372.伯爵
「申し訳ありません。こんなに早く出発してしまって」
王都シルバラッドを目指して空を飛ぶセイテンの中で、アキオに抱きつきながら少女が詫びる。
「構わないさ、だが」
「ええ」
ミストラは微笑みを浮かべ、
「ヨスルとシミュラさまには申し訳ないことをしてしまいました」
夜明け前に、彼女がアキオを呼びに部屋に行くと、昨夜、添い寝の番であったヨスルが驚いた顔で彼女を迎えたのだった。
「でも――」
「なんだ」
「彼女があんな服を来て寝ているなんて、思いもよりませんでした。わたしは、おふたりと一緒に眠ったことがありませんでしたから」
少女は、ヨスルの、要所要所をわずかに隠す布面積の少ない服を思い出して言う。
「彼女はいつもあんな感じだ」
「服を来て眠るのはヨスルだけですか」
「そうだ」
「ヴァイユやユイノさんも、恥ずかしがり屋なのに寝るときは裸ですものね」
その理由はわかる。
みんな、少しでも大きい面積で、直接アキオの肌に触れて眠りたいのだ。
「アキオは――どちらに興奮しますか」
少女の質問に、しばらく考えてから、
「それはわからないが、どちらも可愛い」
「最近、アキオは、可愛いという言葉をよく使いますね」
と、利発な少女は、なかなか痛いところを衝いてくる。
言葉のアドバイスをしてくれていたミーナがいなくなったので、以前に、いくつか覚えた誉め言葉を定期的に使うようにしているのだが、見抜かれているようだ。
ミストラはしばらく黙るが、
「シミュラさまは、いつもああなのですか」
「そうだ」
彼女が部屋に入っても眠ったままのシミュラの寝相は、もっとすごかった。
アキオの身体半分は、ヨスルのために空けているものの、残り半分のほぼ全て、手と足には自分の手足を伸ばして巻き付かせ、胸はきっちりアキオに押し当てつつ、首筋に唇を当てるように眠っているのだ。
ヌースクアム密着度選手権があれば、たぶん彼女が一位だろう。
「ミストラ」
「はい」
「君の父親との用件が済んだら、どこに行く」
「シュテラ・イコス!」
間髪を入れずに答えて、少女は笑う。
「すみません、はしたないですね。でも、行くならシュテラ・イコスが良いです」
「行ったことはあるのか」
「はい。西の国との会議があった時に。サンクトレイカ北部の街なのですが、アエラムスで有名なんです。その時は、行って帰るだけだったので見学はできなかったのですが」
「鍾乳洞か」
彼も南サイベリア戦線で、旧東アジアの巨大鍾乳洞を通って敵基地を攻撃したことがある。
その時は、雨期による急な増水で、激しい水流に抗って、水中トンネルを80メートルほど進まなければならず、多くの友軍を失ったのだった。
よって、鍾乳洞には、あまり良い思い出はないが、ミストラが行きたいというなら、もちろん彼に異論はない。
「弟がいたんだな」
アキオは尋ねる。
「十歳以上離れている上、わたしは仕事で国を離れることも多かったので、あまり接点はないのです。名をクルコスといいます」
うなずく代わりに、アキオは少女の背を撫でた。
「君のあとは継げそうか」
「はい、利発な子です。ただ、あの子は性格が素直すぎます――わたしや父と違って」
「君は素直だ、そして優しい」
少女は甘く微笑んで彼の胸に頬を当てる。
「ありがとう、アキオ。そう思ってもらえるのは嬉しいのですが、わたしは、本当は計算ずくの嫌な人間なのですよ」
つと、顔を上げて彼の眼を見た。
「そうでなければ国家外交など扱えませんから」
言い切って、ミストラは口を閉じる。
しばらくして、アキオが言った。
「俺は、君たちを殺しそうに見えるか」
はっとして、少女は恋人の顔を見上げる。
「そんなことは絶対ありません」
聡い少女は気づいた。
これまでの長い半生を闘いの中で過ごし、多くの命を奪ってきた自分は、誰かれなく人を殺める殺人鬼か、と彼は問うているのだ。
