400.弱体
夜通し移動した馬車は、朝になって、やっと停止した。
うなされてはいけないので、あえて眠らなかったアキオは身を起こす。
5日程度眠らなくても体調に影響はない。
馬車を降りた。
兵士たちはそれぞれ、食料馬車に集まり、朝食を受け取っている。
彼らが手にするものをみて、珍しくアキオは表情を動かした。
彼にとっては馴染みの軍用レーションだったからだ。
だが、それは別に驚くには当たらないのだろう。
ユスラ、あるいはミストラが正規軍の効率化を図るために、ノランに指示して朝食をレーションに変えさせたのだ。
一時期、レーションは彼女たちのいつもの朝食だったのだから。
長期戦なら、ちゃんとした食事にするべきなのだろうが、今回のような期間限定の行軍であれば、朝食をレーションにするのは合理的だ。
アキオも数種類の味のレーションを受け取ると、いつものように一瞬で平らげる。
休憩場所の地形、その他を確認するために、白い靄の中を歩き始めた。
現在、彼らがいるのは、山間に開けた土地だった。
周りを山に囲まれているので、すでに日は上っているのだが太陽の光は届かず、朝靄も残ったままだ。
カーロンによると、コウエン開地という西の国への街道では有名な場所だということだった。
アーム・パッドを見る。
少女たちのおかげで、この世界の誰よりも正確な地図を持っている彼は、今の地点が、城から84キロ離れていることを知った。
平均時速14キロ毎時で6時間の行程だ。
道の悪さを考えれば、なかなかの強行軍といえるだろう。
「こんなゴミを作れと誰がいった」
山々を見上げるアキオの耳に、罵声と皿の割れる音が聞こえてきた。
少し歩いて隊商の馬車に目をやると、その前で、フレネルが腕を押さえて頭を下げていた。
近くに、地面に転がった食事と割れた皿が見える。
少女の前には、脂ぎった感じの太った男が立っていた。
「まったく、簡単な食事すら満足に作られないなんて、しょせんはディフラクト家の小娘、親に似て何をしても無能ですね」
「申し訳ありません、ラミオさま。すぐに代わりのものをお持ちします」
「もういい。どうせ、こんなことだろうと、食事はジラルドに作らせてある」
男が合図をすると、妙な帽子を被った男たちが料理を乗せた皿を持って、馬車の横に置かれた簡易テーブルに運んでくる。
商人風の3人の男は、テーブルにつくと、朝食にしては相当な量の料理を食べ始める。
朝から大した食欲だ。
これなら太るのもうなずける。
「何を見ているのです。早く地面に落ちたゴミを持って行きなさい。車内の寝床もきれいに掃除するのですよ」
少女はうなずくと、素手で土まみれになったムサカの肉を片付け、馬車に戻っていく。
アキオは、ゆっくりとその後を追った。
フレネルは馬車の背後に回り込む。
彼が追いつくと、少女は置かれた袋に持ってきた料理を入れていた。
その肩は小刻みに震えている。
アキオは気配を消さずにフレネルに近づいた。
少女がさっと振り返る。
その眼に涙は、ない。
だが、明るさも力もなかった。
「あ、あなたは――どうしてここに」
「朝の見回りをしていたら、声が聞こえた」
「だから、見に来たのですか?どんな顔をして泣いているかって」
見せたくなかった姿を見られた羞恥心と、そのうえで声をかける彼の無神経さに腹が立ったのか、少女の言葉が乱暴になる。
泥だらけの拳を握り、強い調子で言う少女にアキオが応えた。
「君は泣くのか」
彼の、本当に素朴な疑問が口をついて出た、という態度に少女は思わず吹き出した。
「あなた、変わってるわね」
フレネルが、さらに砕けた話し方になる。
眼に力がよみがえった。
「泣かないわ。誰が泣くものですか」
「君の料理はうまくないのか」
子供が尋ねるような真っ直ぐな問いかけに、少女は腹を立てることも忘れて答える。
「違うわ。ディフラクト商会のお嬢さまだった時は、料理は食べるだけだったけど、店がつぶれて一年以上働いて、ひと通り料理もできるようになってるわ。褒めてくれる人もいる。だけど、エカテル商会の人たち、特にラミオは、いつもああなの。きっと――」
