373.梅桃
いつものように、セイテンを首都郊外の草原に着陸させたため、歩いて街門を目指す。
「なぜ、目的地を君の屋敷内の庭園にしなかった」
アキオが尋ねる。
今回、到着地点の設定はミストラが行った。
隠密行動が必要な作戦ではなく、目的地がガラリオ伯爵邸と分かっているのであるから、直接、敷地内に着陸した方が効率的なはずだ。
「あら」
ミストラは、ちょっとだけ肩をすくめて可愛く笑う。
「そんなことをしたら、わたしだけ、あれをしてもらえないではないですか」
そう言って、朝霧に、わずかに霞む街壁を指さした。
アキオの表情を見て吹き出すと、
「冗談です。早朝とはいえ、もう夜は明けていますから、奇妙な箱が王都に飛んできた、という噂を立てたくなかったのですよ」
少女はアキオの腕を締め上げて、胸に当たるようにする。
「でも、ちゃんと、わたしも抱いて壁を越えてくださいね」
もちろん、アキオは彼女の言う通りにした。
「懐かしいです。王都はあまり変わっていませんね」
路地を抜け、目抜き通りに出た少女が嬉しそうにつぶやいた。
長い栗色の髪が風に揺れる。
アキオはうなずくが、前回、彼が王都に来たのは、封印の氷戦の前に、各地を回って情報を仕入れるためだったので、景色などあまり見てはいなかった。
「残念です。王都の三日市に来られなくて」
朝陽を浴びるシルバラッドの目抜き通りは美しく整備され、通り沿いに綺麗に並んだ店舗の数々が、今、まさに店を開けようとしている。
そこには、雑然とした市の雰囲気はなく、王都らしい整然とした美しさがあった。
「今度、ノランにいわなければなりませんね。街は美しいだけではダメだと。市は街の活性化に不可欠です。せめて月に二回は行わなければ」
「君はノランと親しいのか」
アキオの意外そうな声に、少女が笑顔になる。
「珍しくアキオを驚かすことができました」
そういって、どん、と彼に身体をぶつける。
実際には体格差があるので、アキオの身体は小動もしない。
「戦後、ノランに――シミュラさま仰るところの――サンクトレイカを押しつけた際、彼が、国の動かし方の概要を知りたいといったので、ユスラに頼まれて、ヴァイユとわたしで、外交と貿易について教えたのです」
ゆっくり歩きながら、少女が言う。
「理解したのか」
「良くも悪くも彼は騎士で、なかなか本気で学習してくれませんでした。どうしようかと相談していると、それを聞きつけたキィがやって来てくれて――」
少女は苦笑し、
「言葉通りに、怒鳴りつけてくれて、それ以来、講義は聞くようになったのですが」
「補助が必要、か」
「はい。ですが、それは大丈夫です。もう彼にはしっかりとした支えがいますから」
「シェリルだな」
彼の言葉に、ミストラは驚き、
「あら、良くご存じですね。あのオレンジの瞳の綺麗な女の子です」
「女の子……大人に見えたが」
「実は、まだ15歳なんです。頭も良いですし、性格は冷静で落ち着いて、まるでピアノかカマラみたいな感じですけど。実際の中身は、ふたり同様、炎みたいな性格で――わたしもヴァイユも、すぐに好きになってしまいました」
少女は、何かを思い出したように笑う。
いろいろあったのだろう。
「そんなわけで、実務関係は、全部彼女に教えたのです」
「そうか」
しばらくして、思いついたように彼が尋ねる。
「彼女の母親はどうなった」
「アイリンですね。無事です。でも、まだ完全に回復はしていません」
「何が悪い」
あれから3か月経つ。
熱と材料を適切に与えたナノ・マシンを使えば、首から身体全体を再生するのに2日あれば充分なはずだ。
彼のように、全身の細胞が疲弊していれば別だが――
「浮遊回路の一部として、強制的に魔法を使わされていたため、脳へのダメージが大きかったそうです。特に、彼女はジュノス体に近い遺伝子構造のため、通常のナノ・マシンでは対応できにくいとサフランが……」
「彼女が診ているのか」
「はい」
「だったら問題はないだろう」
「ずいぶん信頼されているのですね」
「君は」
「はい?」
立ち止ったミストラが、大きな目で彼を見上げる。
「信用できないか、彼女を」
「わかりません。理由は仰いませんが、アルメデさまが、あれほど嫌われるのであれば、それに値するだけの何かあるのだと――アキオは理由を聞いているのでしょう」
「いや、だが、だいたい予想はついている」
「教えてくれませんか」
「まだ憶測だ。今度ふたりになった時に確かめる」
以後、会話が途切れる。
先ほどまで、かすかに漂っていた朝霧は、太陽の光で消えてしまった。
朝陽の中、少女はアキオに寄り添って通りを歩いていく。
「屋敷まで、もうすぐです。その前に――あっ」
何かを言いかけたミストラが、口に手を当てて、立ち止まる。
アキオは少女の視線の先を見る。
通りの両側に続いていた街並みが途切れ、そこから大きな池が見えていた。
池の周りには数多くの木が植えられていて、それがいま満開の時期を迎えているようだった。
ユスラウメだ。
「フリュラの花が咲いています。3か月も早く――今の時期にこんなことがあるなんて」
「グレイ・グーの影響だろう」
「ああ」
少女が涙ぐんで彼の腕にしがみつく。
「どうした」
「ずっと長い間、アキオと――この景色を見たかったのです」
気の利いた言葉を探すが、出てこないので、彼は言った。
「そうか」
「これはフリュラです。エストラ語でフリュル。地球でいうユスラウメに似た木ですね。サンクトレイカ王族の髪色に似ているので、120年ほど前に植樹されたと聞いています。ユスラは、シュテラ・ナマドに立つ巨大英雄像と同じく、この池の周りの木も嫌いだそうですが――わたしは、子供の頃から、このフリュラ満開の景色が大好きなんです」
早朝特有の柔らかな風が吹くたび、花びらが水面に散っていく。
その様子は、薄桃色の雪が舞うようだ。
「さあ、アキオ、早く」
少女が水際まで走って行き、こちらを振り向いて招いた。
ミストラの髪にも、舞い散るフリュラの花びらが積もっていく。
その笑顔に、かつて紙祭りで見た彼女の表情が重なり――アキオは目を閉じて、この景色を忘れないように、記憶に留めるのだった。