408.義賊
「しかし、あんたも、なかなかのガキだねぇ。逃げ込む先をうちの店にするなんてさ」
少年は、眼を丸くして彼女を見つめている。
「なんだい、分かってないのかい」
そういって、彼女は、身体にまとっていたマントのようなものを広げて見せた。
「――」
彼が眼を見開く。
美の化身のような女性は、マントの下にほとんど何も身に着けてはいなかったのだ。
当然のように、その体も完璧な美しさだった。
「驚いたようだね。そう、ここは大人専用の店さ。酒を飲み、ご要望に応じて殿方の相手をする乙女のいるね。ま、正確にはその隣のあたしの家だけどね」
そういって再びマントに身をくるむと、
「あたしは男の相手なんかしないよ。踊るだけさ。さいわい裸は恥ずかしくないんでね――ん、あんた顔が赤いね。なんだい、もう色気づいてるのかい。ダメダメ、女なんて、ちゃんと自分で金を稼ぐようになってからだよ。第一、あんたまだ子供だしね」
「金なら稼いでた」
本調子ではない顎のせいで、くぐもった声のまま、彼がむきになって言う。
「そうかい。どうせ、やばいことに手を出していたんだろう。あたしがいってるのは、まっとうな金のことさ」
少し釣り気味の大きな眼で見つめられ、少年は言葉を失った。
確かに、彼がやってきたのは、窃盗、強盗、詐欺など、一般に犯罪と呼ばれることばかりだ。
ろくなことはない。
さすがに、金で人を殺したことはなかったが……
「とはいえ、あたしも偉そうにいえた義理はないんだけどね。ま、とにかく、しばらく眠りな。あんたが、どうやってあたしに恩を返すかは、元気になってから考えようじゃないか」
そう言って、美女は微笑み、
「あたしの名はマフェット、マフェット・アスフェル。マフ姉さんと呼べばいい」
「わかったよ、マフェットさん、俺は――」
少し顎の調子の戻った少年が言いかけると、
「ダメダメ、あたしを名前で呼んでいいのは恋人だけさ」
「マフ姉、俺の名は」
「あんたの本名なんでどうでもいいんだ。どうせ、ろくでもない過去を引きずってるんだろ。あたしがいい名前を付けてやるよ」
そう言って彼をじっと見つめる。
美人に見つめられることに慣れない少年は、居心地悪そうに身じろぎする。
「フロスト、あんたの名はフロストだ」
「はしっこい?」
「そうさ、いかにもすばしっこそうじゃないか、今はボロボロだけどね」
「わかった」
「じゃあ、寝な。晩飯の頃には起こしてやるから」
氷のように冴えた美貌にも関わらず、存外、彼女は面倒見が良かった。
それから数日の間、店の踊りの合間に、彼のために手ずから、あまり噛まなくてもよい食事を作って食べさせてくれる。
少年、フロストは、生まれて初めて大人から優しくしてもらったのだった。
詮索はしなかったが、マフェットは、彼の事情に薄々感づいているようで、追手に見つかってはいけないからと、部屋の外には出してくれなかった。
6日目の朝、食事を終えた彼に美女は尋ねた。
「身体はどうだいフロスト」
「もうすっかり治ったよ、姉さん」
彼は手足を動かしてみせる。
「じゃあ、約束通り、役に立ってもらおうかね」
椅子からさっと立ち上がった少年は、美女を見上げた。
「受けた恩は忘れない。何でもやるからいってくれ」
「ここ何日か、あんたを観察させてもらった」
少年はうなずく。
「口は硬そうだし、頭もよさそうだ」
「頭はわからないが、口は硬いつもりだ」
マフェットは、しばらく考え、
「最初からそのつもりなんだから、もう腹をくくるよ。あんたを仲間にする」
「仲間」
「ずっと、あたしひとりでやってた仕事があるんだ。でも、さすがに何もかもひとりでやるには無理があってね」
「何でもやるよ」
少年の決然たる言葉に彼女は笑う。
「頼もしいね――分かった。これから説明する。だけど、あんたが知っていいのは、あたしが話すことだけだ。許可しないかぎり質問は受け付けない、いいね」
「わかった」
「明日の夜、南西街のマルコット卿の屋敷にある荷物が運び込まれる。それを奪うんだ」
少年はうなずく。
「計画は立ててある、あたしたちは、それに従ってやるだけだ。この仕事で血が流れたり、人が死ぬことはない」
そういって、マフェットは、計画を説明した。
「だいたい、こんなところかね。さあ、聞きたいことがあるなら、今、聞きな」
「特にないよ、姉さん」
美女は、目元を緩める。
「あんたって子は――何かあるだろう」
「ではひとつだけ。姉さんは、まっとうな金で女を買えといった。俺は、姉さんの店の女を買うつもりはないけど、この仕事で稼いだ金で女は買えるのかい」
