385.戦意
「あれは――ゴラン?」
少女がつぶやく。
怪物が、湖水に倒れて吹き上げられた水煙が、太陽光と同じスペクトル分布を持つ光を受けて、美しい虹を作る。
だが、その下で顔を伏せて立ち上がった異形の生き物は、ゴランとは、かなり異なっていた。
その身体を覆う深緑色の鱗、八頭身の体形――だが、なにより違うのは、豊かな乳房、くびれた胴、美しく張った腰――明らかに女性の身体を持っていたことだ。
怪物が、頭をもたげた。
陰になっていた表情がはっきり見える。
その顔は、かなり整った女性のものであり、瞳と髪は――オレンジ色だった。
頭部からは二本の角が生えている。
「アキオ!」
振り向いて彼を見た少女に、アキオは目で同意した。
明らかに、こいつは、ドラッド・グーン由来の生物だ。
おそらくサフランと同じ系譜だろう。
あえて名付けるなら――ドラッド・ゴランか。
かなり細身であるから、身長は5メートル足らずで体重は1トン余りと思われる。
アキオは少し考え、ゆっくりとP336をしまった。
水につかって、立ちすくんだように動かない相手を見る。
たとえ、サフランと同類であったとしても、敵であることに変わりはない。
彼に少女を傷つけさせた事実は消えない。
彼の手が一閃した。
キン、という金属的な音がして、湖に銀針が落下する。
ゴランの性質を受け継ぐ身体なら、魔獣殺害のためのナノ・マシンが有効なはずだが、肝心の針自体が刺さりもしない。
「君はここにいろ」
そう言って、アキオの姿が消えた。
ドォン――
腹に響く音が洞窟内に轟いた。
飛び上がったアキオが、怪物の腕に腰の入ったパンチを放ったのだ。
ドンドンドンドン、ドドドド――
削岩機のような音が、エコーを伴って洞窟内に轟くと、アキオの姿が少女の許に戻ってきた。
黒の魔王は、パンチに続いて凄まじい連続攻撃をドラッド・ゴランに放ったのだ。
だが――
「硬いな」
アキオのつぶやきが少女の耳に届く。
彼の攻撃は、ことごとく怪物の身体の大部分を覆う緑の鱗に防がれていた。
ざっ、と怪物が、身を翻して逃げようとする。
「ダメよ」
エコーのかかった声が響いて、水面から黒い槍が飛び出て威嚇した。
怪物が動きを止める。
「愛するご主人さまのお仕置きをうけなさい」
アキオがミストラを見る。
少女は、困ったように可愛く肩をすくめた。
「キューブの融合体に影響をうけたのでしょう。もともとギデオンは、アキオが好きでしたし」
苦笑した彼は、ギデオンに命じる。
「そのまま足止めしてくれ、攻撃はするな」
そう言いながら、再び彼の手が閃くとナノ・ナイフがその手に現れた。
ゆっくりと刃を抜き放って鞘側面のノッチを押す。
ワン・アクションで鞘はナイフに変形した。
アキオは両手に武器を持ち、身構える。
再び怪物に襲いかかった。
初撃は、怪物の緑の鱗に覆われた手の甲に弾かれる。
彼は、怪物の左腕をつかんで回転しながら、螺旋状に手首から二の腕に向けて鱗の無い部分に刃を突き立てた。
そのまま駆け上がる。
今度は効いた。
怪物の腕は、途切れ途切れに切り裂かれ、紅い血が吹き出る。
鉄を主成分とするヘモグロビンを血液内に持つのだろう。
「あああぁ」
ドラッド・ゴランが女のような声で悲鳴を上げた。
もちろん、アキオは攻撃の手を緩めない。
背中を覆う鱗は無視して、今度は左腕を同様に切り裂く。
「ああ、ああぁ」
おそらく首を走っているはずの動脈を切らないのは、即死させないためだ。
P336を使わないのも同様だ。
ギデオンの槍を使わないのも――
すぐに殺すわけにはいかない。
いま、黒の魔王は、彼本来の姿である、完全な殺人機械として機能していた。
相手が叫ぼうが、喚こうが関係はない。
緻密に、計画通りに、敵にダメージと痛みを与えて後悔させるだけだ。
彼に、彼の少女を傷つけさせたことを――
