039.漫歩
昨夜は夜が更けてから街に入ったので気づかなかったが、この街でも大市が行われているようだった。
目抜き通りだけではなく、そこから分岐する細い路地まで、多くの露店でにぎわっている。
「まぁ」
シアが可愛らしい歓声を上げる。
「こんなに小さな店がいっぱい。それに、なんだか良い匂いもします」
「君は、この街の生まれだろう?」
「そうです」
「だったら、見慣れた景色じゃないのか」
「知らないのです。ほとんど外にはでないから」
「箱入り、か」
「なんですか?」
「大切に育てられている、ということだ」
「大切……いえ、そうではなくて、盗まれないように見張られて育ったのです」
盗む、その言葉でアキオは思いだした。
少女自身がまったく意に介していないようなので話題にしなかったが、昨夜、彼女は誘拐されかかったのだ。
「聞かなかったが、なぜ昨夜はあんなことに――」
「よくあることです。気にしなくてもかまいません」
少女はアキオの言葉を遮る。
「それに、今は安心でしょう。アキオどの……アキオがわたしを守ってくれるのですから」
本人が話したくないなら仕方がない。彼は話題を変えることにした。
「女公爵だったら、行事で街のいろいろな場所に出るんじゃないのか」
「いえ、わたしは、そういうものではないのです」
小さい声でそう答え、
「それに、いつもは高い台の上から眺めるだけで、こんなに近くで、街とそこに暮らす人たちを見たことがありません!」
少女は、声高く客を呼び込む雑貨屋の男や、魚を見せて売りつけようとする女たちの姦しい笑い声に目を細める。
「街は生きているのですね。わたしは、この街を、国を一つの塊としてしか見ていなかった」
「塊?」
「なんでもありません。ほら、アキオ、あの良い匂いのする食べ物を食べましょう」
少女は、勢いよく煙を上げる屋台に向けて走り出す。
「おいしい!」
鶏肉のようなものの塩焼きにかじりついたシアが破顔する。
「そうか」
「こんな暖かい食べ物を食べるのは何年ぶりでしょう」
「公爵が暖かい食事も食べられないのか」
「え、ええ――」
そういって少女は、ひと通り毒見がすまないと食事をとれない、といった。
アキオは考える。
公爵といえども王ではない。それほど暗殺を恐れる必要があるのだろうか。
「ですから、今日は、アキオと暖かい食べ物をいっぱい食べるのです」
アキオに殴られた男たちが、派手な音を立てて吹っ飛び通りを滑っていく。
(いったい何度めだ?)
後ろで手をたたき、飛び上がって喜ぶ少女の嬌声を聞きながら、アキオは少々疲れてきた。
殺しに特化された彼の戦闘技術で、ケガをしない程度に懲りさせる、というのはなかなか骨が折れる作業なのだ。
しかし、通りを歩くと極端に短いスカートから伸びるしなやかな脚と、形の良い――臍を出した美少女にちょっかいを出してくる男が後をたたないのだ。
もう少しスカートの丈を伸ばし、上着の裾を長くするように言いたいが、子供のように、いや実際子供なのだが、はしゃぐ女公爵に、アキオはそれを切り出せないでいた。
このようにして半日近く街を散策している。
「疲れないか、シア」
屋台の椅子に座って果汁を飲む少女に尋ねる。
ラスというレモンに似た果物の果汁だ。
黄色い花が添えられている。
「大丈夫。疲れてません」
木製のカップを口から話すと少女は顔をほころばせる。はち切れそうな笑顔だ。
さすがに若さでは勝てない。
アキオは苦笑する。
少女とふたり漫ろ歩くうち、アキオは空気が湿りを帯びてきたのに気づいた。
見上げると、あれほど晴れていた空の一部に黒雲が広がり始めている。
いつしかアキオたちは巨大な川のほとりを歩いていた。
これがテルベ川らしい。
「アキオ、ほら、あれは楽しそうです」
少女公爵が屋台のひとつを指さした。
天幕の中にいくつか壇が作られ、その上に金属製の盾のようなものが置かれている。
屋台の前に少し離れて線が引かれ、そこから、子供や恋人に良いところをみせようとする男たちが、何か小さいものを投げて盾に当てていた。
店の親父が良く通る声で口上を叫んでいる。
「さあさあ、そこの道行くお兄さん方、腕に自信があれば、ネル投げに挑戦しておくれ。そこに引かれた線から投げて、ズラリと並んだ豪華景品を見事に落として、ご一緒の美しいご婦人に贈るもよし、家で待ってる奥方のご機嫌取りに使うもよし。走って投げちゃあいけないよ――」
看板を見る。
説明書きによると、ニック硬貨5枚で3つのネルが貸し出され、それを盾に当てて倒したら景品がもらえるという遊びらしい。
