041.紅眼
シュテラ・ミルドを発つにあたって、アキオはコートの色を緑に、髪の色をブロンドに変えた。
一応、瞳の色も青色にしておく。
白亜の門を守る衛士は、何の注意も払わず彼を通した。
陽はすっかり落ちて、今日も大きな月が空に輝いている。
あの大きさの月があると、海洋の潮汐も相当大きいだろう。
キイが、海沿いの国家でも、船を遠洋に出せないと言っていたことを思い出す。
それも月が遠因なのかもしれない。
その辺のデータ収集はミーナが行っていることだろう。
太陽フレアが終わって通信が回復したら、調べても良いかもしれない。
そんなことを考えながら、のんびりラピィを進めていると、前方にほっそりとした影が立っているのが見えた。
アキオは苦笑する。
馬車を道の端に寄せて停め、御者台から降りて近づく。
「ピアノ――」
アキオが声をかける。
「相変わらずの怪物ぶりね。それもナノクラフトという魔法なの?」
紅い眼の少女に言われて、彼は容姿を変えていたことに気づいた。
アーム・パッドを操作してコート、髪色、瞳の色を戻す。
ピアノは、どこからか『ナノクラフト』という言葉を見つけ出したようだ。
「そのおかげで、わたしも助かったのだけれど……」
少女は微妙な笑顔を見せる。
「俺も昼間は助かった。結果的に、だが」
「あなたの強さも、そのナノクラフトなの」
アキオは首を振る。
「――身についた呪いだ」
その簡単な言葉でピアノは理解する。
「呪い……やはりあなたも普通には育っていないのね」
「で、何の用だ」
「わたしと戦って!」
真剣に赤い目を光らせる少女の姿に、アキオは苦笑する。
「ダンク・モイロの依頼を果たす、か?」
「――何も言えないわ」
アキオが掛けた鎌に、ピアノはほんの少しだけ返答が遅れる。
「そんなに急がなくてもいいだろう。身体のほうも、まだ万全じゃないはずだ――」
「あなたに何がわかるの?」
「わかるさ。お前のことなら全部。喉がすぐ乾くだろう。右目が軽く霞むこともあるはずだ。どちらも再生していま調整しているところだからだ。左の胸に張りがあり、それに尿意と――」
「黙って!」
「――つまり、もっと体調が万全になってから俺を襲えばいいということだ」
「お為ごかしをいうのね」
アキオは目を細め、女暗殺者を見つめる。
「ちょっと来い」
「誰がいくの?」
「お前が来るんだ。来い!」
アキオはそう言って馬車の背後に回り、扉を開ける。
黙ってついてきたピアノを招く。
「入れ。中の様子は前に寝てたから知っているだろう。心配なら扉は開けておく」
「何を――」
「入れ」
警戒しながら馬車に乗り込むピアノをテーブルに着かせる。
「きれいな娘だったわね。女公爵さま……」
テーブルに置かれた黄色い花を手に取り、少女がつぶやく。
「見ていたのか?」
「何を?この花を彼女が胸に入れていたこと?雨の中、あなたがずっとコートで彼女を抱きしめたこと?それとも彼女のために街の男たちを20人ばかり殴り倒したことかしら」
「さすがだな。見られていたことに気づかなかった」
考えてみれば、あのタイミングで乱闘に飛び込んでくるのだ。
彼をずっとつけていたことは容易に想像がつく。
「それとも、あの気の毒な屋台の店主が、乱暴な客に店を壊されたことかしら」
突然、少女がくっくと笑う。
「あのあと、彼はそれまでカモにしていたお客につるし上げられて大変だったのよ」
「あれは気の毒だった」
「それもあの娘が髪留めを欲しいといったから……」
「――」
「そして、弓と剣で武装した兵士200人との殴り合い……とんでもないわね」
「あれにはお前も関わった――」
「そして別れるときに交わした口づけは2分たらず……もっとも、わたしの時は顔と目と鼻に2分5秒だったから、その点はわたしが勝っているけど……」
アキオは、ばかばかしくなってきた。
