404.瞳奥
「その制服、あんたサンクトレイカの兵隊さんだろう。助けておくれよ」
マフェット・アスフェルと名乗った女はそう頼み込んだ。
アキオたちが襲撃されるすこし前、シュテラ・ミルドから西の国へ向かう定期馬車が魔犬の群れに襲われ、命からがら逃げだして、今まで潜んでいたらしい。
「なぜ濡れている」
「乗客何人かと逃げているうち、マーナガルに追いつかれそうになって、あたしだけが、眼についた野井戸に飛び込んだんだよ。他は全員やられたんだろうね」
「連れは」
「ひとり旅さ」
女の説明にうなずくと、アキオは、彼女の首と膝に手をやって軽々と抱き上げた。
「あっ」
女は一瞬、驚きの声を上げるが、彼の意図に気づくと、おとなしく為すがままになる。
アキオは衝撃を与えない程度の速度で走り始めた。
雪が降るほどではないが、緯度の高い地域のために気温は低い。
水に濡れた服のままの女は、唇を青くして小刻みに震えている。
なるべく早く着替えさせたほうが良いだろう。
だが、その前に確認すべきことがあった。
アキオは走りながら言う。
「すまないが、君と――」
「マフェット、あたしの名さ、いくつかあるうちのね。でも、呼ぶときは、アスフェルと呼んでおくれ。名前を呼んでいいのは恋人だけだからね」
アキオは彼女の軽口に取り合わず続ける。
「君と会ったのは、もっと河原近くということにしてくれないか」
彼女は、少し不思議そうな顔をするが、すぐにうなずいた。
「いいよ。でも、あんた力が強いんだね」
「俺の特技だ。いくつかあるうちの」
「あはは、うまい切り返しだねぇ」
アキオは、速度をあげて馬車の停車する河原に向かった。
数分で到着する。
見たところ、馬車にもケルビにも損害はないようだ。
被害の確認、負傷者の治療など、戦闘後の一連の作業に忙しいカーロンに近づき、声をかけた。
「あ、ア、ルトさん」
今にも呼び間違えそうな調子で中尉が答える。
「その方は?」
アキオは、手短に説明した。
「わかりました。着替えの服と食べ物を用意させましょう」
その時、背後から、
「この腰抜け、どこに隠れてやがった」
まるで彼を待っていたかのように、ボルスの声がかかる。
「死人がでなかったのは奇跡だぜ。お前やジャッケルみたいな役立たずを連れてくるからこんなことに――なんだ、その女は」
「バラッドが、別の馬車の乗客を保護したんだ」
「また、女の尻を追いかけてやがったのか」
アキオは抱いていたマフェットを地面に下ろした。
彼女は服をなおし、巻き毛の長い髪を払う。
「なんだぁ、そいつは」
彼女の姿を見てボルズが笑いだす。
「派手な服を着てやがるから、若い姉ちゃんかと思ったら、とんだ婆さんじゃねぇか」
確かに、マフェットのほっそりとした長身は優美だが、顔には深い年輪が刻まれ、この世界によくある灰色の髪は、元の髪色ではなく年を経て白髪になったものだった。
「無礼な口をきくんじゃない」
カーロンにたしなめられ、
「いや、失礼、お婆さん」
ボルズは、おどけた調子で敬礼をし、
「おい、バラッド、そいつの、いやその方の世話はお前が責任をもってしろよ、いいな。お前にはお似合いの女性だ」
そう言って、笑いながらボルズは去っていく。
「すみません、部下が失礼な口を――」
カーロンが謝るが、マフェットは手を振り、
「いいさ、この世界で女でいるってことは、だいたいこんなもんさ。若いころは、ひっきりなしに体を狙われ、年をとると手のひら返しに馬鹿にされる」
返答に困った中尉は、しばらく黙ったが、何かに気づいたように口を開いた。
「しかしお年を召してもその美しさ、お若いころはさぞ……いや、そういえば、あなたのお顔をどこかで拝見したことが――」
「あたしはシュテラ・ミルドじゃ有名な酒場の女主だからね。あんたも、あたしんとこの娘たちと、お付き合いするために来たことがあるんじゃないかね」
かつて、アキオはキイから一部のシュテラでは、酒場と娼館を兼ねていると聞いたことを思い出した。
「い、いや、そんなことは……バラッド」
中尉は照れ隠しのように笑って、アキオに向かって言う。