マフェットは、あはは、と良い声で笑い、
「もって回っていいかたをするねぇ。要はこの盗みに正当性があるかってことだね」
美女は真面目な顔になり、
「あるのさ。その荷物はすべてあたしのもの、正確には、あたしの母親のものだからね。奴らが、彼女を騙し、あたしを殺して取り上げたものだ。他のものは構わない、だけど、あれだけは譲れない。あたしの父親が、母とあたしにくれたものだから」
フロストはうなずいた。
ついで、美女は思いがけないことを言い出す。
「この仕事がうまくいけば、あんたをあたしの家族にする」
「家族……」
「ずっと一緒に暮らすってことさ」
計画当夜、薄暗い路地の暗がりの中で少年は緊張していた。
年は若いが、これまで様々な悪事に手を染めてきた彼だが、今回のように秒単位の計画を実行するのは初めてだったからだ。
彼が失敗して首を刎ねられるだけなら問題ない。
自分の取るに足らない人生が終わるだけだ。
だが、それは同時にマフ姉の人生も終わることを意味する。
それは、絶対にあってはならないことだった。
助けてもらった恩がある。
それに、彼女は良い大人だ――いや、そうじゃない。
何だか分からないがそれだけじゃない。
少年は、自分の心の動きをよく理解できない。
ただ――要するに、彼は彼女と知り合ってしまった。
それが重要だった。
命以外、失うものを何一つ持たなかった少年は、生まれて初めて、心から守りたいと思うものを手に入れてしまったのだ。
少年は、いつもガズル採りを始める時にやっていた深呼吸を繰り返す。
徐々に気持ちが落ち着いてくる。
武者震いする手は、深夜を告げる静かな鐘の音が響くと、ピタリと落ち着きを取り戻した。
行動開始だ。
少年は、マルコット卿の屋敷前の路地から走り出た。
「よくやったね」
マフェットが褒めてくれる。
「これであんたはあたしの家族だ」
強奪は成功したのだった。
しかも、拍子抜けするほどあっさりと。
だが、それは、彼がうまくやったというより、計画が完璧だったからだ。
彼でなくとも、指示通りに動きさえすれば誰でも成功しただろう。
部屋に戻った少年は、背負った袋から小さな木箱を取り出した。
「姉さん」
それを美女に渡す。
彼女は箱を開け、中から布に包まれた塊を取り出した。
包みをほどく。
薄暗いメナム石の光を受けて、眩いばかりの赤い光を放つ巨大な宝石が姿を現した。
「ああ、グラン・アズロ」
頬ずりするように顔を近づけたマフェットが呟いた。
「これは、特に母が好きだった宝石でね――ありがとうフロスト。あんたがいなければ、今回の計画は実行できなかったよ。今までは、何とかあたしひとりで成し遂げられるよう、計画を授けてくださったんだけど、だんだん、奴らも警戒するようになってきてね」
じっと自分を見る少年の眼に気づいて、美女はしばらく眼を閉じて考えた後、言った。
「フロスト、ついて来な」
彼女の住まいは、目抜き通りから外れた路地中ほどにある店と、小さな中庭を隔てたとなりの建物にある。
そこを出たマフェットは、中庭に立つ小ぶりな物置小屋に入った。
「これから、あたしの秘密を見せるよ」
暗く、狭い小屋の中で身を寄せ合うようにして彼女が言う。
「あたしは、馬鹿なことをしようとしているのかも知れない。でも、あたしは、あんたを信じる。この二十年、騙され続けて人を見る目はできたつもりだ。それで、もし、あんたが――」
「俺は裏切らないよ」
少年は、少し震える声で腹に力をこめて言う。
かつて、彼の素早さ、強さ、賢さを、道具として欲しがった者は多かった。
孤児の仲間たちも組織も、結局は彼の力が必要だったのだ。
だが、この良い匂いのする美しい女性は、彼を信じると言った。
家族と呼んでくれた。
それは、今まで気づきもしながったが、彼が一番欲しかったものだったのだ。
言われて初めてそれに気づき、心が震えた。
この人を裏切るなんてできない。
少年は、腹の底からそう思う。
小屋の中には大きな箱が置かれていた。
その上に乗ったメナム石に火を入れ、荷物を下ろすと、彼女は重そうな木箱に手を掛け、あっさりと持ち上げて横にどかせた。
「見た目ほど重くないのさ」
その下に、今度は本当に重そうな鉄の蓋があった。
マフェットは首からチェーンで下げた鍵を胸の間から採り出し、蓋にあいた穴に差し込んだ。
カチリ、と音がして、錠がはずれる。
力をこめて蓋を上げると、中には石造りの階段が続いていた。
光るメナム石を手にして美女が微笑む。
「さあ、中に入りな。ここに招待するのは、あんたが初めてだよ」