387.洗脳
「何ごとでしょう」
ミストラが驚いてアキオを見た。
スぺクトラは、自分よりはるかに小さな少女の陰に隠れるように身を縮めている。
「クルコスを見てくれ」
そう言って、アキオは、男爵に向けて走った。
兵士たちは、それぞれに大きく眼を見開いて、何事か叫んでいる。
その表情にあるのは――あからさまな恐怖だ。
ほとんどの男たちが、叫びをあげてガタガタと震えている。
男爵も、ミストラが抱きしめたクルコスも同様だ。
これは――
アキオの表情が暗く、厳しいものになる。
やがて、男たちは地面に横たわり、震えながら幼児のように身を縮めた。
アキオは転がる男たちの間を縫って少女に近づく。
「ミストラ」
地面に身を横たえた弟を、為す術なく見つめる少女に声をかける。
「アキオ」
すがるような目で、ミストラが彼を見た。
「どうしてこんなことに……」
不規則に痙攣を起こしながら震える男たちを見て、アキオが口を開く。
「かつて地球でMKウルトラ計画という実験が行われたことがあった。知っているか」
「いいえ」
「400年以上前に、国家が秘密裏に行った違法人体実験、洗脳実験の名称だ。薬物、生物、果ては放射性物質まで使ってマインド・コントロールを行おうとした。その成果の一部は――俺の人格改造にも使われている」
「アキオ……」
「その後も、国際法で禁じられながら、戦場において兵士から恐怖心を取り除き、敵への憎しみをあおるために、思い出したように兵士洗脳は繰り返された」
淡々と彼は語る。
「俺が傭兵として戦った戦場でも、死をまったく恐れない狂兵士が時折出現し、味方に甚大な被害を与えた――いや、狂兵士は、敵だけではなく友軍にも現れた。知らぬ間に食事に混ぜられた薬物と、夜間、密かに兵舎に流される洗脳ワードによって、異常なほどの蛮勇を示す兵士だ」
少女がアキオの手を握る。
「だが、そんな無理な精神高揚が続くわけがない、戦いのあと、生き残った狂兵士のほとんどは、その反動で、あるものは恐怖で精神が破壊され、また、あるものは生きる気力を失って死んでいった」
アキオは、男たちを見回し、
「彼らの反応は、その時の狂兵士の気持ちの揺り返しに似ている」
「スぺクトラが、夜光虫を使って行った憎しみ強化の反動ということですね」
「そうだ」
「とりあえず、あの子に聞いてみますね」
ミストラは、スペクトラに近づくと、いくつか質問し、彼女が答えた。
戻ってきた少女が言う。
「なぜこうなったのか分からないとのことです。今までは、ゴランなどの魔獣にしか使ったことがなくて、その時はこんな状態にはならなかったそうです。それに、もう夜光虫もヒカリゴケもなくなったので催眠は使えないともいっています」
アキオはうなずく。
「どうしましょう。とりあえず眠らせますか」
「いや、手当は早い方がいい。今は君の弟もいる」
「手当、ですか――ナノ・マシンを使って?」
「ナノ・マシンの精神に対する影響は限定的だ。脳の特定部位を活性化する方法も副作用が大きい」
「ではどうしますか?手持の薬物はほとんどありませんが」
「薬はあるさ――君だ」
「え、わたし」
名指しされた少女は驚いて目を見張る。
「当時、衛生兵が異常をきたした兵士を治療した際に、薬物以外で一番効果が高く、副作用がなかったのは音楽だった」
「音楽……」
「君は楽器を持っているな」
「え、は、はい」
「考えがある。弾いてくれ」
「で、でも――」
少女は俯く。
「頼む。君の音楽が必要だ」
「はい!」
アキオに、必要だ、と言われて、少女は勢いよくうなずいた。
顔を上げる。
ミストラはコートのボタンを外すと、その隠しポケットから、美しく畳まれた栗色の薄布を2枚取り出した。
地面に置き、アーム・バンドに触れると――ピキピキという奇妙な音と共に、布が持ち上がり、折り、畳まれ立体となっていく。
