362.気配
ナノ・コートを身にまとい、小さくまとめられた装備をアサルト・パックの形で背負ったユイノが庭園に戻ると、皆がザルドと馬車に乗り込むところだった。
アキオが、用意されたザルドに乗ろうとすると、
「今日は、馬車に乗って行きたいんだ。いいかい」
ユイノがそれを遮って、5台並んだ馬車に連れていく。
引いているのは穏やかな表情のケルビだ。
「あんたは昨夜も、ソレタナからザルドに乗って帰ってきたんだろう。ソニャとふたりで」
「ザバドも積んでいた」
「それは荷物さ」
アキオは、彼女に手を引かれるままに、王とシャロル、彼女と手をつないだソニャ、そして騎士の装備のままのイワーナが乗り込む馬車に乗せられる。
大きく豪華な装備の馬車は、前後3人ずつが向かい合わせにゆったり座る構造だった。
後ろの席では、前向きにシャルラ王が左端の窓際に座り、その横にシャロルに無理やり押される形でイワーナが腰を下ろし、反対の窓際に少女が座る。
向かい合った後ろ向きの席には、ユイノによって真ん中にアキオ、右手にソニャが座らされ、シャロルの向かいにユイノが腰かける。
「わ、わたしは、騎乗して、あなたさまをお守りしようと――」
シャルラ王に対して、しきりに恐縮するイワーナの腕に、シャロルが手をかける。
「馬に乗られているあなたを見られて、父上が、馬車にお連れするように申されたのです」
「え」
驚くイワーナに、王が優しく声を掛ける。
「そうです。あなたには、わたしの傍に居て欲しいのです。嫌ですか」
「と、とんでもありません」
王は、どんな形であれ、イワーナを危険な目にあわせたくないのだ。
その微笑ましい光景を見ながら、ユイノは内心つぶやく。
あたしもバカだねぇ。
あのまま、ふたりでザルドに乗ればよかったのに。
でも、あの子の真摯で、純粋な気持ちを知ってしまったら、こうするより他ないじゃないか――
ユイノは、隣に座るアキオを見た。
彼女の愛する男は、髪を元の色に戻し、漆黒のナノ・コートにゆったりと身を包んで、自室でくつろいでいるように見える。
つまり、戦闘時以外のいつもの彼の姿だ。
アキオは、いつだってこうだ。
「出します」
御者から声がかかって、馬車が走り始める。
こうして、馬車とザルドに分乗した、護衛を含めた総勢50名の視察団は、メルク宰相やメルメードフ伯爵夫人たちに見送られて城を後にするのだった。
走り始めてしばらくすると、
「さすがに、王室御用達の馬車だねぇ」
ユイノがアキオに囁く。
贅を尽くした作りだけあって、ほとんど振動を感じない。
最新のナノ・サスペンションを搭載した、ヌースクアムの馬車以外で、これほど静かな馬車は初めてだった。
「ユイノさま、わたしは、その塔を見るのは今日が初めてなのですが――」
向かいに座ったシャロルが話しかけてくる。
彼女は、少女との会話を続けながら、アキオの横に座らせたソニャの様子が気にかかっていた。
せっかく、彼と話ができるようにお膳立てをしたのに、ずいぶん長く、ふたりは黙って座っているだけなのだ。
舞姫は、シャロルとの会話を続けながら、まず自分の側の窓の景色を覗き、反対側の窓に目をやる素振りで少し前かがみになって、アキオの隣に座って身体を固くするソニャを見た。
せめて、今日の午後一杯だけでも、この子に良い思い出を与えてやりたいねぇ。
彼女はそっと恋人の手を握った。
〈アキオ、ソニャに話しかけて〉
〈何を〉
〈何でもいいんだよ――好きなこととか〉
彼はうなずき、少女の方を向いて、
「ソニャ」
「はい」
ぱっと、花が咲くように表情を明るくした少女が答える。
「奴らにつかまる前、君はいつも屋敷内にいたと聞いた」
「はい。わたしが姿を見せない方が、メルメードフ家はうまく回りましたから」
――昔のつらい記憶を思い出させてどうするんだい。
ユイノが指話で止めるより早く、アキオが続ける。
「何をしていた」
「はい――ご本を読んでいました」
「どんな本だ」
「旅行の記録や、他の国、サンクトレイカや西の国について書かれたものが好きでした」
そういって、ユイノの知らない題名の本をいくつか挙げ、
「でも……アキオさまには正直にお話します」
彼はうなずく。
「いちばん好きなのは物語でした。冒険のお話や――」
少女は少し言い淀み、
「殿方とご婦人の……恋のお話などを読んでおりました――生涯、縁のないものと考えておりましたけれど」
「そうか――」
言いかけて、彼は何かを思い出したように、
「だが、エストラには少ないだろう」
その手の本は、この国にはあまり出回っていないのではないか、そう彼は尋ねたのだ。
シミュラにでも聞いていたのかもしれない。
「は、はい、よくご存じですね。確かに、あまり、その手の本はございませんでした。ですから――」
言いかけて、はっとした顔になったソニャは口をつぐむ。
アキオは、何も言わず少女の顔を見た。
ソニャは、しばらく黙っていたが、やがて首筋に僅かに朱を注いで、
「アキオさまは意地悪です」
そう言うと、諦めたように続ける。
「自分でお話を作って書いていました」
彼は軽くうなずく。
「本当にお恥ずかしいのですが――目を閉じて空想の羽をひろげれば、どんな場所にでも出かけられ、どんな容姿にでもなれ……どんな素敵な殿方とも恋の語らいを――」
少女の言葉が止まる。
アキオが彼女の顎に手を触れたからだ。
「今はどうだ」
「――」
「どこにでも行けるな」
「はい――はい、どこにでも行けます」
「今度、読み聞かせてくれ」
ユイノが眼をしばたたかせる。
アキオの知る物語の多くは、彼女の朗読によるものだ。
つまり、彼は、彼女と同じことをソニャに要望したことになる――
「え、え、それは――」
「君の創る話だ。きっと――美しい、人間的な話だろう」
〈ユイノ〉
アキオは、ソニャへの言葉と同時に反対の手で舞姫の手を握って呼びかける。
〈なんだい〉
〈カヅマ・タワーまでの距離と馬車の速度から、あと5分ほどで目的地だ〉
〈そうだね〉
〈だが、外の気配が少しおかしい〉
「シャルラ王」
指話による短い打ち合わせの後でユイノが声を掛ける。
「ちょっと気になることがあるので、あたしとアキオは外に出ます。念のために。イワーナさま、あなたは車内で王と姫さまをお守りください」
立ち上がろうとする女剣士を制して、ユイノは扉を開け、屋根に手を掛けると、軽く反転して静かに馬車の上に降り立った。
アキオがそれに続き、宙を舞うと同時に扉を閉める。
「何があるんだい」
ユイノがアキオに囁いた。
馬車は、何事もないように穏やかな景色の中を進んでいる。
「まだ、わからない――が」
ユイノが左右を見渡し答える。
「ああ、本当だ。確かに、なんだか妙な感じがするね。なぜか、あたしにもわかるよ」
「君にもわかる。おそらく、それが答えだ」
「それは――」
「あれがカヅマ・タワーか」
アキオが馬車の屋根から空を見上げてつぶやく。
その視線の先には、巨大で変わった形の鉄塔が聳え立っていた。