391.到着
アーム・バンドを見ると、あと10秒で3分というところだ。
その時、アキオの強化された目が、空に異物をとらえた。
青い空の彼方から、何かがまっすぐに近づいて来るのが見える。
灰色の槍のようなものだ。
近づくにつれ、それは槍というより、見えない巨人の手によって空中に書かれた一本の直線のように、真っすぐに空間を貫いてこちらにやって来ているのがわかる。
やがて、直線は、かなりな勢いで彼の横2メートルの位置に突き刺ささった。
「2分58秒です、主さま」
女性の声が響く。
「主さま?」
アキオによって背後に庇われたミストラが顔を覗かせてつぶやいた。
彼はそれに取り合わず命じる。
「地下に負傷者が1名いる。対象者の身体を最優先で再生しろ。身長4メートル80、体重は――おまえの判断にまかせる。身体が大きいため、ナノ・マシンの絶対量が足りない。増殖して量をまかなえ。熱源は地底湖地下にある」
「増殖に制限は?」
「かけるな」
「わかりました」
自分自身の体を伝うように、灰色の雲が少しずつ直線に沿ってやってきては地上に開いた穴から鍾乳洞へ流れ込んでいく。
「グレイ・グーって、こんなに早く動けたんですね」
ミストラのつぶやきに、アキオはうなずいた。
本来、ナノマシンに高速移動する能力はない。
空中に浮かんだグレイ・グーは、緩やかに、ひと塊になって風の吹くまま漂うだけだ。
そこへ20キロの距離を3分で来いという命令を受けた。
分速7キロ足らず、時速にして400キロの速度を出すために彼女はどうしたのか。
自分にできる唯一の方法をとったのだ。
大気成分を材料にして無限に増殖するグレイ・グーとしての能力、つまり連結を保ちつつ可能な限り細くした自分自身を、高度2キロから目標地点に向けて一直線に、許される限り最大速度で増殖した。
おそらく、空中で蓄熱していた太陽エネルギーを使ったのだろう。
そして時速400キロで、直径数センチ、長さ20キロのグレイ・グーの直線を作ったのだ。
封印の氷作戦の時、爆縮エネルギーを使って瞬く間に世界を覆いつくした彼女にできないわけはない。
さすがに悪魔の天才カヅマ・ヘルマンが、娘の命を救うため、安全性をかえりみず増殖速度のみを求めた作品だ。
今では、ヴァイユによって強烈に制限がかけられているとはいえ、その増殖率はやはりこの世界にとって脅威だろう。
アキオの生み出した、安定、安全なナノ・マシンは、とてもその増殖の速さにはかなわない。
ドン、と地下で音がした。
洞窟に開いた穴から、凄まじい速度で灰色の雲が噴き出す。
グレイ・グーは、穴の直径と同じ、およそ30メートルの円筒となって、高さ150メートルまで吹き上がった。
円筒の形のまま、洞窟内に沈んでいく。
空中の大気で作ったナノ・マシンを、地下で圧縮して濃度をあげているのだろう。
「アキオ」
背後から涼し気な声がかかる。
振り向くとアルメデが立っていた。
ヨスルとシジマもいる。
ミストラの背後に立つ少年は、眼を丸くして美少女たちを見ていた。
今まで彼は、姉ほど美しい女性を見たことがなかったのだが、3人の少女は、姉に匹敵するほど美しく――特に、いま話をしている少年のように短い髪をした美少女は近寄り難く気高い雰囲気に溢れている。
「来たのか」
アキオの言葉に、アルメデが零れるような笑顔を見せた。
「はい、来ました。白鳥号は少し離れた場所に停めてあります。このあたりは地盤が弱そうでしたので」
彼はうなずいた。
おそらく、この付近の地下は鍾乳洞の穴だらけだろう。
「サフランは」
「彼女は、後からきます」
アキオがアルメデを見た。
「ち、違います。わたしが意地悪をしてるんじゃありません。本当に彼女は手を離せない用事があるんです」
突然、頬を染めて言い訳する少女は、先ほどまでの近寄り難さなど霧散して、まるで子供のように愛らしいとクルコスは思う。
「君はそんなことはしないさ」
アキオに言われて、さらに頬を赤くする。
「あなたにそういわれると恥ずかしい。その信頼通りにわたしは行動できているのでしょうか……」
少女は、軽く首を振ると話題を変えた。