アキオが尋ねる。
「スぺクトラに、何をいった」
「え」
「態度が変わりすぎている」
確かに、先ほどまで傷つけあい、戦っていた者とは思えない変わりようだった。
ミストラが困った顔になる。
「べつに……あなたのことを説明しただけです」
布の一部が弦となって指板の上に張られると、f字孔の間に、下からブリッジがせり上がってヴァイオリンが完成した。
まるで本物の木製のようだが、素材は汎用のナノ・クロスだ。
それぞれの部位の特性を、実際の素材に似せてあるため、名器といってもよい音が出るらしい。
それを手に取り、糸巻きであるペグを回しながら弦を指で弾いて、大まかに調弦する少女を見ながらアキオが尋ねる。
「なんと説明した」
ミストラは早口に小声で言った。
「あなたは、この世界で一番強く優しい人で、名前を与えた者は絶対に守ってくれる、と」
アキオの表情を見て、慌てて言葉をつぐ。
「彼女は何千年も独りで生きてきたんです。保護してやらないと、それに、あんなに大きな子ですから、普通の男の人では釣り合いません」
ミストラは、もう一枚の布が変形した弓を手にすると、ヴァイオリンを顎にはさみ、彼を見た。
どうします、というように小首を傾げる。
「続けてくれ」
少女はうなずくと、ゆっくりとボウイングを始めた。
ナノ・マシンが塗布されているため、弓に松ヤニを乗せる必要はない。
さらにペグを微調整し、チューニングを完了させる。
「はじめます」
少女は、眼を閉じると、ほんの少し体を揺らしつつ音楽を奏でだした。
アキオはアーム・バンドに触れると、素早く動いて男たちの身体を掴み、ミストラの前に集めはじめた。
人の声に一番近いといわれるチェロほどではないが、その肉声に似た豊かな音色は、倍音の成分を含みつつ、洞窟内を流れていく。
憂いを含んだ優しい音色、美しいメロディ――
音楽の善し悪しは、未だに分からないアキオだが、それがなんという曲であるかはわかる。
地球の蒼い空――
もちろん、異世界の曲を男たちが知るはずはない。
だが、名曲自体が持つ力は、次元の壁を越えて傭兵たちの気持ちを静め、恐れを取り除いていく。
初めのうち、眼を開けたまま震えていた男たちも、時が経つにつれて、その表情を穏やかなものに変えていった。
アキオは、曲を奏でる少女を見た。
巨大な奇岩に囲まれた地底湖の前で、太陽に似た陽ざしを浴び、栗色の髪を輝かせながら、時に激しく、時に優しくボウイングし、絶妙なアタッキングでリズムをつける少女の夢見るような表情は、それだけで彼の気持ちまで穏やかにしてくれる。
思った通り――少女の演奏は、傭兵たちの恐怖を見事に緩和してくれた。
もちろん、正確にいえば、音楽単体に、それほど薬めいた力はない。
半生を戦いに費やしたアキオは、そう断言できる。
基本的に音楽は、病にも暴力に対しても無力だ。
どのような美しい曲も歌も、自動小銃の初速975m/秒の弾丸には打ち勝てない。
音楽で国は変わらない。
人も変わらない。
戦争も終わらない。
戦いにも勝てない。
だが――確かに、ヒビトのブルース・ハープは、広場の人々を笑顔に変えた。
中央アジアのカルギスで、踊子イカルの歌は、傷ついたトナルたちの痛みを和らげた。
その意味で、音楽には彼の知らない力が隠されているのかもしれない。
アキオは、とりとめのない考えを頭から振り払う。
少なくとも――今、この場における、少女の奏でる曲には確実に力が宿っている。
彼がそのようにしたのだ。
兵士たち全員に、低濃度ながら入り込んでいるグレイ・グー由来のナノ・マシンを使って。
アキオは、曲の始まる前に、アーム・バンドを用いて、彼らのマシンと少女のマシンを同調させた。
つまり、男たちは耳を通じてではなく、ナノ・マシンを通じて、心の深部にダイレクトに、少女の音楽による鎮静化を受けたのだった。