374.訪問
「ありがとう」
アキオの胸に頭を預け、飽かず、幻想的に花の舞い散る光景を見ていた少女がつぶやく。
「なぜ、礼をいう」
少女は透明な笑顔を見せ、
「なぜでしょう。ただ、なんとなく――」
その時、遥かな山の端から姿を現した太陽が、水上で風に流される花筏に二人の長い影を落とした。
ミストラは、ふと我に返り、
「さあ、屋敷はすぐ近くです。いきましょう」
彼の手を引いて歩き出す。
「アキオは、サンクトレイカの政変について、どのくらい知っていますか」
しばらく歩いて彼女が尋ねる。
「だいたいは――ユスラから聞いた」
「彼女自身から聞いたのですか」
少女は黙り、
「ユスラは自分の手柄を誇りません。ましてアキオには言わないでしょう――それはもう素晴らしい手腕だったのですよ。彼女の戦術の才能は、戦いの場のみで発揮されるものではありません」
「そうだな」
縮小版のカヅマ・タワーRタイプの建設と並行して行われたユスラの政治的な策略は、精緻を極めたものであったらしい。
封印の氷の戦いのすぐ後に、女王ルミレシアが退位を表明し、王不在の中、サンクトレイカの政変が始まったのだ。
「わたしの大叔父に、ロベルタ公爵という人物がおられるのですが――」
アキオは、ユスラの言葉を思い出す。
「高齢を理由に田舎で隠棲されていたのを、なんとか説得して政界に復帰していただき、表向きその方が中心となって王国改革は行われたのです」
王国内の実力者による政治改革――そうでなければ、わずか数カ月で、目立った争いもなく、王家と血のつながりのない一介の英雄が王に成り代わるはずがない。
国を一瞬で変える魔法など、この世に存在しないのだ。
「君とヴァイユも活躍したと聞いた」
少女が真っ赤になる。
「ど、どなたからですか」
「メデとシミュラだ」
「ああ……」
ミストラが天を仰いで、顔に手を当てる。
「あなたには、知られたくありませんでした」
高位の貴族、あるいは国の有力な大商家に対する説得で、もっとも功を奏したのは、ナノクラフトによる難病の根治、あるいは、若干の若返りであったらしい。
大陸全土の人々に入ったナノ・マシンの効果は、僅かなものだ。
手足は再生しないし、重病は治らない。
若返りの効果もない。
だが、彼女たちが使うナノクラフトは完璧だ。
脳さえ無事ならば、肉体は完全な健康体になる。
それを少女たちは取引の材料として使ったのだ。
効果は絶大だった。
頑迷固陋な大貴族でさえ、愛する孫娘の難病快癒のためには改革案を容認した。
件のロベルタ公爵も、高齢で寝たままの状態であったのを、密かに10年若返らせて政治改革に復帰させたらしい。
この世界の医療技術は、まだまだ発展途上だ。
貴族とはいえ、自分自身あるいは家族の健康に問題を抱える者は多い。
妻を治し、夫を治療し、息子を健康にすることで、彼女たちは血を流さずに国を変えてしまった。
それでも――少女が肩を落として言う。
「わたしは、人の愛情を利用したのです」
「なんの問題もない」
アキオが断言する。
「俺なら、敵は全員殺していただろう」
「ありがとうアキオ。優しいのですね」
実務作業は、ロベルタ公爵の陰で、すべて三人の少女が連携して行った。
ユスラが政治面から、ヴァイユが金銭面で、ミストラが外交的に圧力をかけ、権力の中枢にあって、前女王の庇護を受け、商家と癒着して私腹を肥やしていた高位貴族たちは、すべて弱小辺境伯として、地方へ追いやられた。
地球における辺境伯は、国境の防衛軍の長を兼ねた力のある高位貴族を指すことが多いが、アラント大陸の辺境伯とは、その名の通り、辺境に転封、所領替えされた弱小貴族を意味する――
「君の家は無事だったんだな」
「はい」
歩きながら少女は、仇のようにアキオの腕を絞り上げ、
「弟には申し訳ありませんが、わたしは、この機会にガラリオ家の不正の尻尾をつかんで、辺境に飛ばそうとしたのです――あ、すみません」
少女はアキオの腕にかける力を緩め、
「ですが、腹立たしいことに、あの人は外交家としても政治家としても優秀でした。長く王家に仕え、西の国と濃厚な交渉をしながらも、清廉潔白な貴族としての痕跡しか残していませんでした」
そう言ってから、彼女を見つめるアキオの顔を見て少女は笑い、
「もちろん、冗談ですよ――しかし、あの人がなかなかの策略家であるのは事実です」
少女が立ち止まった。
彼らの正面には、巨大な鉄扉があり、左右には背の高い鉄柵が延々と続いている。
「さあ、着きました。ガラリオ伯爵邸です」
「君の家だろう」
「違います」
少女がにこやかに言う。
「わたしの家は、ジーナ城だけです。生まれたのは、サンクトレイカですが、死ぬのはヌースクアムと決めていますから」
アキオは少女の頭を軽く叩き、
「君は死なない」
「はい」
少女の来訪に気づいた門衛が、詰所から走り出て巨大な鉄扉を開ける。
「お帰りなさいませ、お嬢さま」
「ありがとう、ジョシュ」
門を通って、屋敷に向かう。
重厚な扉が開いて、初老の黒服の男が歩いてきた。
執事らしい。
「お嬢さま」
「元気そうですね、ロワズ」
「はい」
「あの人は起きていますか」
「もちろんですとも。朝早くからお待ちです、どうぞ、こちらへ」
先導する男について、屋敷内に入る。
広間を通り、広い廊下を歩き――
「お入りください、伯爵さまがお待ちです」
開けられた扉を通って、室内に入った。
そこは、ガラリオ伯爵の執務室だった。
少なくとも、客を接待する部屋ではない。
三方の壁には巨大な書架が設えられ、ぎっしりと本が詰まっている。
その前には重厚な木製の机が置かれ、椅子には爽やかな風貌の男が座っていた。
書類に目を通している。
ミストラと同じ髪と瞳の色、ガラリオ伯爵だろう。
「旦那さま」
執事の言葉に顔を上げると、男はさっと立ち上がって、二人に向かって長身を運ぶ。
「元気にしていましたか、ミストラ」
伯爵は、にこやかに娘に話しかけた。