375.金打
一瞬、少女は美しい眼を強張らせる。
外交を司る家の主として、仮にも一国の王たるアキオを無視し、先に娘に声をかけるなどということは、あってはならないし、あり得ないことだ。
つまり、ガラリオ伯爵はわざとそうしている。
「お久しぶりです。伯爵さま」
硬い表情で挨拶を返す娘に対し、男は魅力的な声で言う。
「昔のように、お父さまとは呼んでくれないのかい」
「すでに、この身はガラリオ家の者ではありません。まだ婚約の身ではありますが、我が気持ちは、この方――」
ミストラは、すっとアキオに身を寄せ、
「ヌースクラム王、アキオ・シュッツェ・ラミリス・モラミスさまに嫁いでおります。他家に嫁げば、その身は先の家のもの。あなたとの関係も過去のものになったのです」
娘の言葉で、改めてガラリオ伯爵はアキオを見た。
「ああ、これは。ご挨拶が遅れて申し訳ございません。わたしはヴォルク・スタルク・ガラリオと申します。あなたが黒の魔王さまなのですね」
「アキオでいい」
彼はいつもどおりだ。
「なぜ、今さら、わたしを呼んだのですか」
ミストラがたずねる。
「父が娘に会うのに理由が必要かね」
「普通は必要ありませんね」
あなたは普通ではない、という意味を言外に匂わせながら少女が言い切る。
「わたしが、お前を呼んだ理由。それは決まっている――心配だからだよ」
「心配?」
そうつぶやくと、少女は貴族の娘らしくない態度で、ポジのようにアキオの腕に頬を摺り寄せ、
「伯爵さま、何の心配もいりません。わたしは、この方に愛し愛され、共に過ごす毎日が至福の日々なのですから」
「しかし――」
ガラリオ伯爵は、小首を傾げて困ったような笑顔を見せる。
見る者が見れば、心が鷲掴みにされるほど魅力的な表情だ。
「漏れ聞こえてくる風の噂では、黒の魔王は、世に知られざる魔法で虜にした十人以上の美少女を城に集め、夜ごと数人ずつ夜伽をさせて、責めさいなんでいると――」
「あぁ」
少女のため息にも似た声に、驚いて伯爵が黙る。
「いっそ、本当にそうであれば、どれほど――」
幸せでしょうか、という言葉を飲み込んで、少女が続ける。
「それは、ただの噂です。伯爵さまともあろうお方が、風の音になどお耳をお貸しになりませぬように」
「ほう、では、そのようなことはない、と」
「あなたのご想像されるようなことはありません」
「お前はまだ未通女だというのだね」
伯爵は貴族らしくない物言いをした。
「そ、それは――」
少女は複雑な表情を見せ、言い淀む。
「ヴォルク・スタルク・ガラリオ」
アキオが唐突に口を開いた。
「何です」
突然、名を呼ばれて伯爵が驚く。
「ミストラのような素晴らしい女性を世に生み出し、育てあげてくれたことに感謝する」
美少女は、はっと息を止め、口を押さえた。
恋人を見つめる。
「俺は、到底、彼女に釣り合う生き物ではないが、この存在を賭けて、その命と、彼女を悲しませるすべてのできごとから彼女を守ることを誓おう」
アキオは、低く力強い声でそう宣言し、鮮やかな手つきで、コートから鞘ごとナノ・ナイフを取り出した。
それを両手で水平に持つと、チタン製の鞘から数センチ刃を引き出して、素早く閉じる。
キン、という澄んだ音が室内に響いた。
少女の水色の瞳から、大粒の涙が零れ落ちる。
その所作が、いったいどこの国の、何という決まりごとかは分からないが、その意味することは、はっきり伝わったからだ。
彼は――彼女の愛する男は、敵を倒し彼の命を守る武器にかけて、自らの宣言を誓ったのだった。
それは、ガラリオ伯爵にもまっすぐに伝わる。
伯爵は、彼の言葉を反芻するように、深く頭を垂れた。
少女は彼に抱きつき、顔をコートに押し付けて涙を隠す。
アキオはミストラの髪を優しく撫でた。
やがて、低く小さい音が室内に響き始め、それはやがて、明らかな笑い声となり、最後は高らかな哄笑となった。
「お父さま」
少女が初めて伯爵を父と呼ぶ。
「参りました」
なおも、良い笑顔で笑いながら、ガラリオ伯爵がさっぱりとした表情を見せた。
「さすがに――ドッホエーベ荒野で、数億の敵と戦って勝利した黒の魔王の誓い、軽く扱うわけにはいきますまい」
一流の外交家だけあって、一般には公表されていない情報を知っているのはさすがだ。