ネルというのは、男たちが投げているボールのようなものだ。
「君がやるのか?」
「アキオがやるに決まっています。わたしにあの髪留めを取ってください」
そういって少女は、景品棚の一番上の綺麗な桜色の石の嵌った小さなヘアピンを指さした。
アキオはうなずいた。
殺人方法としての投石や手榴弾の投擲は数限りなくやってきたが、遊びで物を投げたことなど一度もない。
この機会に一度やってみてもよいだろう。
「取れなくても怒るな」
「アキオは必ず取ります」
神託を告げる巫女のように厳かな口調でいう少女の頭をくしゃくしゃと掻きまわすとアキオは店の親父に金を払った。
3つのネルを受け取る。
(なるほど)
アキオは合点した。
ネルという球は、直径3センチほどの球形のものだが、その重さが布を丸めただけのように軽いのだ。
これでは、普通のやり方では重そうな盾を倒せそうにない。
先ほどから、男や子供たちが、何度も当てているのに盾が倒れないのには理由があった。
皆がよく文句を言わないものだ。
アキオは手の中でネルを転がして重さをはかる。
要は球が軽いだけだ。それならば何の問題もない。
質量が小さければ、速度を上げて運動エネルギーを大きくすればいいだけだ。
エネルギーは速度の2乗に比例する。
最高商品の髪飾りを取るには、最上段の盾と2段目の盾の2つを落とさなければならない。
まず、アキオは2段目の盾を狙った。
重さ0.5キロの手榴弾を投擲する要領で、軽くテイクバックを取って投げる。
スナップも効かせる。
シュッと音を立てて飛んだネルは、見事に盾を棚の下に落とした。
「すごいねぇ、お兄さん」
店主が声をかける。
「次は何を狙う?」
「一番上の盾だ」
「あれは無理だから、他のにした方がいいよ」
アキオは男の言葉に取り合わず、前の時より大きくテイクバックを取ると、一番上の小さな盾に向けてネルを投げた。
糸を引くように飛んだネルが勢いよく跳ね返り、ほぼ同じ速さでアキオの肩の上を飛び去る。
周りで見ていた見物人がざわついた。
(なるほど)
アキオは再び納得した。
絶対に最高商品を渡さないために、最上段の小さな盾は棚に固定してあるのだ。
小商いの可愛い知恵だ。
普段の彼なら、もちろんいつもの彼なら間違ってもこんなゲームはしないが、勝負を降りて親父に勝ちを譲るだろう。
命もかからぬつまらない勝負に拘泥する必要などない。
だが、今回はそうはいかない。
少女公爵が神託を受けたように『取れる』と断言したのだ。
シアはミストラとヴァイユ、2人の娘の友人だ。彼女が悲しめば、ふたりも悲しむだろう。
ユイノは言った。
助けるなら最後まで助けよう、と。
アキオは密かにアーム・パッドに触り、ナノ身体強化する。
大人げないのは百も承知だ。
彼は、この広場にいる誰よりも大人だ。誰よりも歳をとっている。200年以上も。
だが、彼は、自身認めているが大人げない行為が嫌いではない。
変に大人ぶるより遥かに好感が持てる。
あるいはこれは、彼女の影響なのかもしれないが――
「的の後ろに人がいないか確認しろ」
アキオが店主に声をかける。
親父は幕をめくって後ろをのぞき込み、言った。
「誰も居ませんぜ。後ろにあるのはテルベ川だけだ」
「よし」
「兄さん、走り投げは禁止だよ」
アキオが足の位置を決めようと体を移動すると親父が注意する。
アキオはうなずく。
ちらと少女の顔を見て――彼女は、真剣な顔で胸の前で指を組んでいる――ゆっくりと左足を上げて線の手前に踏み込みながらネルを投げた。
爆発的な音を立てて、アキオの踏み込んだ地面が陥没する。
同時に衝撃波のような飛翔音を発してネルが壇に向かって飛び、盾に当たった。
盾は倒れなかった。
ただ、盾が固定された長さ4メートルの台ごと吹っ飛び、幕を巻き込んで背後の河に落ちただけだ。
これだけのことが百分の数秒で起きた。
正確に起こったことを見ていたのはアキオだけだっただろう。
「もらっていく」
アキオは茫然とする親父にそういうと、地面に転がった景品に無造作に手を伸ばし取った。
「あ、あんた、ちょっと」
引き留めようとする親父の周りを男たちが取り囲む。
先ほどまで、何度も金を払って的当てに挑戦していた者たちだ。
「アキオ!」
身体強化を解除したアキオにシアが飛びついて、ハイタッチしてくる。
彼は片手でそれに応じると、
「これでいいか?」
そういって景品を箱からだして少女に渡す。
「まぁ、きれい。素敵」
少女が髪飾りを空にかざして子供のように喜んだ。