「グレイ・グーを呼んだのですね」
「事情は――」
アルメデは、ミストラに向かってうなずく。
「だいたいは聞いています。ゴラス系のドラッドですか」
「純粋な良い子なんです」
ミストラが訴えるように言う。
「アミノ酸プールは」
彼は、身体を修復する材料があるかどうかを尋ねた。
「白鳥号に積んでいます」
アキオは、増殖して立ち上ったグレイ・グーが洞窟内にすべて収まるのを見た。
「下は落ち着いたようだ――アルメデ」
「はい」
「スぺクトラは魔法を使う。ヨスル、君も来てくれ」
「わかりました」
「わたしもいきます」
ミストラが一歩歩み出て言ったが、
「君は弟のそばに」
アキオに止められる。
「行こう」
「はい。でも、その前に」
アルメデは、アキオの手を掴んで引き寄せ、彼を抱きしめる。
背伸びして彼の首にコートから出した細い装置を押し付けた。
シュッと音がする。
「体内のナノ・マシン濃度が低くなっていますね。また無茶をしたのでしょう」
「スぺクトラに血のほとんどを与えたのです」
ミストラが悦明する。
「アキオ、あなたは頭の良い人ですが、時に馬鹿です。馬鹿で――素敵な人……あまり無茶はしないで」
彼の首を持って頭を下げさせ頬に口づける。
「行きましょう」
そう言うと自分はアキオから離れて、ヨスルをアキオに、とん、と押し付けて、穴の中に飛び込んだ。
アキオも、彼に抱きつくヨスルと共に下へ向かう。
「なんか、アルメデさまって、いいとこ持っていくよね」
折れそうに細く小柄な、飛び切りの美少女が緑の髪を揺らしてぼやくのを聞いて、少年は思わず笑ってしまう。
「あ、笑ったね――ああ、君がミストラの」
「弟のクルコスです。クルコス、この人はシジマさま」
ミストラの紹介で、ふたりは互いに挨拶を交わした。
少年は、少女が容姿に似合わぬ大きめの剣を腰に帯びていることに気づく。
シジマは、地面に置かれたもの気になったのか、
「ねえ、ミストラ、あの面白そうなものはなに」
ドビニーの生首を指さす。
少女が経緯を説明した。
「へぇ、アキオが怒ったんだ」
「怒ったかどうかはわかりませんが――」
「生きてるんだよね」
シジマが鞘ごと剣を抜いて首をつつく。
男爵たちは恐怖の顔で、眼だけ動かして少女を見上げた。
アーム・バンドを見て、
「ふむ、切断面の痛覚は切ってあるんだ。鮮明に幻体痛を感じさせるためだね。ふぅん」
シジマは可愛く笑うと、続けて少年が驚くことを言った。
「ボクがアキオに真っ二つにされた時は、すぐに眠らされたから幻肢痛は知らないんだよね」
「知る必要はないでしょう」
ミストラが呆れる。
「あ、あそこに身体がある。コクーンで保存してるね。アキオはどうするつもりなんだろう」
「あとで元に戻してノランに渡すのでしょうね」
シジマはしばらく黙り込むと、悪い顔で微笑んだ。
「ちょっといいこと思いついたんだけど、元に戻すまえに、こいつらを、ボクに預からせてくれないかな」
「どうするのです」
「この間、ラピィのおすすめ映画を見たでしょう」
ミストラは、はっとして、
「まさかあなた」
絶句する。
シジマの言うのが、ラピィによって半強制的に観せられた、ミーナが収集し残した「懐かし地球映画ライブラリ」の1本に出てくる、首と胴体が別々に生きている王の話だと気づいたからだ。
「そう、ミュンヒなんとか男爵――この人も男爵なんでしょう。だったら、あの物語みたいに、首と身体を別々に動けるようにして、その間を無線でつないだら面白いんじゃないかな。二人ともそうすれば、お互いの首でキャッチボールができるよ。自分の首を小脇に抱えさせてノランに謁見させるの」
無邪気に話す少女の、とんでもない構想を耳にして、へプランと男爵は痛みに耐えながら目を泳がせる。
ミストラが呆れたように言った。
「あまり無茶をいわないで。兵士たちも見てるんだから。また緑の魔女の悪評が広まるわよ」
シジマは可愛く舌を出して笑う。
「冗談だよ。まあ、ちょっとは本気だったけど」
そういって、朗らかに続ける。
「いいよ。あきらめる。でもさ、もう一度、こいつらが悪さをしたら、誰も止めないよね」