407.浮浪
少年は孤児だった。
だが、親がいないことを悲しいとも思わなかったし、寂しいとも思わなかった。
物心がつくころには、彼には王国の下町で暮らす孤児仲間がいたからだ。
年は若く、身体は小さいながらも敏捷で、身体能力の高かった彼は、すぐに仲間の間でもリーダー格になり、自分なりのルールを決めて皆をまとめあげた。
もちろん、世間一般の常識とはまるで違う。
ケンカ、脅し、かっぱらい。
金になるなら、何をやってもいい。
命を守るためなら人殺しさえも――
だが、ガズルには手をだすな。
ガズルとは、王国の西にあるガズー山の崖に生える苔から作る煙草の名だ。
それを煙管につめて吸えば、疲れた体が楽になり、良い気分に浸れるが、やがて、それなくしては生きられなくなる、死に至る嗜好品だった。
先王によって厳正に禁止されていたガズルは、現王になって一応は禁止された体を装いながら、陰では大っぴらに売買されるようになった。
ガズー山は、もろい石が積み重なってできた山で、大人では、その断崖絶壁にできるガズルを収穫できない。
体重が軽く身も軽い子供数人が、崖の上でロープを持って、もっとも俊敏な者がその先にぶら下がり、腰に吊った袋へ苔を詰め込んでいくのだ。
彼ら孤児たちにとっても、崖に生えたガズルを収穫するのは命がけだが、その分、ケチな仕事で得る金額とは比べ物にならない額の金を手にすることができるため、少年も駆け出しの頃は、断崖絶壁をロープにぶら下がって右に左に飛び回ったものだった。
眼もくらむような高さを露台でも歩くように楽々移動し、次々と苔を採取する彼の収穫量は飛びぬけていた。
しかし、ある時期を境に、少年はきっぱりとガズル採りとは縁を切ったのだった。
ガズル採りは危険な作業だ。
ほんの少し、ロープを押さえる少年たちの体重が崖際に傾いただけで、ごっそりと縁が崩れ、下にぶら下がった者と共に数百メートル下の河原に転落する。
ひどい死にざまだ。
崖下には、誰が誰なのか、何人死んだのかもわからない惨状だけが残される。
だが、少年は、恐怖心からガズル採りから手を引いたのではなかった。
確かに、幾度となく仲間の少年たちが、かたまって落下していく様を眼にしたこともあり、恐ろしいと思うことはあったが、彼はまだ若く、体の内には向こう見ずな赤い炎が燃えていた。
他人は落ちても、自分が落ちるわけがない、という根拠のない自信が全身にみなぎっていたのだ。
少年が、ガズル採りを辞めたのは、それに手を出す者の末路を見てしまったからだ。
暗殺者が、暗殺対象と接触し、その家族を知ってはいけないように、ガズル採りは、取った苔が生み出す結果を知ってはいけない――
知ってしまえば、二度とその仕事に携われなくなってしまうからだ。
ヤブという男がいた。
何かの定職についているわけではないが、繁栄する王都では、「手伝い」という、呼ばれればどこにでも出かけ、様々な作業を手伝うことで口に糊する男たちが多数存在して、彼もその中の一人だった。
少年の眼から見ても、頭はそれほど良くないのは分かったが、気のいい男で、子供の彼らに対しても、いつも対等に口をきき、機嫌のよい時には食べ物をおごってくれた。
そのヤブが、ガズルに捕まってしまったのだ。
日毎、顔色が悪くなり、感情の起伏が激しくなる彼を、少年たちは心配したが、子供に、何ができるわけでもない。
とうとう仕事もまったくしなくなったヤブは、ガズルを手に入れる金欲しさに、ムサカ焼肉の露天商を襲って衛士に斬り殺されてしまった。
騒ぎを聞いて駆けつけた少年は、茫然としながら、濁った眼を開けたままこと切れたヤブを見つめた。
眼にハエが止まるその顔は、無念とも、これで楽になった、ともとれる表情をしている。
馬鹿野郎――
彼は胸のうちで叫ぶ。
襲うにことかいて、露天商とはどういうことなのだ。
日銭稼ぎの、わずかな金しかもたない、いわば仲間ではないか。
どうせなら、金のうなっている王室御用達の商会を襲え。
理由は、わかる。
