394.水槽
20分ほど歩くと、羊群原地帯を抜けた。
さらに10分ばかり進むと、草のない火山岩の上に立つ巨大な白鳥号が見えてきた。
すっかり寡黙になっていた男爵たちは、その威容に再び目をむいて驚く。
「リトー、スペクトラをおろしなさい」
アルメデが命じた。
「待ってくれ」
アキオがそれを止める。
「グリム、彼女のために、地面に寝椅子を作ってくれ」
「わかったわ」
先に到着し、白鳥号の足元で、黒蛇と化してとぐろを巻いていたグリムが、火山岩の上で長椅子に形を変えた。
巨人は、その上に眼を閉じた少女をそっと下ろす。
「岩が痛いから?ずいぶん気をつかうよねぇ」
シジマが、ため息交じりに言う。
「そうですね。それもあるでしょうが――」
ヨスルが説明し始めると、
「リトー、活動停止」
アキオが命令した。
「アイアイ・サー」
巨人は、パチンと弾けるように消滅する。
内部から霧のようなグレイ・グーがあふれ出し、夕闇の迫る台地に拡散した。
「よくやった」
「お役に立てて光栄です」
リトーの支配から解放されたグレイ・グーが、元の口調で答える。
「通常任務に戻ってくれ。何かあれば、また呼ぶ」
「いつでもどうぞ。お待ちしています、主さま」
灰色の霧は、日暮れと共に涼しさを増してきた高台の風に乗って、速やかに消えていった。
通常任務に戻されたことで、ナノ・マシンの規模は再び制限をうけて、その数を減らすだろう。
「主さまなんだ」
シジマがつぶやく。
「グリム」
「はい、あなた」
「スぺクトラを運んでくれ」
「アイ・アイ」
穏やかな声で応えると、大きな少女を乗せたまま、寝椅子がゆっくりと動き出し、スロープを登って行った。
「リトーでは、大きすぎて彼女を船内に運べないからギデオンを使ったのですね」
ミストラが感心し、
「ギデオンは、アキオをあなたって呼ぶんだ」
シジマが違う面から感心する。
「わたしの名はグリム。以後はそうおよびください」
彼女の言葉を聞きつけた寝椅子は、そう言い残して船内に消えていく。
「グリムって、たしか精霊だよね」
見送ったシジマが振り向いてヨスルに尋ねる。
「夜の精霊だったと思います」
「夜かぁ、ギデオンの黒とはあってるのかなぁ」
釈然としない表情でシジマはつぶやくが、
「さあ、ボクたちも、この荷物を運びこまないとね」
そう言って、40人の兵士たちに向き直った。
「みんなで一列になってこのスロープを登るんだよ。上には、快適な部屋が用意してあるんだ。鍵のかかる部屋がね」
全員が白鳥号に乗り込むと、男たちは、シジマの指示で窓のない部屋に連れて行かれる。
アキオは、貨物室に置かれた巨大な透明水槽を見上げた。
その内部に、薄紫色の、身体の修復に必要な各種成分が溶け込んだ液体を満たした、通称アミノ酸プールだ。
「スぺクトラ」
彼は、黒い寝椅子に横になる少女に声を掛けた。
「はイ」
オレンジ色の眼を開ける。
「これから、君に、この水槽に入ってもらう。冷たくはないはずだ。中に入っても息はできるから怖がらないでくれ」
肺を満たす液体に含まれたナノ・マシンが、最適な配分で酸素―二酸化炭素のガス交換を行うため、通常の空気より息がしやすくなるのだ。
「アキオ、しンじる」
少女は手を伸ばす。
その指を握ると、彼は命じた。
「スぺクトラをプールに入れてくれ」
「わかったわ」
グリムは寝椅子の足を延ばして少女をもちあげ、水槽の壁を越えて、ゆっくりと液体におろした。
スぺクトラは、眼を閉じたまま、おとなしく薄紫色のプールの中に沈んでいく。
豊かなオレンジの髪が液体に舞い、ワンピースが揺らめいて、まるで空中を飛びながら眠る妖精のように見える。
「大きくて……美しい人ですね」
ヨスルがつぶやく。
