036.毒手
今回の話は、一部グロテスクな描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
アキオとラピィの馬車は進む。
すでに日は暮れ、巨大な3つの月が、中天にかかろうとしていた。
文箱は2日後に渡せと指定されているため、特に急ぐ必要はないのだが、早くに馬車を停めても寝るだけなので、とりあえずシュテラ・ミルドへの道を進めているのだ。
アキオは、御者台に置いた布袋を見る。
シュテラ・ミルドへの出発を承諾した際にダンクから渡された運搬料だ。
ヴァイユたちを連れ戻った礼金も入っているらしい。
初めて見る、かさばらないピント銀貨、素材はやはりプラチナだった、と、使い勝手のよいブライとスタン貨幣はユイノに渡し、残りの金をアキオが受け取った。
案の定、ユイノが受け取るのを嫌がったので、出がけにこっそり彼女の袋に忍ばせておいた。
盗賊の金はアキオがもらう。
袋の横には豪華な文箱が置かれている。
特に、収納庫にはしまっていない。
もともとが、アキオを少女たちから引き離すための口実のようなものだから、大切な文書などが入っていないだろう。
アキオはそのつもりで、適当に扱っている。
娘から離す――
馬車に揺られながら、改めて考えてみると、どうもミストラとヴァイユの態度がおかしく思えてくる。
昨夜、少し風呂で話したのと、今朝から昼まで共に行動しただけなので、お世辞にもよく知っているとは言えないが、少女たちが、あれほどあからさまにアキオへの執着を表に出す性格とは思えないのだ。
アキオの脳裏に真紅の髪が浮かぶ。
(まさかユイノが……)
疑念が浮かんでくるが、頭をふってそれを打ち消す。
いくらユイノでも、そこまでのお節介は焼かないだろう。
その時、アキオは道の先に、月明りに浮かぶ人影を見た。
線の細さから、子供か少女のように見える。
馬車の進行方向と同じ向き、シュテラ・ミルドに向けて歩いている。
速度が遅く、歩行のリズムが悪いのは杖をついているからだ。
ラピィの方が早いため、速度差から馬車は徐々に人影に近づく。
服装から見て、どうやら若い女のようだ。
防寒のためか灰色のフードを目深にかぶっている。
こんな夜更けに女がひとりで夜道を歩くのは妙だ。
当然アキオも警戒する。
ラピィが、女の横を通り過ぎようとした時、女がよろめき、倒れた。
そのまま進むと、車輪で轢いてしまいそうなので、仕方なくアキオは馬車を停める。
御者台から降りると女に近づいた。
月が雲に隠れてあたりが暗くなる。
「おい」
声をかけたとたん、女が跳ね上がった。
同時に、杖をアキオに向けて横なぎに振り払う。
自分に向かう銀の筋をアキオは見た。
上体を逸らして避ける。
どうやら、杖は仕込みだったようだ。
(この世界でも仕込み杖があるのか――)
人を殺す方法は、世界が違えども変わりがないようだ、とアキオは苦笑する。
余裕をもって避けたつもりだったが、案外、女の太刀筋は素早く、少しだけ胸を斬られた。
いろいろあって、ナノ・マシンをまだ再充填していないナノ・コートは、ただの刃に簡単に引き裂かれる。
アキオは切られた胸が少しひんやりするのを感じた。
アーム・バンドを見なくてもわかる。切られた部分から入り込んだ何かにナノ・マシンが対処する感触だ。
おそらく毒物だろう。
その時になって、アキオは、フードの下の女の顔が、布で覆われてほとんど見えないことに気づいた。
月はまだ雲に隠れているが、声をかける前に暗視強化していたアキオの目には、女が左目だけ出して、あとは布で隠しているのがはっきり見える。
女が、二の太刀、三の太刀と切り込んできた。
始めに感じたように、女の技量は相当なもので、それぞれが並々ならぬ必殺の威力を秘めている。
おまけに、先ほどの感じから刃には毒が塗られているようだ。
つまり、この女は金目当ての強盗などではなく、明確に彼の命を狙っている暗殺者だ。
アキオは、キイの短剣を使おうとシースに手を伸ばしたが、思い直して、コートの内側に隠した細く短い鉄の棒を取り出した。
一振りすると、2倍の長さに伸びる。
持ち運びしやすく加工した避雷器改だ。
アキオは伸ばした避雷器を女の剣に突き出すと、素早く巻き込んだ。
回転の速さに負けて、女の武器が避雷器に巻き込まれ跳ね飛ばされる。
「誰に頼まれた」
とりあえず、聞くべきことを聞いてみる。
まずは、誰に狙われたかが知りたい。
まさか、ダンクではないと思うが、確信は持てない。この世界で、彼が満足に関わったのは、ダンクぐらいだからだ。
女は黙ったままだ。
流れるような手つきで懐に手をやって横に振る。
暗闇に銀の糸が流れるのが見えた。長い針だ。おそらくは毒が塗ってある。
毒針ごとき、逃げる必要もないが反射的に避雷器ではじく。
