388.男爵
「うう……」
背後で発せられた声に、彼は振り返った。
スぺクトラが大粒の涙を流して泣いている。
優し気な表情だ。
今度の涙は、痛みによるものでも、恐怖によるものでもないだろう。
体に入ったナノ・マシンを通じて、彼女もミストラの『地球の蒼い空』を感じているのだ。
やがて、静かな余韻を残して少女は演奏を終えた。
眼を開けて、水色の瞳で彼に問いかける。
アキオがうなずくと、ミストラは違う曲を奏で始めた。
サイベリア、旧ロシアの作曲家の手になるヴォカリーズだ。
彼女が好んで聞いたので、武骨な兵士であった彼も、地球の主流文化には比較的明るい。
哀愁を帯びたメロディー・ラインが切々と紡がれ洞窟内を流れていく。
最後に、少女は明るく愛らしい愛の喜びを謳った曲を奏でて演奏を終えた。
アキオはあたりを見回した。
兵士たちは、悪夢から覚めたような表情で座り込み、それぞれが頭を振っている。
彼は、クルコスに近づくと手を引いて立たせた。
少年は、呆然としながらも抵抗はしない。
アキオは彼を、少女の許に連れて行く。
ミストラもヴァイオリンを降ろし、満ち足りた表情でふたりに近づき――
突然、大きな影が彼女の背後に現れた。
後ろから捕まえる。
スぺクトラだ。
一瞬、アキオはP336を抜きそうになるが、なんとか踏みとどまった。
彼女がミストラを捕まえたのではなく、抱きしめたことが分かったからだ。
とめどなく涙を流している。
「言葉……見つから、ナイ……なんて、イエバ……そう、ヨ、カッタ」
少女は抱かれたまま振り返ると、背伸びしてスぺクトラの頬を撫でた。
「ありがとう」
ミストラは笑顔でアキオを見て――可愛く片目を瞑る。
その顔はこう言っていた。
ね、良い子でしょう、と。
「大丈夫だ。あれに危険はない」
そう言って、アキオは眼を丸くして姉の様子を見るクルコスの背を押した。
少年はミストラに走り寄って抱きつく。
アキオは目の端で、ほぼ正常な精神状態に戻った男たちが、スぺクトラの姿に驚いて抜剣するのを見た。
「よせ」
素早く動いて、男たちから剣を取り上げる。
抵抗する気力を奪うため、彼らの目の前で、剣を指先でへし折った。
兵士たちは驚いて言葉を失うが、ただひとり、
「く、黒の魔王――」
秀麗な顔を引きつらせて、そう口にする男に、弟を抱きしめたミストラが言い放つ。
「グルコ・ド・ドビニー男爵、あなたは、わたしの弟を誘拐しましたね」
少女の顔を見て、男が呻くような声を出した。
「お前は……ガラリオの娘、手練手管の悪女――」
少女が、かっと頬に血を登らせて言う。
「だまりなさい」
男爵が口にしたのは、悪意をもってつけられた彼女の二つ名なのだろう。
「聞きたいことがある」
アキオが、歩み出て問う。
武器を奪われた兵士たちは、彼を恐れてぴくりとも動かない。
「何だ」
男爵が噛みつくように言う。
「なぜ爆薬を使った」
「調査では、この先の洞窟の一つが地上に通じていることが分かっていた。それを塞ぐ岩壁さえこじ開けることができれば、おまえに捕まりはしなかった」
グリムの予想通りの答えだ。
アキオは、急速に興味を失って男に背を向ける。
結局、その爆発がスぺクトラを怯えさせ、夜光虫を使った精神攻撃を行わせたのだ。
「待て、わたしからも質問がある――あの化物はなんだ」
彼が振り返った。
ドビニーが、涙で目の周りを赤くするスぺクトラを指さしている。
「そのような物言いはやめなさい。この子は、わたしの愛する方の――」
男爵はミストラの言葉を無視して、
「こいつが、わたしたちの頭の中に妙な考えを吹き込んだのだろう。この角の生えた化物が!」
口角泡を飛ばしてドビニーが騒ぎ立てる。
スぺクトラは悲し気な顔をしている。
