410.月猫
その日から、フロスト・アスフェルとなった少年は、彼女のもとで共に暮らし、働き始めた。
だが、その前にマフェットから、
「あんたは、今のままじゃ、また悪い奴らに捕まっちまうだろう」
そう言われて髪型を変え、髪色も、ヘノの葉の絞り汁で地毛の金色から黒褐色に変えさせられる。
アラント大陸の人間に髪の色を変える習慣はない。
髪は人にとって特別な部位なのだ。
ある種の人間にとっては、髪の色で階級や身分すら特定されてしまうほどの――
ほぼ全ての者は、生まれたままの髪色で生き、歳をとって白くなった髪で死んでいく。
だから、髪の毛の色を変えるのは変装としてはかなり有効なのだった。
髪型をまったく違うものにし、髪色も変えたフロストは、王都で暮らしていた頃とは別人として生活を始めた。
念のため、しばらくは外出を控え、マフェットの店、月猫亭で下働きをして過ごすことにする。
その中で、彼が驚いたことが二つあった。
ひとつは、店に出るマフ姉があまり美しくないことだ。
もちろん、世間の女たちと比べれば充分に美しいのだが、彼が家で見る素顔の彼女の美しさに比べれば随分劣る。
彼女は、人前に出る時は醜くなるように化粧を施していたのだ。
女たちが、自らを美しく見せるために、様々な液体と道具を使って顔を飾り立てていることは、彼も知っていた。
彼と同い年の浮浪児仲間の少女ですら、草の汁を使って、何らかの細工をしていた。
それは、より美しく見せるためであって、その逆では断じてない。
しかし、マフ姉は、そのあり得ない化粧をして、毎日、店内の小さな舞台に立つのだった。
あえて自分の美を打ち消す化粧をしても、並みの女たちに比べれば遥かに美しいのはさすがだが――
彼女がそうする理由は分かる。
アラント大陸において、美しさは身分の高い者の特権だ。
マフ姉の素の美しさは、ひと目でその生まれが尋常でないことが分かるものだった。
どう見ても、上位貴族以上の美しさの女が、辺境の街の場末で裸同然の踊りをしていれば噂にならないはずがない。
だから、彼女は自らを醜く装うのだ。
だが、少年の心は複雑だった。
彼のマフ姉の美しさを人に自慢できない口惜しさと、自分だけが知っているという優越感の板挟みの相克が、日ごと彼の気持ちを波立たせる。
もうひとつの驚きは、彼女の店のことだった。
そこで働く女たちは、女主ほど美しくはなかったが、彼女が見込んで雇った者たちだけあって、気立てが良く明るい娘たちが多かった。
フロストは、まだ10歳になったばかりではあったが、娼館で男女が行う行為については多少の知識がある。
だから、働き始めた最初の頃から、彼女たちが昼前から店に出ていることに疑問を持っていたのだ。
もちろん、陽の高いうちから、そういった行為に及ぶ男もいるだろう。
だが、そんな男の数は少ないだろうし、そのためだけに多くの女たちを、朝に近い時間から店に詰めさせるものだろうか?
月猫亭は酒場と食堂を兼ねた店ではない。
明らかに、男が女に会いに来る店なのだ。
さらにしばらく働くと、彼は、昼間、店に来る男たちが馴染みの女と連れ立って街に出かけることを知った。
要するに、明るいうちに店に出る女たちは、夜の間に約束した男が迎えにくるのを待っていたのだ。
アラント大陸では、どの国においても、決まった日に休むという制度、習慣はない。
そもそも神の概念がないため、地球のように聖書に記された、神が6日かけて世界を作り7日目に休んだという記述もなく、したがって安息日が存在しないからだ。
だから、人々の中には、食わんがために働くだけ働いてまったく休まない、あるいは休めない者もいれば、ある程度の余裕をもって疲れたら休養をとったり気分転換するものもいる。
夜、店にやって来るのは、丸一日の休みが取れない男たちがほとんどだ。
彼らの『自分の時間』は夜のひと時だけ。
その貴重な時間を使って、男たちはテーブルにつくと馴染みの女を呼んで少量の酒を飲みつつ話をする。
なぜ、少量の酒かといえば、月猫亭では、客を泥酔させないために一人の客に出す酒の量が決まっているからだ。
これが少年には不思議だった。
酒場は、あの手この手で、酔い潰すほど飲ませて稼ぎを増やすのもだ。
少なくとも王都ではそうだった。