「勝った?何の話だ?まあ――おまえがいれば日誌を書かなくていいということはわかる」
「馬鹿をいわないで……」
アキオは、少女が急に元気をなくしたのに気づいた。
アーム・バンドに目を落として少女の数値を確認する。
アキオは、調理室まで歩き、ケースから回復用のホット・ジェル・ボトルを4本取り出した。
テーブルの上に置く。
「飲め、腹が減ってるだろう」
「空腹なんか……」
言いかけてピアノは黙った。
アキオが、彼女の体のすべてをお見通しなのを知っているからだ。
「中に毒が――」
暗殺者の言葉を手で押さえ、アキオはボトルの底を押して加熱し蓋を開けて少し飲む。
残ったホット・ジェルを少女の前に置く。
「これで毒がないのがわかっただろう」
「あなたは毒が効かないじゃない」
ふっと彼は笑い。
「今ではお前もどんな毒物も効かない身体だ、飲め」
ピアノが、躊躇しながらボトルに口をつけた。
「美味しい」
思わず出た言葉に、しまった、という表情になる。
アキオは、工作室からヒート・パックを持ってくると、椅子に座ったピアノの膝の上に置いた。
「続けて飲め。飲みながら腹にパックを当てておけ」
ピアノはアキオを睨みながら、彼の言葉に従う。
「10分でいい。そうすれば、身体の不調のほとんどはなくなるはずだ」
ナノ・マシンによる回復以来、ピアノは、ろくなものも食べずに野宿をくりかえしていたはずだ。
体内のナノ・マシンがそれを示している。
身体は完全に治っているはずだが、栄養と熱量の不足で最後の調整が終わっていないのだ。
ピアノはジェルを飲んだ。
「なぜ、こんなお節介をやくの。わたしはあなたを殺そうとしているのよ」
「なぜだろうな」
アキオ自身も不思議に思う。
今の彼の気持ちに一番近いのは、せっかく治しかけた体が、中途半端に不調なのが気に入らない、ということだろう。
一度、完全に治しさえすれば、あとは彼女がその体をどう使おうと知ったことではない。
「飲んだか?」
少女はアキオの問いに答えないが、テーブルの上には空のボトルが並んでいる。
「よし、なら寝ろ」
「ま、待って、また勝手なことを……」
抗議するピアノの意識が薄れていく。
「明日の朝になれば、完全に体調は戻るだろう。そのあとは好きにすればいい」
テーブルに突っ伏す灰色の髪の少女を抱き上げて、アキオはベッドに運ぶ。
背と腹にホット・パックを置き、上からシーツをかけた。
御者台に戻ると、待たせたことをラピィに謝って道を進める。
三時間ほど進めたところで、彼は道を横切って小川が流れているのを見た。
思いついて街道を逸れ、アキオはラピィに河沿いをさかのぼらせる。
さっきのピアノの反応から、依頼人がダンクである可能性はほぼ消えた。
ガルによるキイの連絡もまだのようだ。
ならば、あまり早くシュテラ・ザルスに戻ってもしかたないだろう。
先刻のピアノのホット・パック姿を見て、彼も風呂に入ってナノ・マシンにエネルギーを与えようと考えたのだ。
おそらく、キイと合流しキューブ奪回のためにエストラに行けば休む暇もなくなるだろう。
道から離れた川沿いに馬車を停めたアキオは、手早くボードを組み合わせて風呂桶を作った。
工作室からポンプを持ち出して、川から水を汲む。一応水はナノ・マシンで浄化する。
ホット・パックを風呂に沈めたアキオは、ピアノの様子を見に行った。
「……ダメ……う、ああ」
暗殺者のベッドから声がする。うなされているようだ。
一応、ノンレム睡眠になるように調整しておいたが、夢はレム、ノンレムどちらでも見るのでこれは仕方がないだろう。
顔を覗くと、ピアノは美しい眉を寄せて、首を嫌々するように動かしていた。
額に汗が浮かんでいる。
不意に右手が宙に出され、何かを求めるように動く。
しばらくアキオはそれを見ていたが、表情を変えずに左手で少女の手を握ってやった。
