日に一度ぐらいの割合で、公爵から宝石奪取の計画が届き、それをふたりで実行し続けている。
よその街に出かけることもあったので、マフェットは彼のために通行文を手に入れてくれた。
相変わらず、公爵の計画は完璧で失敗する気がしない。
緻密でありながら、状況の変化で様々な対応ができるように組み立てられている。
まさに戦術の天才だった。
貴族や商人相手に宝石を手に入れるのは順調だった。
だが、問題は月猫亭の店内で起こったのだった。
彼が心配した通りの状況で。
その日、男と待ち合わせをしていたメイラという女のもとへ、痩せた男が近づいた。
昼間、店の開いている時間、フロストは目立たぬように戸口に立って入店する男たちに注目している。
その男が、半月ほど前に、メイラといざこざを起こして出入り禁止になっているモースであることに気づいた彼は、矢のように彼に走り寄った。
そのまま、思い切りモースに体当たりする。
危ないところだった。
モースは、上着の下に隠した大きなナイフを取り出して、メイラに斬りつけるところだったからだ。
小柄な体格ではあるが、少年に勢いよくぶつかられ、男は大きく身体を泳がせた。
質量差から、大きく弾かれたフロストは、尻もちをつきながら、モースについて思い出さなければならないことがあるような気がして、眉間に皺を寄せている。
メイラが悲鳴を上げ、皆が彼らを注目した。
「くそっ」
モースは体勢を立て直すとメイラに向き直った。
少年は、メイラの前に立って男から守ろうとする。
「どけ、小僧」
「この店で乱暴は許さない」
「ガキが」
叫ぶと同時に、モースの胸が青白く輝く。
それで、少年は思い出した。
この痩せた男は、王都から左遷されてきたと噂される兵士だった。
しかも魔法を使う――
身体が発光したところを見ると、こいつは強化魔法の使い手だ。
そう思った瞬間、男のナイフが真横に薙ぎ払われた。
魔法のお蔭か、凄まじい速さだ。
だが、フロストも並の少年ではない。
メイラを突き飛ばすと、とっさに身体を捻って、刃先から逃れた――つもりだったが、まるでナイフが伸びたように、わずかながら彼の胸を切り裂く。
吹き出る血を見て、再び店内に悲鳴が響く。
横っ飛びに逃げたフロストは、胸に手を当て、吹き出る血で指を濡らすと、それを嘗めた。
少し塩辛く、錆びた金属の味がする。
彼には馴染みの味だ。
老人は彼に言った。
死ぬな、と。
強化魔法か――戦ったことはないが、何とかなるだろう。
おそらく、モースの方が彼より3倍は強いはずだ。
そう考えて、彼は苦笑する。
強さを数字で考えて何になる。
とっさの機転、反射、機知、それらを駆使すれば必ず勝てる。
戦いの場での数字遊びは無意味だ。
少年は、手近なテーブルの上に手を伸ばし、食事用のナイフをつかんだ。
身構える。
「来い!」