「この方は民間人だから我々が保護する責任がある。そうだな……食料馬車に乗せてあげてくれ。あれには、予備の軍服とレーションがあるからそれも渡して欲しい。マーナガルは、いったん退いたが、いつまた襲ってくるかわからない。よって、これから我々は急ぎ安全な場所まで移動する」
実際、魔犬たちはもうこの隊商を襲うことはないだろうが、それを、今ここで説明するわけにもいかない。
「了解だ」
アキオが彼女を連れて行こうとすると、
「アスフェルさん、独りで車内にいるのは不安でしょう。バラッド、君が一緒に乗って世話してあげてくれ」
彼はうなずき、彼女の前に立って食料馬車に向かった。
扉を開けて中に入る。
メナム石が輝く大きな車内は、半分が食料の樽と籠でうまり、その隣に予備の服の入った衣装籠が置かれているが、人間が乗るスぺ―スは充分にある。
アキオは、衣装籠からマフェットの体格に合いそうな服を選んで渡した。
男ものだが、軍服でなく一般の服だ。
「助かるよ」
彼女は、さっさと濡れた服を脱ぎだした。
壁にもたれて、ぼんやりとその様子を見ていたアキオは、ふと気づいて言う。
「外に出ていようか」
「なんだい今さら。ずっと見つめてくれるから、あたしは気分を出して服を脱いでいるのにさ――いいよ、いてくれて。こんなばあさんの身体、どうせ興味もないんだろう」
アキオは少し首を傾げ、
「興味……よくわからないが、君は良い体をしている」
「あらあら、こんな年寄りを口説くのかい」
彼は少し考え、
「正しく年をとり、筋肉のバランスもいい。体を不自然に歪にしていない、ということだ」
「あんた、学があるんだねぇ」
彼女が着替え終わると、アキオは馬車の壁についたフックを使って車内にロープを張った。
濡れた服を受け取って干す。
車外からベルの音が響いてきて、馬車が動き始めた。
アキオは食料の籠まで歩き、レーションを取り出すとマフェットに渡した。
「なんだいこれは」
男物の服を着て、あぐらをかいて床に座った彼女は手にしたバーを不思議そうに見る。
「こうするんだ」
同じように床に座ったアキオが、手を伸ばして包装をむいてやる。
「これは……」
初めて軍用レーションを見た彼女は目を丸くするが、食べはじめると、さらに驚いて叫んだ。
「長い間生きてるけど、こんなにうまいものは初めて食べたよ。最近の兵隊さんはいいものを食べてるんだねぇ」
その様子が、初めてレーションを食べたキィの姿に重なって彼は目を細める。
「あ、あんた、いま女のことを考えたね」
彼女の勘の良さに感心しながらも、アキオはゆっくり首を振った。
壁に持たれて眼を瞑る。
しばらく、馬車の揺れに任せてじっとしていたが、カーロンの、世話をしろ、という言葉を思い出して、眼を開けると尋ねた。
「寒くはないか」
マフェットは悪戯っぽい眼で彼を見た。
「寒い、寒いよ。だから、あんたが温めておくれ」
言ってから肩をすくめる。
「冗談だよ。誰がこんな婆さんを相手にするかっていうんだい。大丈夫だから――」
彼女の言葉が途切れる。
アキオの腕が伸び、軽々とマフェットを持ち上げて引き寄せたからだ。
ちょうどその時、道に穴でもあいていたのか、馬車が倒れそうに大きく揺れた。
手を引かれたまま、彼女は倒れ、アキオにもたれかかる。
彼女の顔が近づき、マフェットは、偶然、彼の緑の瞳を間近で覗き込んだ。
アキオの眼も彼女の瞳を見つめる。
しばらく彼女は動かなかった。
硬直したように彼の眼を見ている。
やがて――
アキオは身体を起こすと、座った足の間に彼女を置き、彼にもたれさせた。
コートを開いて彼女を包む。
女としては大柄なマフェットだが、アキオの前では猫同然だ。
やがて、大きなため息をつき、震える声で彼女が言った。
「いったい、どんなものを見てくれば、あんたみたいな眼になるんだい。若いころ旅行した北圏のガレート氷河、いやカルド火山の溶岩みたいな、熱くて冷たい、恐ろしくて、悲しい……いったい何人の死を眼にすれば――」
「君の眼も変わっているな」
アキオは笑わずに言う。
「たかだか人の一生で、どれほどの悲劇を見れば、君のような眼になるんだ」