そんなことは絶対にない。
確かに、アキオは人を殺すことはできる。
彼が、殺そうと思って殺せない者などいないだろう。
だが、殺せることと、実際に殺すことはまったく別だ。
アキオの本質は優しさだ。
この点において、ヌースクアムの少女たちの考えは一致している。
だが、薬物による感性と感覚麻痺による方向づけと、訓練による習い性、すぐれた適性によって彼は殺人機械にされてしまった。
その後、強制的に送り込まれた過酷な戦場が、さらにその技術に磨きをかけ――
かつてのミーナの言葉が彼女の耳に蘇る。
〈わたしは、彼が愛おしい、あれほどの血の海に放り込まれ、血に塗れてその中を泳ぎ抜きながら、同時に、少しも血に染まっていない魂を持つ彼が……〉
その言葉の意味することは、そして今の彼の言葉の意味は――
適性と訓練、そして経験によって、人を出し抜き、欺く技術は持っていても、君の本質は素直で優しい、とアキオは言ってくれているのだ。
たくさんの言葉がミストラの口からあふれそうになるが、そのどれもが、彼女の気持ちを言い表しきれていないように思えて、結局、彼女は言った。
「ありがとうアキオ」
しばらく、少女は、恋人の胸の鼓動を聞いていたが、
「君の父親はどういう男だ」
胸から響いた彼の声で顔を上げる。
「昨夜もいいましたが、無責任な人です」
「感情を除いて教えてくれ」
「はい」
少女はすこし頬を赤らめると、
「ヴォルク・スタルク・ガラリオ、年齢は43歳、健康、妻は6年前に病死、現在、独身、子供は2人、外交の才あり、趣味は演劇の鑑賞、後援。性格は――」
少女は言葉を切り、
「快活、享楽的、打算的」
「享楽的、とは」
「すみません、言葉が足りませんでした。お酒やその他の嗜好品はたしなむ程度、賭け事はつきあいでしかやりません」
「それで享楽的か」
「ただ、その――女性に対して、信じられないほどだらしないのです。あの人の周りには、つねに女性がいます。中には夫のある方さえも。不条理にも、ガラリオ伯爵は女性好みの見栄えなのです」
アキオは苦笑する。
女性好みの見栄え、というのはともかく、この世界に来てから、彼の周りは少女だらけだ。
恋人の顔を見つめながら話していたミストラは、彼の考えに気づいたのか、
「あなたとは、まったく違います」
そう言って、思いつめたような表情で続ける。
「仕事と恋愛は完全に分けることができる人なので、その点では、わたしは伯爵を嫌ってはおりません。ですが、そんな伯爵とご婦人方を見て育ちましたので、わたしは、生涯ただ一人の方に、この身を捧げて愛したいと思っていたのですが、ご存じのように――」
ミストラは、きつく抱きしめられて言葉を止める。
しばらくそのまま、心地よい抱擁に包まれていると、
「では、出かけようか」
そういって、アキオがセイテン改の蓋を開けた。
早朝のため、平原の朝霧が入り込んでくる。
「いつのまに着陸したのです」
目を見張る少女にアキオは微笑んだ。
「シジマの技術には驚かされるな」
彼は、身を起こすと、少女の身体を抱き上げて地面に下ろした。
ミストラは、ユイノのように文句を言わない。
少女が辺りを見回した。
「美しいですね」
登ったばかりの朝日はまだ弱く、消え去らずに残った朝霧が幻想的な風景を浮かび上がらせている。
アキオがセイテンに偽装を施し、歩き始めると、少女は後ろから走り寄って腕に抱きついた。
美しい薄赤褐色のコートの裾を揺らして共に歩いていく。
「嬉しそうだ」
「はい、伯爵に会うのは億劫ですが、早々に切り上げて、ふたりでシュテラ・イコスに行くと思うと気持ちが明るくなります」
「話はすぐに終わる」
だが、その予定は大きく狂い、思いもかけない形で、彼女たちは鍾乳洞へ赴くことになるのだった。