ナノ・マシンを与えた時のように恋人つなぎする。
灰色の髪の美少女は安心したようにアキオの手を握り――
左利きのピアノの手が素早く動き、銀の針がアキオのこめかみを襲った。
「――!」
針はアキオの右の手のひらを貫いて、頭に当たるギリギリの位置で止まった。
少女は目を開ける。
「どうして……?」
「さっきまで、おまえは本当にうなされていた。おそらく何らかの刺激で俺を攻撃をするように自己暗示をかけていたんだろう、違うか」
アキオは針から少女の手を外させ、手のひらを貫いた銀針を抜いた。
傷は一瞬でふさがる。
ピアノのナノ・マシンから直接感じる一瞬の意識の揺らぎに気づいたから防げたのだ。
彼女は暗殺者として一流に違いない。
アキオの言葉に、ピアノは、ふっと息を吐いて呟くように言う。
「その通りよ。勝てないな、あなたには……」
「もういいから寝ろ。まだお前の身体には熱量が必要だ」
アキオがパーティションを出ていこうとするとピアノが袖をつかんだ。
「待って」
少女と目が合う。
「決めていたの。さっきの攻撃があなたに通じなかったら、もう殺すのはやめるって」
「いや、攻撃は通じていた――」
アキオは右の手のひらをみせる。
「傷も残ってないのに……あなたって人は――」
ピアノは、初めて屈託のない笑顔を見せた。
表情に暗い翳がなくなって、ぱっと花が咲いたような印象になる。美しい生き物だ。
「あなたには全部話すわ。依頼人もなにもかも」
「それは明日の朝でいい。今は寝ろ」
そう言い残してアキオは馬車を出た。
空を見上げると、夜空には、どういう配置なのか、三つの月が斜めに並び、真ん中の月が新月になって両側の月が明るく光っていた。
浴槽に手をつけ、湯加減をみるといい感じだった。
服を脱ぎ、かかり湯をして湯につかる。
全身を取り巻く湯が体に熱を与え、それを受け取ったナノ・マシンが激しく振動するのを感じる。
「……」
浴槽にもたれ、不思議な形の月を見上げる。
眠くもないのに、目がふさがってくる。
近くに人の気配がした。
浴槽に近づく。
目を開けるとピアノが立っていた。
少女は、手早く服を脱ぐとかかり湯をして湯に入る。
そのまま湯の中をアキオに近づくと、彼にもたれて肩に頬を乗せた。
「どうした?」
「あなたに謝罪とお礼がしたい……」
「なぜ?」
「それはさっきいいました。あなたを殺すのはやめたのです。あなたへのわたしの気持ちは、殺意と感謝と……なにかモヤモヤしたものがあったけど、いまは感謝とモヤモヤだけ――」
アキオは苦笑する。
「正直すぎてかえってよくわからないな」
「自分でもよくわかりません。ずっと人を殺すことしかしてこなかったから」
「いくつだ、君は」
「16……いえこのあいだ17になったばかり」
「いつから暗殺を?」
「7歳から」
17歳で10年間の暗殺――最近は病弱だったようだが、それでもなかなかのキャリアだ。
「これからどうする?」
「わかりません。何をしたらいいのか――」
「組織に所属しているのか」
少女は首を振る。
「3年前に身体を壊して、わたしは組織から捨てられました」
「俺の殺しは君の単独行動なのか」
「兄が教えてくれました、あなたが父を殺したって」
「父?」
そう言われても誰かは分からない。
殺した数は、向こうの世界なら十数万だが、こちらならまだ2桁以下のはずなのだが。
「誰だ?」
「サルヴィル・ド・コント」
アキオの頬に指を当ててピアノは続ける。
「たぶんあなたには誰かわからない。結社シュネルのリーダーなのです。いつもフードを被っている」
アキオは気づく。
「巨大な火球を生み出す魔法使いか――」
「そう。それがわたしの父。血はつながっていないませんが」
「結社といったな。盗賊団ではなかったのか」
「サンクトレイカ王国内部調査部の末端組織のひとつ。汚い仕事の実行部隊」