前方で、ため息のような声が聞こえた。
ラピィの声だ。
見ると、彼女の足の付け根、毛のない部分に針が突き刺さり、その周りが変色し始めていた。
一瞬、アキオの姿が消えて女の前に移動し、暗殺者は数メートル吹っ飛ばされた。
ラピィに毒を撃ち込まれたのを知って、冷静さを失ったアキオが全力を出してしまったのだ。
最後の女の腹への一撃は、かろうじて手加減することができた。
吹っ飛んで、地面に平たくなる女を無視して、アキオはラピィに走り寄る。
針を抜き、ナノ・ナイフを取り出すと自身の手首を裂いて傷口に血をかけた。
彼女の強さに甘えて、今までナノ・マシンを渡していなかったことを申し訳なく思う。
アーム・バンドを操作すると、ただちにラピィの変色はなくなった。
そのまま御者台に乗って立ち去ろうかと思ったが、もう一度だけ、依頼主を聞くことにして、女に近づく。
その時、雲に隠れていた月が顔をのぞかせ、あたりが明るくなった。
女の身体が浮かびあがる。
顔の周りが血だらけだった。
左目を除いて布でくるんだ顔の、口のあたりから激しく吐血しているようだ。
フードからは、灰色の髪が覗いている。
「それほど強くは殴らなかったはずだが?」
アキオがつぶやく。
「よく……いうわね。こんなに強く殴られたのは子供の時以来……」
女がしわがれた声を出した。
「手当てをしてやるから、誰に頼まれたかを言え」
アキオの言葉に、女は、ごふ、と血を吐き、
「いわない。どうせ死ぬ身……よ」
聞き取りにくい声で言う。
「俺なら助けられる」
「本当に?じゃ、誰に頼まれたか言うから……こっちへ来て」
アキオが近づくと、女が思いもかけない速さで手刀を繰り出した。
アキオの手を切り裂く。
「は、は、これであなたもおしまい……ね」
アキオは女の指の先が変色しているのを見た。
同時に、手が再び熱を奪われるのを感じる。
指の先に毒を纏わせる暗殺技術、いわゆる毒手というやつだろう。
傭兵時代、短期に要人警護をしたとき、知識として説明を受けたことがあるが、この世界には本当に存在するらしい。
「毒手か?聞いたことはあるが本物を見るのは初めてだな。残念だが俺には効かない」
「な、なんなの、あなたは?毒手が効かないなんて」
「いいから雇い主をいえ」
女は顔を背ける。
「やはり、いわない、か」
世界は違えど暗殺者の行動は同じようだ。仕事に失敗したら黙って死んでいく。
「は、早く……殺して……」
アキオはキイの短剣を抜こうとした。
今まで出会った女たちと違い、この暗殺者は明確な敵だ。
敵は躊躇なく殺す。
後悔は撃ってからしろ、が『戦争の犬』たる傭兵の合言葉だ。
だが――
アキオは短剣の柄から手を離し、立ち上がって女に背を向けた。
呼吸の具合から女が致命傷を受けていることを知ったからだ。放置すれば10分と持たないだろう。
「そ、そう、そのまま行ったらいいわ」
暗殺者が馬車に向かって去っていくアキオに囁くように言う。
「どうせすぐに死ぬ。わたしの体は腐って崩れてるんだもの。未来はない……」
アキオの足が止まった。
ゆっくりと振り向く。
今の女の言葉は、彼女に出会った時に、彼が言ったものとほぼ同じだ。
アキオは、女を少し見つめ、足早に近づいた。
愚かな行為だ。敵は敵に過ぎない。
だが――
「な……なに……早く……行って!」
アキオは女に向けて手を伸ばした。
今気づいたが、女はウサギのように赤い眼をしている。
暗殺者がアキオの腕を狙って、再び右手の爪を突き立てようとした。
懲りないことだ。
面倒になったアキオは、女の右手首の関節を外した。
左手の関節も外そうとする。
「ま、待って」
女が血を吹くゴボゴボという音とともに呻いた。
「な、何をするつもり?ご、拷問されても雇い主はいわない、わ」
「じっとしろ――治してやる」
女が笑いだした。
狂ったように笑う。
しまいに、血が喉に詰まったのか、呼吸困難になって、ぜえぜえと身をくねらせた。
「優しいわね、自分を殺しにきた相手に。でも、無駄よ、これを見て」
女が、まだ動く左手で顔を覆った布を取った。
女の顔が月夜に照らされる。
酷い状態だった。
鼻は崩れて無くなっていた。
右目は瞼が消えて、むき出しの水晶体は青白く濁っている。
唇は、ほぼなくなり、歯列がむき出しになっていた。
言葉が不明瞭なのは、これのせいらしい。
それらの造作が、さっき吐いた血にまみれて、なかなかの壮観だった。
無事なのは、布から出していた左目の周りだけだ。
「どう……これで助かると思ってるの。体はもっとひどいのよ」
「毒が身体に回ったか」
「そう……子供のころから毎日慣らしてたけど……もう何年も前から、こんな――」
アキオはうなずく。
女から漂う臭気で、彼女の体の様子はだいたいわかっていた。