「個人的な恨みがあるのか」
「どうかしら。ラミオ・エカテルはもともとうちで働いていて、ある出来事がもとで独立した人なの。わたしが子供の頃は、お嬢さま、といってよく可愛がってくれたのだけど――」
少女はパン、と手を打った。
「さあ、無駄話はここまで、こんなところを見つかったら、また文句をいわれてしまう。あなたも行ってくださいな」
アキオはうなずいて、部隊の馬車に戻る。
「おい」
馬車に乗り込もうとした彼に向かって、胴間声が響いた。
ボルズだ。
ゆっくりと振り返ったアキオは、大男を見る。
「朝から、使用人の小娘とよろしくやってるじゃねぇか」
アキオの口元がわずかに緩む。
「なにがおかしい」
ボルズが吠える。
「いや、お前は俺の――」
彼は少し考え、ラピィの地球語を思い出す。
「追っかけか」
男の眼が釣り上がる。
地球語の意味は分からなくとも、それが何らかの蔑みの言葉だということは分かったのだろう。
「野郎!」
すでに、ボルズの大声で馬車の前には兵隊たちの人だかりができている。
その中には、カーロンとシックルの顔も見えた。
カーロンは、どう行動すべきか迷って視線を泳がせ、シックルは楽し気に微笑んでいる。
ボルズは、昨夜と同様に、いきなり右パンチを放ってきた。
こういった衆人環視のもとでの戦いは、決闘扱いされて他者が手を貸さないのは地球の軍隊と同じだ。
それはアキオにもありがたかった。
相手の人数が増えると、せっかく昨夜考えて、組み上げたプログラミングが無駄になる。
パンチを腕でそらす。
ボルズを見るが、骨は折れていない。
成功だ。
今度は足が飛んできた。
それをカウンターの蹴りで受ける。
今度も足は折れなかった。
アキオは、納得の表情になる。
身体の弱体化は完全に成功している。
だが――アキオはボルズをみた。
その体捌きから歴戦の兵士であることがわかる男が、昨夜と同じ単調な攻撃を繰り返すのはおかしい。
ボルズは、さらに反対の脚で蹴りを放ってきた。
おそらく、これは、次の攻撃の布石だろう。
あえて彼はそれに乗り、足を避けて後方に飛んだ。
いきなり足場が崩れる。
驚くべきことに、ボルズは小さな落とし穴を作って。彼をそこへ誘導したのだ。
あまりにもつまらなすぎて、うんざりした表情を顔に出さないように苦労したアキオは、彼の思惑通りに態勢を崩してみせる。
そこへ、顔へ向けて、もう片方の足で蹴り上げた石と土が飛んできた。
これは、なかなかいい。
どうせ、やるなら、こういう臨機応変な戦いの方が彼の好みだ。
体制を崩した振りをしつつ、顔に向けて飛ぶ障害物を手で避けた彼の腹に、ボルズの会心のパンチが入った。
アキオは吹っ飛ぶ。
3メートルほど空中を飛び地面に転がった。
「はっ」
満面に笑みを浮かべながらボルズが走り寄り、さらに彼の胸といわず顔といわず蹴りまくる。
「よ、寄せ」
カーロンの指示で駆け寄ったシンガー軍曹とデッカーがボルズを押さえた。
アキオは横になったまましばらく動かずにいて、のろのろと体を起こした。
口から血を流す。
顔はすでに腫れあがり、頬が切れて出血し始めていた。
計画通りだ。
人間に殴られて血を流すのは293年ぶりだった。
ミーナが見たら、この演技を褒めてくれるだろうか。
少女たちが見たら――ボルズは肉片になっているかもしれない。
目の上が腫れ、見えにくくなった左目で、彼はボルズを見上げた。
男は両腕を掴まれながら誇らしげに彼を見下ろしている。
これが、昨夜、彼が最新のナノ工学を駆使してくみ上げた、弱くなるナノ強化だった。
もともと強化体であるアキオは、ナノ強化を全解除しても、普通の人間には負けない。
よって、拳が当たった瞬間、反射的に体を押し返し敵の関節にダメージを与える反応を押さえ、皮膚の下に張り巡らされた強化筋膜の強度を弱くし、損傷部位の修復時間を遅らせ、皮膚を出血しやすくしたのだ。
ボルズ程度に、これぐらい痛めつけられれば、敵への内通者にとって、彼が怪しい新参者でないことは伝わるだろう。