「女公爵なら宝石ぐらい家に転がっているだろうに」
「あなたが取ってくれたのがうれしいのです」
女公爵が15歳の少女らしく口をとがらせる。
「ああ、でもうれしい。これでひとつ夢が叶いました」
どんな安い夢なのだ、と思いつつ、アキオは少女が喜ぶのを眺めている。
「あ!」
頬に冷たいものが当たり、少女が声を上げる。
ついに雨が降り出したのだ。
アキオはシアの手を引いて、近くの樹の陰に入った。
コートを広げて少女を包み込んで濡れないようにする。
「アキオ……ありがとう」
シアが彼を見上げて囁くように言う。
彼は初めて少女が頬を染めるのをみた。
「これを髪につけてください」
渡された髪留めを少女の黒髪につけてやる。
「似合う?」
問いかけるシアにうなずく。
「宝石の形は君の手の痣と同じだな」
「――知っていましたか」
彼もさっきハイタッチをしたときに初めて気づいたのだ。
少女公爵の右手首の内側に、七芒星の形をした痣があることを。
しかし、少女はそれ以上痣の話題には触れず、
「雨になりましたね……」
空を見上げる。
「この辺りに風はないが、上空の風は速そうだ。しばらくこうしていればすぐに止む」
「しばらく、このまま?」
そういって、シアが身体をくるっと回して、アキオに身を預ける。
少女の温もりとアキオの体温がシンクロする。
ふとアキオは少女から甘い香りを嗅いだ。
「いい匂いがする」
「これです」
シアはそういって、胸元から黄色い花を取り出した。
「ラスの花。さきほどの飲み物についていたものをいただきました」
彼女は花の匂いを嗅ぎ、
「こうやってアキオに抱きしめてもらえるとは思いませんでしたが、持っていてよかった」
花のような笑顔を見せる。
10分たらずで雨は止んだ。
アキオは、コートを開き少女を外へ出した。
「これで今日はもう降らないだろう」
さっさと歩き始める。
少女が走って追いつき、彼と手をつないだ。
整備された道は、雨の後でもぬかるんだりせず歩きやすい。
しばらく行くと、
「向こうに何か見えますよ、アキオ。ほら、こっちこっち」
すっかり街娘の話し方にも慣れた少女公爵がアキオの手を引いて連れていく。
「わぁ」
シアが歓声を上げた。
そこは、河の船着き場だった。
彼女の行きたがっていたヴィド桟橋だろう。
街を縦断して走る雄大なテルベ河とそこにかかる巨大なエミュレ橋も見える。
エミュレ橋は人力で稼働する跳ね橋のようだ。
定期市の季節だからか、大きな商船が何隻も停泊していた。
しかし、なんといっても圧巻なのは、巨大な戦艦の群れだ。
「なんて大きな船でしょう」
「軍艦だな」
「軍艦とは大きなものですね。本物を初めて見ました」
シアが妙にしみじみという。
「あれには多くの兵が乗っている。ただの駒ではないのですね」
アキオは、遠くを見て潤む少女の愁いを帯びた瞳を見る。
シアは彼の視線に気づき、ぱっと表情を明るくした。
「あの船なら、エストラにも西の国にも、ニューメア王国にもいけそうです」
「河と海を経由すればいけるだろうな」
アキオが何気なく答える。
「いつか行ってみたいな……アキオと――」
少女の可愛らしい呟きは聞こえない振りをした。
「あ、アキオ、見て」
突然、シアが空を指さして叫ぶようにいう。
少女の指の先を見ると虹が出ていた。
世界は変わっても、光の連続スペクトルは変わらないらしい。
雨の匂いのする河のほとりで、虹を指さす少女を見てアキオは微笑んだ。
工学者の彼にとって、虹とはあらゆる波長の光を含む太陽光が、空中に浮かんだ水滴を三稜鏡として分光され網膜に投影される、ただそれだけのものだ。
だがアキオの目に映る、再び空を見上げ、うっとりと光の層を眺めている少女の顔に懐かしい女性の容貌が重なった。
彼はそっと、まっすぐ艶めく少女の黒髪に、手櫛をいれるように指をさしいれ緩やかに掴んだ。
はっと驚いて振り向いたシアは、アキオを見て可愛らしく笑う。
うなずくアキオに彼女もうなずき返して、再び熱心に虹を見上げ始めた。
少女の髪の手触りを感じながら、彼は、雨上がりの瓦礫の街、大きな虹の下で旧式RPG7の直撃を受けて死んだ母の黒髪を思い出していた。
それ以降は人為的に改変された、彼の幼少期の最後の記憶だ。
雨の後には虹ができる。
その世界が平和であろうとなかろうと。
人の生死には頓着しないアキオも、親しくなった者の不幸は望まない。
青灰色の瞳に虹を映す少女の横顔を眺めながら、彼は、少女の暮らすこの街だけでも平和であれと思うのだった。