手首を蹴って跳ね上がったアキオは、怪物の胸を斜めに斬り裂いて、地上に降り立った、
振り返ってドラッド・ゴランを見る。
怪物は――確かに血を流してはいたが、さほどのダメージは受けていないようだった。
さすがに、完全生物ドラッド・グーンの血を継ぐ生き物だ。
アキオは、短く助走すると、再び、凄まじい勢いで跳ね上がった。
怪物の左目に向けて飛ぶ。
ミストラは、左目を潰されていた。
当然、こいつにも報いを――
「アキオ!」
少女の切迫した声を背に受けた彼は、振り返ってミストラを見た。
特に、彼女に危険は迫っていない。
彼はそのまま怪物の顔に着地し、勢いのままナノ・ナイフを眼に――
「いけません。やめて!」
ミストラの悲鳴のような叫びに、怪物の顔を蹴ると、少女の許へと戻った。
「どうした」
「アキオ、見てください」
彼女は、蒼ざめた顔で怪物を指さす。
「あの子は――泣いています」
ミストラに言われて、よく見れば、ドラッド・ゴランは、その眼から滝のような涙を流していた。
アキオの全身から、急速に戦意が消えていく。
元来、彼は復讐者ではない。
戦術にそって、緻密に、計画的に敵を倒す兵士だ。
動物であれ、軍隊であれ、負けを認めた相手は追い詰めるべきではないし、そんなことをすればロクな結果を招かないことを、長年の経験で彼は知っていた。
「いいのか」
彼の問いに少女がうなずく。
「あの様子から考えると、さっきの精神攻撃も、自らの身を守るためのものだったと思われます」
「そうだな」
「いささか過剰防衛だとは思いますが、わたしたちは無事ですから、これ以上、攻撃はしなくても良いでしょう――あとは、会話ができればよいのですが」
アキオは、ドラッド・ゴランを見た。
腕と胸を血に赤く染めて、怪物は泣き続けている。
傷は治りつつあるが、まだ出血は続いていた。
「おい」
アキオが声をかけると、ゴランは身を翻して逃げようとした。
「行かせない」
声と共に、湖底から突き出た鋭い黒い槍が、怪物の両肩を貫いた。
かっと目を見開いたドラッド・ゴランの身体が激しく発光し始める。
「よせ、ギデオン」
アキオは、命じると同時にP336を取り出す。
黒槍が肩から抜けた。
ゴランが手で傷口を押さえる。
胸の光はますます激しく輝き始める。
サフランは相当な魔法の使い手だった。
おそらく、このドラッドもそうだと考えて間違いないだろう。
もし、何らかの魔法を使おうとしているのなら、その前に、P336を使って確実に即死させねばならない。
アキオは、銃の照準を怪物の頭に向ける。
だが、ゴランの内部から輝いた光は、唐突に消えた。
まるで闘うことをあきらめたように――
そして、怪物は、前にもまして大量の涙を流し始めた。
その姿は幼い子供のようだ――
アキオは、しばらくその様子を眺めた後、ミストラに尋ねた。
「アイリンにも、ナノ・マシンは有効だったんだな」
「え」
少女は不思議そうな顔をするが、すぐに彼の言葉の意味に気づいて、嬉しそうに答えた。
「はい!少しだけ問題はあったようですが、効果はあると聞いています」
「わかった」
アキオは、再びジャンプするとゴランの腕にとりついた。
怪物は、彼を振りほどこうともせずに、眼に涙をいっぱいに浮かべたまま彼を見おろす。
近くでよく見ると、整ってはいるが、少女のように幼い顔つきをしている。
彼は、ポーチからナノ・カプセルを取り出して蓋を開け、銀色のナノ・マシンを、血が吹き出る腕に振りかけた。
ただちに傷口が修復され、出血が止まる。
それを確認すると、アキオは腕から離れ、少女の傍に戻った。
「ありがとうございます」
ミストラが彼の腕に触れて言う。
「礼などいらない、俺はただ――」
アキオの言葉が途切れた。
「ナゼ、タスケル」
突然、言葉ではない、抽象的なイメージとも言うべき思念が、彼らの頭に響いたからだ。