きっと、ヤブには、そんな行ったこともない雲の上の場所の金を奪うことなど考えも及ばなかったのだ。
愚かしいことだ。
愚かで悔しいことだ。
そして、王都ではよくある話だ。
彼も、そんな話は何度も耳にしたことがある。
他人事としては――
だが、親しかった男が人間を辞めていく姿を目の当たりにした少年は衝撃を受け、ガズルには決して手を出すまいと決意したのだった。
それ以後、実入りは減るものの、金回りのよさそうな坊ちゃん連中を脅したり、物見遊山に王都見物に来る地方の紳士から金を巻き上げて、少年はガズルを忘れ、楽しく毎日を暮らすようになった。
それでも、時に不運は前触れもなく空から落ちてくる。
ある時から、彼のガズル採りの技術が、王室御用達の商会の下部組織に目を付けられ始めたのだった。
何度目かの誘いを断ったあとで、彼らは強硬な手段を取り出した。
暴力による嫌がらせを始めたのだ。
しまいには、彼らを捕まえて強制的に作業に従事させようとした。
ガズル採りは命がけの仕事だ。
売る金額を自分たちで決められるのなら、やる価値もあるが、手先として使われて、微々たる手間賃で働かされるのは割りに合わない。
少年は抵抗したが、相手は貴族と手を組む巨大商会傘下の組織だ。
やがて、彼は身の置き所が無くなって、シルバラッドを出奔した。
街を出るのは構わなかったが、堪えたのは仲間に裏切られたことだった。
黎明期からずっと一緒にやって来た身内ともいうべき少年少女たちが、ひとり、ふたりと組織の側につき、最後は、全員が彼の潜みそうな場所を、指さし教えたのだ。
少年は、腹いせに街壁付近に作られた組織のガズル倉庫に火をつけると、何とか持ち出したなけなしの金を使って、定期馬車の屋根にもぐりこみ、通行文を持たないまま王都を脱出し、近くのシュテラを目指した。
冷たい風にさらされ雨に打たれ、青く霞む遠くの山の峰々に心を癒されながら、やっとの思いで見知らぬ街にたどり着く。
小柄な体を馬車の底に張り付かせて街門の審査をやり過ごした彼は、その街で暮らし始めた。
後悔はしていなかった。
喧嘩はいい、盗みも、脅しも、殺しでさえも。
何も持たずに世界に放りだされた彼らが生きるためには仕方ないことだ。
だが、ガズルはいけない。
あれは、人を生きたまま殺すモノだ。
だが、その街にも組織の手が伸びてきた。
追跡は執拗だった。
組織に被害を与えた者への報復は、必ずなされなければならないのだ。
少年は、その街でも犯罪紛いの仕事をして金をつかみ、次のシュテラに移った。
再び組織の手が迫る。
そのようなことを繰り返すうちに、いつしか彼は、西の国近くのシュテラ・ミルドに流れ着いた。
そこで思わぬ不幸に見舞われ、ついに少年は追手に囚われたのだった。
「殺すなよ、こいつにはガズル採りをさせねばならん。いずれ崖の下で地面のシミになるまで……少なくとも、こいつが燃やした分は取り戻させんとな」
吐き捨てるようにそう言われた彼は、後遺症が残らない程度に殴り、蹴られた。
だが、彼とて、並みの子供ではない。
隙をついて逃げ出した彼は、街の中を逃げ回った挙句、とある店に逃げみ、そのまま気を失った。
どれくらい眠っていたのだろう。
しばらくして目を覚ました彼は、呻きながら身体を起こした。
どうやらベッドに寝かされているらしい。
「気がついたかい」
窓辺に持たれて外を見ていた女が振り向いて言った。
立ち上がると、近づいて彼の顔を覗き込む。
いい匂いが彼の鼻をくすぐった。
だが、少年はまだ自分が夢を見ているのだと思う。
それは、彼女が見たこともないほど綺麗な女だったからだ。
見つめ続けるだけで、眼がつぶれるのではないかと思えるほどの美貌だ。
髪こそフリュラ色ではないが、まるで肖像画で見る女王さまのような美しさだった。
「あんた、何やったんだい」
「う、う」
殴られ腫れあがった顎のため言葉を発せずにいると、
「まあいいさ。でも、助けてやったんだから、その分はきっちり働いて返してもらうからね。ただ飯は食わさないよ」
黒髪の女王さまは、なかなか塩辛いことを言うのだった。