「ピアノ」
「はい」
「お前の言葉遣いは闇の人間らしくない。なぜだ」
「さあ」
少女は小首をかしげる。
「本当の両親が貴族で7歳まで貴族の娘として育てられたから、でしょうか」
「そうか」
アキオと違い、ピアノは記憶改変を受けてはいないようだ。
記憶は狙い撃ちに消したり変えたりはできない。彼がやられたように薬物と強制暗示で上書きするだけだ。その際に多大な記憶損壊を引き起こしながら。
そこでアキオは気づく。
「お前は、他の暗殺者を始末したといったが――」
「2番目から6番目の義兄たちを始末しました。全員父の養子です。わたしたちは8人兄弟で、7番目の姉とわたしだけが女で、わたしが一番下。一番上の兄は内部調査部の部長で、彼にあなたが父を殺したと教えられました。今、父の養子で生き残っているのは、長兄と姉とわたしだけ」
「お前は父親を殺した俺を憎くはないのか」
「義理の父です。あの人から愛情を受けた記憶はありません。今思うと、父の仇は口実でした。わたしは死にたかったのです……早く、苦しい生から……それをあなたが――」
「おまえが組織から狙われる可能性は?」
「たぶん、ありません。あのひどい状態が元に戻ることはないと思われているし、あなたが服を使ってわたしが死んだように偽装しておいてくれたから。兄たちですら、今のわたしをピアーノだと思うことはないでしょう」
「おまえが死んだと思われているならそれでいい」
「でも、あなたは――」
「アキオでいい」
少女公爵の顔が浮かんだ。
「親しい者も殺しにくる者もそう呼ぶ」
彼はさっぱりした表情で続けた。
「狙われるのには慣れている。かまわないさ」
「でも、敵は王国の組織です」
「同じだな」
「アキオ!」
そういうなり、ざばっとピアノが立ち上がった。
アキオの前に裸身をさらす。
「どうした」
「見て、アキオ。わたしの身体はあなたに会うまで腐って死にかけていました」
「そうだな」
「でも今は――」
そういって、ピアノはゆっくりと回り、
「傷一つない。あなたがわたしを生き返らせたから。あの……恥ずかしい方法で」
(恥ずかしい?)
アキオは首をひねる?
「そう、そうね」
自分で納得して、ピアノはいきなりアキオに覆いかぶさった。
アキオの頬を両手で挟み、唇を合わせる。
長い口づけだ。
撥ねつけようかとアキオは考えたが、ピアノの身体が湯につかっているのを見てやめる。
とりあえず、少女の体に熱量を加えるのが優先だ。
ずいぶん経って、ピアノは口を離した。
銀の糸のような唾液が伸びる。
「いまので3分。これで唇どうしの口づけでも女公爵さまに勝ちました」
「前に何分もしただろう」
「あの時は――」
そういってピアノは頬を染める。
「唇がなかったでしょう」
「そういうものか」
「とにかく――」
ふたたびピアノが立ち上がる。
細い首筋、華奢な肩、大きすぎない胸から下腹に続く、水に濡れたウエストのラインが月光に映えて美しい。
「あなたが治したこの体を、あなたのために使いたいのです」
アキオは苦笑する。
キイと同じようなことをいう少女を見て、この世界の女はみんなこうなのかと面倒くさくなる。
彼には研究以外の助けは不要なのだ。はっきり言って邪魔だ。
それに、さっきまで彼を殺そうとしていた女でもある。
「どこまで信じられ――」
「これからのわたしの行動を見てくれればいい」
「しかし――」
「とにかく、わたしはあなたについて行きます。どうせ行くところもないのですから」
「わかったから、湯につかれ」
アキオは内心、やれやれとため息をつく。
今の彼には、私的傭兵のキイだけで手いっぱいだ。
暗殺者まで抱え込むことはできない。
「その話は明日以降にしよう」
厄介な暗殺者は、なんとかダンクに押し付けようと考えて、アキオは話を打ち切った。