390.ファントム・ペイン、
「はい、あなた」
すぐに返事があり、背後に黒い蛇が現れる。
「俺を地上に上げてくれ」
「了解です」
蛇のような身体から、枝のようなものが2本生えた。
アキオはそれに足をかける。
「行きます」
そう言うとグリムは地上へ体を伸ばしていった。
「大丈夫ですか、あなた」
心配そうに、彼にたずねる。
血を流し過ぎたアキオは、跳んで地上に戻ることもできなくなっているのだ。
通常なら、ナノ・マシンによってすぐに血液は補充されるのだが、今回はナノ・マシン自体が少なくなっているため回復が遅い。
「つきました」
グリムの触手から降りたアキオはあたりを見回した。
空は青く、午後の太陽は輝き、ところどころ浮かぶ雲が風に乗ってゆっくりと動いている。
地表には、石灰岩で構成されるカルスト台地特有の、小さな楕円ドーム型の石灰岩柱が、草原に群れなす羊のように多数見えていた。
「アキオ!」
穴から姿を現した彼の姿を見て、地面に転がされた男たちに話しかけていたミストラが駆け寄って来た。
「ヌースクアムに連絡をとりました。すぐにこちらに向かうそうです」
「わかった」
「あと……さっきの爆弾はへプランがドビニーの命令で投げ込んだようです」
少女は、アキオの前で立ち止まり、胸で手を組んで彼を見上げる。
「それで、あの子はどうでした――アキオ!」
恋人の異常に気づいて、少女が悲鳴のような声を上げる。
アーム・バンドを見て、さらに泣きそうな声を出す。
「ああ、どうして……身体にほとんど血が残っていないではありませんか」
彼は少女の肩に手を置いた。
優しく叩く。
アキオは、振り返ると背後にひかえるグリムを見た。
「グレイ・グーと連絡がとれるか」
「ご許可をいただければ」
「許可する」
グリムは少し黙り、
「一番近いもので南西20キロ。地上2キロの位置に塊がいます。ご命令は?」
「どんな方法を使っても構わない、3分以内に来い」
またグリムが黙り、
「伝えました。万難を排して行く、とのことです。なんだか――嬉しそうでした」
「わかった」
強い視線を感じたアキオが目を向けると、ドビニーが彼を見ていた。
アキオは、ゆっくりと男の許へと歩く。
少しよろめいた。
走り寄ったミストラが彼を支える。
「これを」
少女から差し出されたホットジェルを飲み干した。
再び歩き出しながら、彼は奇妙な感覚に悩まされていた。
胸の中に、ミストラを傷つけた時と同じ嫌な塊が、しこりとなって渦巻いている。
これは――いったい何だ。
「少しは思い知ったか、魔王」
彼が近づくと、満身創痍のドビニーが睨みつけながら言った。
今は地面に座り、拘束を解かれている。
話せるのは、事情を聴くためミストラが顎をはめたからだろう。
さっきまで恐怖に頭を抱えていた割には元気だ。
「クルコスを殺せなかったのは残念です」
彼の横で同じように睨む男が、へプランに違いない。
男ふたりが、今までの彼の言動から、魔王と呼ばれるわりには甘い男だと侮っているのがわかる。
「あなたたちは――」
ミストラが、怒りもあらわに前に出ようとするのをアキオが止めた。
掌で、少女の小さな拳をつつむ。
〈ここから先は、君は見ないほうがいい〉
はっとして、少女が指話を返す。
〈大丈夫。あなたが見るものが、わたしの見るものです〉
アキオは少女の手を、しっかり握って離した。
「お前に聞きたいことがある」
アキオがドビニーに話しかける。
今日の天気を尋ねるようなさりげない口調だった。
「腕を失くした者が、存在しない指先の痛みを感じるのを知っているか」
いわゆる幻肢痛だ。
「知っている。なんだ、わたしの腕を斬るつもりか」
ドビニーが虚勢のつもりか、整った顔に薄笑いを浮かべる。
「いや、腕は斬らない」
そう言って、アキオは魔法のように手に現れたナノ・ナイフを一閃させた。
男爵の秀麗な顔が、奇妙な笑顔を浮かべたまま斜めにすべり、身体から転がり落ちる。
すぐにアキオは、ナノ・コクーンを弾いて男の頭を包んだ。
ひどく出血する前に生首は保護される。
心臓の働きで、鮮血を吹き出す体の方は、ミストラが血を浴びないように羊形の石灰石まで足で蹴り飛ばした。
首のない、糸の切れたあやつり人形のような体は、鮮血を吹きつつ奇妙な体勢のまま岩にはりつく。
先ほど飲んだジェルが効いたのか、多少体力が戻っているようだ。
「あれは、存在しない腕を脳――頭があると思い込むことで生じる痛みだ」
アキオは穏やかな調子で会話を続け、返すナイフでへプランの首も落とし、同様に透明なコクーンで包んだ。
やはり身体を蹴り飛ばして岩の上に重ねる。
世間話をするように、2つの生首を見下ろして話しかけた。
「その中にいる限り、お前たちはすぐには死ねない。意識も途切れない」
アキオは、足で二つの首を立たせると、静かに話を続ける。
「では、腕ではなく、体全部を失った頭は、存在しない体をどう感じるか――」
そういって、アキオは、アーム・バンドを操作し、治療用コクーンが自動的に起動する痛覚、感覚遮断機能を解除した。
ふたつの生首の眼が大きく開かれる。
悲鳴を発するように口を開いた。
だが、肺を失っているため、声を出すことはできない。
いま、彼らは、脳が、体が存在するものと勘違いするがゆえの痛み、幻体痛ともいうべきファントム・ペインを感じ始めたのだ。
古来、斬首されたものも同様の痛みを感じたのだろうが、最大数分で脳は死んでしまうので、彼らのようにクリアに幻体痛を感じることはなかっただろう。
もちろん、彼らが幻体痛を感じた最初の人類ではない。
アキオ自身も、全身機械化した際に、いやというほどそれを味わったひとりだ。
当時、300年前の地球では、まだ神経操作の技術がそれほど進んでいなかった。
今なら当然使える、疑似的に身体が存在すると錯覚させる模造反映テクノロジーも存在しない。
一応、神経を接続して機械仕掛けの身体を動かし、多少の感覚を脳に返すだけの原始的な機械化だ。
だが、ある程度の感覚を受けるだけでは、脳は納得しない。
幻体痛が発生する。
全身を機械に取り換えた者は、ただ、精神力で、その痛みに慣れるほかはなかったのだ。
アキオも、普通の人間には劇薬であるジャルニバール煙草を使って、頭痛と体の痛みをごまかしたものだった。
それでも、全身を蟻がはい回るような、刃物で切り裂かれるような、強い力で引きちぎられるような、およそ想像しうる、さまざまな痛みが押し寄せて来て彼を悩ませた。
脳が存在しない痛みを創造してしまうからだ。
アキオは思いついたように、重なって岩に張り付く2つの首なし死体をコクーンで包んだ。
「スぺクトラが治るまでそうしていろ」
叫ぶように大きく口を開けながら、目まぐるしく視線を動かすふたりに言い捨てると、アキオは空を見上げた。