さっきの胴体への衝撃で、弱っていた臓器が破壊されたのだろう。
「早く、殺して、早く……こんな体……生きていても仕方がない。毒で腐った――今まで誰にも触れられたことも見せたこともない。あなたが初めて。光栄に思って……ね。ただ……できれば、殺したあとで焼いてほしい、地上にこの醜いモノが残らないように――素手で他人に触れられない手も……」
女の自己憐憫に付き合うのが面倒になったアキオは、ポーチからナノ・マシンを取り出して、顔に振りかけようとして――
(だから、あたしは、あんたに任せたんだよ。アキオなら、あの娘たちに起こった悲劇を、虫に刺されでもしたかのように、受け流すだろうからね。心底、そう思っていないといけないんだ。気を使うとバレる。敏感になってるからね。あたしじゃ駄目なんだ)
今朝聞いたユイノの言葉が蘇る。
アキオは、女の赤い眼をみつめ、しばらく考えたあと短剣を抜いて、かつて青い髪の少女を前にしたように唇の内側に傷をつけた。
女の背に手を回し持ち上げる。
顔を近づけた。
「な!」
アキオの意図が分からないまま、不安を感じた女が驚き暴れる。
彼は残った女の左手首の関節を外した。
腕と足で暴れようとするので、さらに手足の関節も外す。
女はやっとおとなしくなった。
背に回した左手で女の上半身を起こし、むき出しの歯列に口づける。
右手は関節を外した女の左手をしっかりと握ってやる。指と指を組む恋人つなぎだ。
毒が手を侵食するが、そんなものは無視する。
赤い目をいっぱいに見開いた女がなかなか歯を開こうとしないので、顎の関節も外そうかと思ったが、その前に右目と鼻に口づけて、流れる血が女の肉体に入りこむようにした。
「よ、よして、いや。馬鹿。やめて。な、なんてことをするの」
女は顔を背けようとする。
「じっとしろ」
「いやだ、やめて。汚いから――」
「お前の顔は、身体は汚くなんかない。ただ少し不調なだけだ。それもすぐに治る」
頬を寄せたたままアキオが囁く。
女の抵抗がだんだん弱くなる。
「こうなってしまったんだ。せめて名前ぐらい教えたらどうだ」
アキオの言葉に、女は再び顔を背けて拒絶した。
「仕方ないな。しばらく寝ろ」
アキオがナノ・マシンを操作すると、暗殺者は眠りに落ちる。
毒で膿み崩れた肉体ごとき、治療するのに手間はかからない。
かつてのアキオのように放射線被爆していると、遺伝子修復も並行して行うので少し面倒だが。
アーム・バンドを操作して、身体が完全に回復した時点で目覚めるようにしておく。
女が深い眠りに落ちると、アキオは暗殺者の服をはぎ取って全裸にした。
月明りに照らされる女の裸体は、彼女自身が言っていたように、なかなか壮絶なものだった。
顔が崩れているので年齢はわからないが、体つきを見る限りかなり若いように見える。
アキオは、血膿で汚れた衣服を地面に残して女の裸体を抱き上げた。
それだけは痛んでいない、女の豊かな灰色の髪が川のように流れる。
馬車に運び込んで寝台に横たえた。
緊急衣料を着せて、首のボタンを押す。
圧搾音がして服が女の体に密着した。
キイやヴァイユたちに使った経験を生かして、午後の間に、この世界の服に似せて改良してある。
今では、近未来的な感じは消えて、そのまま普段着として使えるほどだった。
女の顔は急激に修復されつつあった。
黒紫色をしていた暗殺者の指先もピンク色に変わって行く。
(これからは、誰とでも触れ合えるな)
アキオは、ふと、かつて彼女が話してくれたミダース王の話を思い出した。
触れるものすべてが黄金に変わるように願った悲劇の王の話だ。
その結果、触れる食物すべてが金に変わり彼は飢え、あげく娘のマリーゴールドさえ黄金にしてしまった
この女も、あのままなら愛するものを殺さずその手に触れることはできなかっただろう。
アキオは、もう一度馬車から降りると、女の衣服や毒針など、目につく痕跡を処分しラピィの様子を見にいった。
彼女はすっかり元気になっっていた。
アキオは御者台に乗り、馬車をゆっくり歩ませる。
しばらく進んで、車の進行をラピィに任せるとアキオは工作室に入った。
キイの大剣の加工を始める。
3時間後、アキオは馬車を停めた。
少し森の中に入ったところまで進み、寝ることにする。
アーム・バンドのナノ・マシン・ログによると、暗殺者は1時間ほど前に目を覚まし、馬車を出て行ったようだ。
殺しに来た相手を治療して逃がしてやるなど、愚かな行為以外の何物でもないが、これまでも彼は成り行きで行動してきた。
今回はこういう成り行きだったのだから仕方ない。
そう思いながら、女を寝かせていた寝台のカーテンを開ける。
「バカだな――」
ふっとアキオは笑った。
カーテンには、指を傷つけたらしい血で、『ピアーノ』と書かれてあった。