アルメデたちと共にそれを見ていたアキオは、アーム・バンドを操作してスぺクトラの意識レベルを下げると、言った。
「よくやった、グリム」
「どういたしまして」
「お前も通常の任務に戻れ」
「はい、でも……名残惜しいわ。もっと他に――」
「いいから、早く白鳥号をおりなさい」
アルメデが硬い声を出す。
「イエス、マム」
グリムは、あわてて蛇の姿に戻ると、滑るように格納庫のスロープを下って行った。
格納庫のスロープが上がり、扉が閉まる。
「アルメデ」
「はい」
「彼に船を見せてくれ」
アキオは、ミストラと手をつなぐ少年を見ながら言う。
「わかりました――あ、でも、その役目は、シジマの方がふさわしいでしょう」
そう言って、貨物室に笑顔で戻ってきた緑の髪の少女を手招きする。
「シジマ、ガラリオさまに船を案内してさしあげて」
「うん、わかった。行きしょう、ガラリオ伯爵さま」
そういって差し出された手を少年は恭しく握った。
ふたりが貨物室を出ていくと、アルメデがアキオに向きなおる。
「わたしとヨスルは、発進の準備のために司令室に行きます。アキオはミストラを――」
「わかった」
彼は少女の手をとる。
眼を閉じて、穏やかな表情でプール内を漂うスぺクトラを見上げて、言う。
「次は君の番だ」
「はい」
アキオに連れられて、ミストラは貨物室を出て通路を歩き、回復室と書かれた部屋に入った。
室内には、アミノ酸プールと同じ液体で満たされた一人用の透明タンクが並んでいる。
少女がコートを脱いで椅子に掛けるのを見て、彼はゆっくりと背を向けた。
「アキオ」
少女に呼ばれて振り向く。
体にぴったりとフィットして、美しいラインを見せるワンピースの背中を向けて少女が言った。
「背中のジッパーをおろしてください」
彼は黙って近づくと、言われたとおりにした。
豊かな髪の毛を、手でかき上げているため、ふだんは見えないきれいなうなじが彼の眼にさらされている。
「今どきジッパーなんて!って思ったでしょう」
ミストラがいたずらっぽく笑った。
ヌースクアムにおける標準服は、少女たちの意見で改良が繰り返され、ナノ・マシンによって自由に色、デザイン、サイズと密着度を変え、どこからでも、また何か所でもオープンできるようになっている。
「いや、だが、珍しいな」
「ラピィに見せられた地球の映画で、ヒロインが着ていた服の複製品なんです。その子が恋人にジッパーをおろしてもらうのを見て――」
少女はくすっと笑い、
「わたしもアキオにそうしてもらおうと……今、その夢が叶いました」
微かな衣擦れの音をさせて、ミストラは服を床に落とす。
あとには、下着姿の少女が残った。
そのままアキオに抱き着く。
「アキオ……今日のこと、本当に気にしないでくださいね」
ミストラは、彼の首につかまって屈ませると、顔に頬を寄せて続ける。
「ナノ・マシンのおかげで痛みはありませんでしたし、傷も残っていません。だから、自分を傷つけるようなことはしないで――」
少女の涙が彼の頬を濡らす。
「知っていたのか」
「もちろんです。眠っていても、わたしたちはつながっているのですから」
「そうか――」
「お願いです」
「了解だ」
アキオは少女の頭を撫でた。
「約束ですよ」
そう言いながら、ミストラは下着の一部に触れる。
ぱっと弾けるように下着が消失し、少女は全裸になった。
「回復槽に入れてください」
ミストラが、耳元で囁くように言う。
アキオは、少女を抱き上げた。
「一時間程度で終わるはずだ」
「はい」
水槽に近づいて、ゆっくりと液体の中にミストラを沈める。
全裸の少女は、薄紫の液体の中で目を開け、透明な壁ごしに彼を見た。
掌をパネルに当てる。
アキオは、それに重ねるように自分の手を置き、アーム・バンドを操作して、回復処置を開始した。
ミストラは眠りに落ちていく。