月猫亭では、そんな店の方針で、男たちは深酔いすることなく適度に酔って女たちと会話する。
話の内容は、とりとめのないものが多い。
少年は店内を歩き回り、酒を注ぎ、ちょっとした食事を運び、皿を下げながら、聞くとはなしに彼らの話を耳にする。
今日、仕事でこんな嫌なことがあった、あるいは良いことがあった、家族から生まれ故郷の街に戻ってきて家業を継げと言われている、などなど。
中には、母親から文が届いたが字が分からないので読んでくれ、と頼まれて文章を読み上げ、涙を流す男の背中をさすった挙句、返事を代筆する女もいた。
月猫亭の女たちは、気立てが良いだけではなく教養もあるのだ。
マフ姉は、訳ありで身を持ち崩しかけた元貴族の娘であったり、家を無くして娼婦になりかけた商家の娘や、身売りさせられそうな貧乏人の娘に、ひと通りの教育を施して店に雇っている。
帰る家のある者はそこから通い、家の無い者は店の上の部屋で共同生活をしているのだ。
ちなみに、彼女たちの部屋の掃除や服の洗濯などは少年の仕事に含まれないが、ちょっとした壁の穴や屋根の修繕は彼の仕事だった。
要するに月猫亭は、女の身体ではなく、優しさを、気持ちを売る店だった。
「そんなことで、よく客が来るなぁ」
化粧を落として美しくなったマフ姉と晩飯を食べながら話をするうち、ごく自然に口をついて出た言葉に彼女が激しく反応した。
「だから、あんたはガキなんだよ」
「ど、どうしたんだい、姉さん」
珍しくきつい彼女の調子にフロストは驚く。
「女の身体が欲しければ、この街に150以上ある他の店に行けばいいのさ。あたしの店では、それ以外を男に与えるんだ」
「それ以外……」
「いいかい、男が好きな男もいるけどね、そうじゃない普通の男には絶対に女が必要なんだよ。身体だけじゃなく、気持ちがね」
「気持ち――」
少年の脳裏に、店の男たちの心地よさげな顔が浮かんだ。
それでなんとなくその意味が彼にも理解できる。
「じゃあ、なぜマフ姉は店で踊ってるんだ」
素朴な疑問を尋ねる。
女の気持ち、優しさを売る店なら、彼女の裸に近い踊りは必要ないだろう。
「それは、あんた、あたしは踊るのが好きだからに決まってるだろう」
驚いた顔をする彼に向かって吹き出し、
「冗談さ。もちろん、踊りが好きっていうのは本当だけどね――いいかい、さっきあたしがいったことは、あくまで建前、きれいごとさ。男には、女との心の触れ合いが必要、それは真理だ。でも、ほとんどの場合、触れ合いっていうのは、女の身体が込みなのさ。心はいらない、身体だけでいいって奴は他の店に行ってもらうとしても、うちの店を気に入ってやって来る連中でさえ、仲良くなったら女の身体を欲しがってしまう奴は多い。いや、それが正常なんだ。だから、人の良いうちの子たちが、そいつらの餌食にならないように、いつもあたしが店の真ん中から目を光らせてるのさ」
確かに、彼女が踊る舞台は店の中央にあって、男の相手をする女たちのテーブルすべてを見渡せる位置にある。
そして、時々舞台から降りると、客に挨拶をする体で、しつこい男に困る女たちにやんわりと助け舟を出していた。
「それなら、昼間に男と一緒に街に出る女はどうなんだ。あれにはマフ姉の目が届かないだろう」
月猫亭では、昼間に彼女の許可を経て、夜になるまでの半日間、女と街に繰り出す男も多い。
「あれはいいんだよ」
事も無げにマフェットは言う。
「どうして」
美女はしばらく、話をするか迷う素振りを見せ、
「月猫亭の本当の役目は、世界に身の置き所の無くなった女に、良い男を見つけてやることなのさ」
「良い男?」
「そう、女を、自分が気持ちよくなるための道具として見ずに、その心を好きになる男――うちに来る時点でほとんど合格だね。次に、この店に来るだけの稼ぎのある男、そして最後にあたしが認めた男。そんな男となら昼間に出かけてもっと仲良くなったってかまわない。それで一緒になればいいのさ」
少年は、串に刺した肉を空中で彷徨わせて言う。
「つまり、マフ姉は裸同然で踊りながら、不幸な女たちを男とくっつけてるんだ」
「いいかたにはちょっと引っかかるけど、まあ、そういうことかね」
釈然としない顔でいう美女に、彼は笑いかけた。