早口で交わされるサンクトレイカ語は理解できないものの、その口調と、まだ微かにつながるナノ・マシンの同調で、彼女は自分が非難されていることが分かっているようだ。
ドビニーが野卑な笑いを見せた。
「よく見れば、大きいながら人間の女のように良い身体をしているではないか。角と鱗を何とかすれば上流階級に需要があるかもしれん。その巨大な胸に抱きしめられたいという老人たちが――」
「その汚い口を閉じなさい」
我慢できずにミストラが叫ぶ。
「下品な男――」
アキオは頬を紅潮させた少女を見、顔を蒼ざめさせたスぺクトラを見た。
ゆっくりとP336を取り出す。
「黙らせるか」
少女に尋ねる。
殺してしまうか、ということだ。
男爵と兵士たちは、銃というものを知らない。
だが黒の魔王の、氷のように冷たい目と感情のこもらない声に全員が震えあがった。
彼らはいま、一本の毛髪で吊り下げられた剣の下に立っていることを知ったのだ。
ひとつ対応を間違えれば、一瞬で命を失ってしまうだろう。
「確かに、わたしはお前の弟を攫った。だが、それがどうしたというのだ」
ひとり男爵のみが、虚勢を張った叫び声をあげる。
「どのみち、この洞窟から抜け出すことはできんのだ。その化物がなんとかしてくれるというのか。それとも、口先だけで人と国をだます小娘が――な、なんだ」
アキオは、銃をしまうと男爵に近づき、手首を掴んだ。
「は、離せ」
無造作に骨を握りつぶす。
「うわぁぁ」
さらに、叫び声を上げようとする男爵の顎を掴んで外した。
「これ以上喚いたら顎ごとむしり取る」
言葉を話せなくなって唸るだけの男爵を地面に捨てると、アキオは湖に向かって呼びかけた。
「グリム」
ほんのわずかな沈黙のあと、
激しい爆発音が轟いて、鍾乳洞の天井が吹き飛んだ。
陽光が差し込む。
「ノックノック」
良い声でそう叫びながら、開いた穴から、黒い蛇のようなグリムが湖底に降りてきた。
「仰せのとおり道をつくりましたわ。あなた」
「あなた?」
クルコスを抱きしめながら、スぺクトラに抱かれたミストラがあっけにとられたような顔をするのが見える。
アキオはうなずき、
「よくやった。次は、この男たちを上に連れていって拘束してくれ」
「わかりました。あなた」
グリムは、素早く男たちを巻き込んで上に登って行った。
「アキオ、あなたって――」
彼に話しかけたミストラは、アキオが少年を見ていることに気づき、
「アキオ、弟のクルコスです。クルコス、この方がわたしのご主人さま、ヌースクアム王、アキオ・シュッツェ・ラミリス・モラミスさまよ」
少年は、澄んだ目で彼を見つめ、一歩近づくと、膝をついた。
「お初にお目にかかります。わたしはクルコス・スタルク・ガラリオと申します。アキオ・シュッツェ・ラミリス・モラミスさま」
彼は少年の手をとって立たせると、言った。
「アキオでいい」
「はい」
「気分は悪くないか」
「さっきは酷い気分でしたが、今は大丈夫です」
「そうか」
「よかったわね」
ミストラが笑顔で弟を見た。
少年が改めて気づいたように言う。
「姉さま、あの不思議な楽器は?いつのまにあんな美しい音楽を――」
「最近、扱えるようになったのです。もちろん、わたしにできることのすべては、我が王から与えられたものなのですよ」
アキオは首を横に振る。
「彼女にできることは、すべて彼女自身の努力の結果だ」
「アキオ――」
少女が彼に近づこうとした時、
「いわれた通り、全員、地上で拘束しました。あとはどうしますか、あなた」
地上の穴からグリムが顔を覗かせ、言った。
アキオは苦笑すると、グリムに命じる。
「スぺクトラが登るための梯子を作ってくれ」
ミストラを振り返った。
「地上に出たら、ノランに連絡をとってくれるか。俺はサフランと話す」
「わかりました。捕縛隊が来る前に、この子を連れていくのですね」
「そうだ」