386.精霊
頭に響く声――しかし彼の知る限り、精神感応などというものは存在しない。
あるいは、異次元の科学を知るドラッドの亜種として、この生物が、そういった能力を持っているのかもしれないが、その可能性は低いだろう。
なぜならば、ドラッド・グーンの正統な後継であるサフランでさえ、精神感応能力は持っていないからだ。
彼女が成層圏のカマラの叫びに気づいたのは、地下洞窟に籠って、キラル症候群の研究をするために、ナノ・マシンとの同期チャンネルを開けていたからに他ならない。
言葉を聞いたのではなく、激しいイメージを受け取ったのだ。
今回の呼びかけも、その辺にヒントがあるような気がする。
彼らの体内にあるナノ・マシンと、先ほどゴランに与えた治療用ナノ・マシンの共鳴、共振だ。
少女たちは、彼との共鳴を色として感じるらしいが、相手がドラッド体なら、もう少し明確なイメージを伝えることができるのかもしれない。
「アキオ、あの子の声が聞こえました」
ミストラが彼の腕をつかむ。
「声――」
「はい」
彼は考える。
基本的に、彼自身は、少女たちが感じる色というのもよく分かっていない。
おそらく、日頃から、そういった共振に慣れているミストラの方が、ドラッド・ゴランの意思伝達をよく理解できるのだろう。
「君が意思疎通を図ってくれ」
「はい!」
少女が生き生きと返事をする。
たとえ、どれほど嫌おうとも、交渉は彼女の第二の天性なのだ。
「こっちへ来なさい。怖がらないで」
ミストラが優しい声で話しかけながら手招きすると、ドラッド・ゴランはおずおずと湖水を歩き、湖岸に上がった。
ゆっくりと岩場に座り込む。
少女は声を掛けながらゴランに近づき、その大きな腕に触れた。
穏やかに何かを話しかける。
「ギデオン」
少女に危険がなさそうだと判断したアキオは、黒蟻を呼んだ。
「イエス、ご主人さま」
湖水から海龍のように長い首が持ち上がり、言葉を発する。
「この辺りの地形は把握したか」
「イエス」
「洞窟の先に脱出路はあるか」
「いいえ」
アキオは少し黙り、
「お前はどうやって来た」
「あなたが通られた道をたどりました」
「鉱夫たちは驚かなかったのか」
「身体を細くして密かに通りましたから、気づかれていないはずです――マスター」
「なんだ」
「1つの報告と1つのお願いがあります」
アキオは、目で先を促す。
「わたしをギデオンと呼ばないでください。再プログラムされて生まれ変わりましたから」
「何と呼べばいい」
「グリム、と」
「夜の精霊か」
アキオはつぶやいた。
彼女の好きだった物語の作家でもある。
「イエス」
「いいだろう。報告の方は」
「先ほどの爆発による振動で、この鍾乳洞の入口付近が大規模に崩落しました」
「帰り道がなくなったということだな」
「イエス」
「あの爆発は――」
「爆発地点の様子から考えて、あの人間が、あなたから逃れるために、爆弾で道を作ろうとしたのでしょう」
アキオはうなずく。
正確なところは、あとで男爵から直接聞けばよいことだ。
「グリム」
「はい」
心なしかうれしそうに声が答える。
「脱出路は無いといったが、お前なら何とかできるか」
「作ってみせます。あなたが望むなら――」
グリムの言葉に、ほんの少し口元を緩めると、アキオは言った。
「やってくれ」
「任せて!」
グリムが水中に消えると、アキオはミストラに視線を移した。
少女は、座り込んだゴランと顔を突き合わせるようにして、熱心に話をしている。
どの程度、会話が成り立っているかわからないが、交渉は彼女に任せておけば間違いないだろう。
アキオは、男爵とクルコスが眠るコクーンに近づくと、アーム・バンドに触れてバリアを解除した。
クルコスに近づく。
姉と同じ栗色の髪をした利発そうな少年だ。
見たところ怪我はしていないようだ。
次に彼は、装備と服装からドビニー男爵と思しき男に近づいた。
首を掴んで起こそうとした時、
「アキオ」
ミストラに呼ばれて振り返る。
彼女が手招きをするのを見て、男爵を地面に置くと、少女の許へ歩み寄った。
「話は聞きました」
「会話が成立するのか」
「はい。この子は、エストラ語に似た――古代エストラ語ともいうべき言語を話します」
アキオはうなずく。
おそらく、遠い過去に、ドラッド・グーンが、この生物を作った時に与えた言語なのだろう。
それが今に残ってエストラ語になったのだ。
「彼女は、長い間、ずっと独りでこの鍾乳洞で暮らしていたそうです――」
「カマラのようにか」
「はい。ですから、初めは会話も満足に行えませんでしたが、もともとは利発な子です。明確なイメージを与えながら少し話すと、カタコトながら意思疎通ができるようになりました」
少女は微笑み、
「ついては、彼女からアキオに頼みがあるそうです」
「聞こう」
ドラッド・ゴランの娘は、じっと彼の顔を見ると、ほんの少し顔を歪めて、喉の奥から絞りだすように声を出した。
「名前、を、つけて、欲しい」
意外と澄んだ良い声だった。
なぜ、と彼は聞かなかった。
娘が、彼への降伏と服従の意味をこめて、そう言っているのは明らかだからだ。
それに――少女に名前をつけるなど、これまで何度も繰り返したことだ。
是非もない。
アキオは、娘の角の生えた頭を見、体表の多くを覆う緑色の鱗を見る。
そして、さっき彼女の上にかかった虹を思い出し――言った。
「スペクトラム」
「ああ、太陽光スペクトル、さっきの虹ですね。ですが、この子は女性ですよ、どうせなら虹色とか虹子とか――」
「スペクトラ」
アキオが言いかえる。
「良い名ですね。ではそれに決めましょう」
そういって、ゴランを見上げる。
「あなたの名前はスぺクトラ、よいですか」
「わた、し――スぺクトラ」
額から角の生えた娘は微笑んだ。
「あり、がとう、アキオ」
その時、わっと背後からけたたましい声が沸き起こった。
目を覚ました男爵たちが、頭を押さえながら叫び始めたのだ。