403.狼王
マーナガル・キングが跳ね起きた。
さすがに、1000体近い魔犬を束ねる王だ。
殴った感触も、スペクトラほどではないが硬かった。
今の動きの素早さからみても、さほどダメージも与えられてはいないようだ。
月の光を浴びながら、彼を睨む王を見る。
「言葉はわかるのか」
一応、口に出して聞いてみた。
サンクトレイカ語だ。
目の前のちっぽけな黒い生き物が、身体の大きさ以上の戦闘力をもつことを今の一撃で知ったキングは、様子をうかがうようにじっと彼を見続けている。
念のため、アキオは同じ内容を、エストラ、西の国、ニューメア語で繰り返した。
キングの表情は変わらない。
憎しみに満ちた目で彼を見つめている。
アキオは考える。
ラピィは人の言葉を理解していた。
ただ、声帯と口蓋の形状から話すことができなかっただけだ。
今夜の襲撃の差配を見ても、マーナガルの王の知能が、かなり高いことはわかる。
話すことはできなくとも、彼の言葉を解して、この場を退いてくれれば殺す必要はなくなるのだ――
アキオは、3つの月の光に照らされて、輝く銀色の毛並みを持つ魔犬王をじっと見つめる。
その姿は美しかった。
人の美はいまひとつ分からない彼だが、道具と動物の美しさはある程度わかる。
ほかのマーナガルが犬なら、キングはオオカミだ。
アキオの脳裏で魔犬王の姿が、傭兵時代に任務で赴いたノーザン・ノース・ノース、かつての北極圏で、数奇な出会いから共に戦った北極オオカミのブランカに重なった。
学生時代に動物生態学を学んだ傭兵が、彼女に、その名を付けたのだ。
狼王の恋人にして永遠の妻の名を。
その男も死に、ブランカもアキオを守って死んだ。
いま、魔犬王の姿を見ているうちに――まったく関係がないことは充分に理解しながら、彼の中から、この巨大で美しい生き物を殺す気持ちが失せてしまったのだった。
キングが吠えた。
腹に染みるよい声った。
その眼に、急激に闘志を浮かべる魔獣を見て、彼は決意した。
死なない程度に痛めつけて、どちらが上かを分からせる必要がある。
ふと、彼の頭にボルズの顔が浮かんだ。
ヒトも魔犬も所詮は群れを作る動物だ。
自分以外の存在があれば、どちらが上かを示さずにはいられない。
自らの優位を示し、支配するために。
彼にはまったく理解できない感情だが、そうすることで無用な殺戮をせずにすむなら――
起こりを見せず、いきなり魔犬王が飛びかかって来た。
良いダッシュだ。
地球の犬ともオオカミとも違う、虎のように太い前足で彼を横なぎにしようとする。
アキオは、その腕に両手をつき、体を跳ね上げた。
明るい月の光が、宙を舞う彼の影を地面に映す。
回転しながら頭を越え、背中に攻撃を仕掛けようとするところへ、キングは振り返りもせずに、唸りをあげる太い尾を叩きつけてきた。
敏捷な生き物を相手に、軽々しく空中を飛んではいけない典型例だ。
一般的には――
もちろん彼は一般ではない。
アキオは、豊かな毛並みの、銀色の竜巻のような尾が近づくのを見てコートから杖を取り出し、一瞬だけジェットをふかした。
見えない手に引っ張られるように彼の身体が向きを変える。
ありえない方角へ移動した彼を見失って、キングがうなり声をあげた。
広場の端に生えた太い木の幹に吸い付くように着地して、そのままゴムまりのように跳ね返った彼は、キングの胴体、カマラが見せてくれたマーナガル解剖図の肝機能を持つ臓器を、掌で上からたたいた。
全身を巡る体液に、振動が伝わるのを感じる。
キングは声を上げなかった。
アキオの口元が緩む。
今、凄まじい激痛が全身を突き抜けたはずだ。
だが彼は悲鳴を発しなかった。
少なくとも、この銀色の美しい生き物は、高い誇りとリーダーにふさわしい精神を持っている。
いたずらに苦痛を長引かせるべきではない。
そろそろ決着をつけるべきだった。
彼は地面に降りると、ジグザグに王に走り寄り、3つあるマーナガルの心臓に直接衝撃を与えて、さらなるダメージを――
アキオは、魔犬王の足の間を、そのまま抜けて前に回った。
足を震わせながら、苦し気に立つマーナガルを見て、つぶやく。
「女王だったのか」
もちろん、性別に関わりなく、殺意を持って向かってくるものは敵だ。
これまでも、彼は敵対する雌の魔獣を数多く倒してきた。
だが――
彼は、再び、3つの月の白い月光を浴びて銀色に輝く女王を見る。
ピンと立った耳、口元からのぞく牙、競走馬のように素晴らしく切れあがった腹、やはり彼女は美しかった。
ざっと音がして女王の前に土煙が舞い上がる。
そこには、彼女と同じ姿の白いマーナガルが2体立っていた。
唸りながら、アキオを睨みつける。
女王の子供か、限りなくそれに近い係累だろう。
アキオの内部で急激に戦意が消えていく。
彼の独断に変化が生じたのは、ここ最近のことだ。
地球時代、早くに母を亡くし、シヅネ以外に女性をほとんど知らなかった彼は、この世界に来て多くの少女たちと関わり、XX型染色体をもつ生物と、文字通り肌で接するようになった。
素晴らしい少女たちだ。
彼女たちも、いずれは仮初の婚約生活を終え、彼の許を巣立ち、男を見つけ子を生すだろう。
そして、あの優しい腕に我が子を抱き、子守歌を歌い、共に眠るに違いない。
彼にとってのXXとは、そういう生き物だ。
その、想像上の姿に、女王とその子供の姿が重なる。
「退け」
再三の言葉にも、白い魔犬たちは唸りを上げたままだ。
女王の胸の中心が青白く光り始める。
火球か雷球か強化魔法か――
いずれにせよ並みの魔法ではないだろう。
もう、倒すしかないのかもしれない。
もちろん、殺すと決めたら彼に逡巡はない。
その時、遠くから奇妙な音が聞こえてきた。
風の鳴るような、草のすれるような、そんな音だ。
不意に、女王の瞳から戦意が消える。
夜空に向かって伸びあがるような姿勢をとり、よく通る美しい、長く続く叫びをあげた。
それが終わると、満足したように、彼女は周りの魔犬を見回して、ゆっくりと向きを変えた。
森の中に消えていく。
その態度は、彼が背後から襲うはずがない、と確信しているかのようだった。
子供たちがそれに続き、他のマーナガルも後を追った。
すべての魔犬が姿を消した後も、アキオはしばらく森を見ていた。
彼の耳が、人の足音を捉える。
すぐに、荒い息と共に、ひとりの人間が広場に駆け込んできた。
女だ。
「助けて、助けておくれよ」
ずぶ濡れの女は、そう叫びながら、彼の腕に縋りついてきた。