「わたしも、長らく外交畑で嘘と謀略に塗れて暮らしてきた人間です。人の嘘を見抜く自信もある――あなたは嘘をついていないようだ」
伯爵は、もともと座っていた椅子に、ゆっくり歩いて戻り、崩れ落ちるように座りこんだ。
「仕方がありません。少しでもあなたの気持ちに揺らぎがあれば、あらゆる策を使って、娘を取り戻そうと思っていたのですが」
「お父さま……」
近づこうとする娘を、父は、まじまじと見る。
「しかし、不思議だ」
「な、なにがです」
「おまえのような、どれほど親しい友人に対しても、相手のあらゆる行動を数値評価して利害計算するような娘に――」
「わ、わたしは、決して」
少女は抗議するが、その声は力ない。
「おまえも、自分の性格はわかっているでしょう。わたしにはわかる。その点で、おまえはわたしそっくりだからね。愛情はある。優しさも。しかし、持って生まれた交渉能力がそれを凌駕してしまうんだね。考えるより先に相手を評価する――」
「そ、そんなことは」
「普通なら、おまえは他人と、まして男と暮らせる人間ではない――てっきり、もう嫌になって愛想をつかされていると思っていた。だから、わたしが水を向けたら、渡りに船と、おまえを返してくれるのではないかと考えたのだが」
伯爵はアキオを見る。
「どうやら違ったようです。あなたが娘に騙されているとは思えない。そして、この子は、持って生まれたその能力ゆえ騙されることがない、ということは――わたしには理解できない、相思相愛というものなのでしょう」
少女が、アキオの腕をきつく抱きしめる。
ガラリオ伯爵は、笑顔を見せると続けた。
「安心しなさい。この国の外交は、あとしばらくわたしが担おう」
ミストラの表情が硬くなる。
「それは、クルコスが物心つくまで、ということではありませんね。それはダメです。あの子には、わたしと違って、ちゃんとした少年時代を送らせてやりたいのです」
「ま、まあ、それについては、3人でよく話し合おう。もうすぐ学校からあの子が戻ってくるはずだ」
「クルコスを寄宿学校から呼び戻したのですか」
「この機会を逃すと、あの子も、しばらくおまえに会うことができないかもしれないからね」
少女は父親を見つめる。
「あの子を使って、何かをしようとされていましたね」
「は、は、は」
整った顔に汗を浮かべた伯爵が乾いた笑いを上げる。
「見ましたか、アキオ、こういう人なのです」
「いやいや、いくつか計画を立てていたのは確かだが――もう諦めたよ。本当だ」
その時、激しく扉をノックする音が響いた。
「入りなさい」
伯爵が応えると、ドアが勢いよく開いて、先ほどの執事が入って来た。
「何事です。お客さまが来ておられるのに」
「申し訳ありません」
執事は、そう言いながら足早に主のもとに近づくと、耳元で囁いた。
「先ほどマーグスが帰ってきました。独りで」
「どういうことです」
「お屋敷に戻られる途中で、馬車が襲われ、クルコスさまが誘拐されたそうです」
「なんですって!」
ナノ強化された聴力で、それを聞き取った少女が叫ぶ。
「クルコスが攫われたのですか」
「そのようだ」
伯爵が、秀麗な顔を険しくする。
「金が目当てか、復讐か」
アキオが静かに尋ねる。
「おそらくは――報復でしょう」
「犯人の見当はつくか」
伯爵は彼を見た。
「怪しいのは3人です」
「この街にいるのか」
「そのはずです」
「可能性の高い順に、そいつらの居場所を教えてくれ」
「どうされるのです」
伯爵が尋ねる。
アキオは、彼の腕につかまる少女の頬に手を触れた。
「いま、君は心配そうな顔をしている」
「アキオ」
「その原因を取り除こう」
「わかりました。わたしも一緒にいきます」
彼は、ほんの少しだけ考えて、言った
「いこう」
伯爵から、今現在敵対している2つの商家と1つの子爵の所在地の説明を受け、アキオは部屋を出て行く。
あとに続く少女は、戸口で伯爵を振り返った。
やわらかな笑顔で告げる。
「お父さま、さっきの話ですけど――わたしは、アキオのことを評価したことはありません。できないのです。ヌースクラムで共に暮らす人たちも全員できません。おそらく、皆それぞれにわたしの能力を超えておられるからでしょう。考えてみれば、それだからこそ、お城での生活が楽しいのです」