357.どこにも存在しない場所、
「アキオ」
その夜、恋人に髪を撫でられながら眠りにつこうとしたユイノが囁いた。
彼の腕に触れて確かめる。
「傷は残ってないね」
封印の氷で傷ついた彼の身体は、一時、回復力を大幅に失っていたからだ。
「大丈夫だ」
「よかったよ――」
ユイノはアキオの胸に顔を預け、
「明日、シャルラ王たちは、午前中はレジオン退治の後始末で時間がつぶれるけど、昼からは予定どおりカヅマ・タワーの視察に出るそうだよ」
「わかった」
目を閉じたまま返事をするアキオを見上げ、しばらく見つめて舞姫は問う。
「あの子を連れて帰るのかい」
「シャロルか」
「ソニャだよ」
アキオはしばらく黙るが、やがて、
「いや――」
舞姫の髪に触れながら、
「彼女には戻る場所ができた」
メルメードフ伯爵家のことだろう。
「本来いるべき場所だ」
「そうかい」
ユイノは囁き、
「そうだね。帰る場所がない子たちがジーナ城にいるんだものね。あたしやカマラ、キィやシジマも――あ、でも、そうするとヴァイユやミストラ、場合によってはシミュラさまは――」
「居たければ居ればいい」
「そうだね」
ユイノは、しばらく彼の胸に耳を当て、穏やかで力強い鼓動を聞いていたが――
「そうだ、あたしたちの国の名前を聞いたかい」
「国――」
「国っていうのはおかしいけどね。サンクトレイカや西の国、ニューメア王国が、あたしたちジーナ城を中心とする集まりの名前を決めて欲しいっていうから――今は、ジーナ城の皆さまって呼ばれてるんだけど」
「君たちで決めればいい」
「そういうと思って、あたしたちで勝手に決めたんだ。たぶん、あんたは興味がないだろうから、誰もいってないと思うけど――」
「そうだ」
事も無げにアキオが応える。
「そ、そうだよね」
言いながら、ユイノは内心汗をかいていた。
本当は、往きのセイテンの中でアキオに教えて、シャルラ王にも伝えて欲しいとアルメデから言われていたのだ。
だが、彼女は、久しぶりのアキオとの、ふたりきりのお出かけに気分が舞い上がってしまって、そのことをすっかり失念していたのだった。
「ミーナクシー王国」
「ミーナ――」
「が、いいってキィやカマラは推したんだけどね。最終的に決まったのは――」
ユイノは言葉を切って、
「ヌースクアムさ」
「ヌースクアム、か」
アキオはつぶやく。
確かラテン語だったはずだ。
「地球の言葉で理想郷に当たるってラピィがいってたけどね」
ユートピア――その書物なら知っている。
かつて研究所で、彼女がラテン語で読んでくれたことがあったのだ。
たしか、作者はドーバー共同体、つまりかつての英国出身で、最後には処刑されたトマス・モアだったはずだ。
ユートピアという単語自体がラテン語の造語だと彼女は言っていたが――
「素敵過ぎて実在を疑う場所、だからだそうだよ。ちょっとひねくれてるね」
「ヌースクアム……」
「どうだい」
「それでいい」
「正式には、何もつけないヌースクアム、だけど、国によってはヌースクアム王国って呼ぶらしい。ニューメアとかはね」
「わかった」
ヌースクアム、それは魔王と十数名の彼の魔女しかおらず、ただ一人の兵もいない国だ。
だが、その戦力は、おそらく、ひと晩で、数度、大陸を壊滅させるだけの力をもっているだろう――
彼と彼女たちの国は、惑星最大の戦力を持つ最小の国なのだ。
ならば――
「あまり表立っては――」
「そのあたりは、アルメデさまたちもわかっておいでだよ。一般の人たちにヌースクアムは公開されない。国と国との間で約束事が交わされるだけさ」
アキオはユイノの頬を撫でる。
ヌースクアム――
傭兵部隊、クルナノニム以来、久しぶりに所属する私設部隊の名だ。
そう考えて彼は苦笑する。
部隊と言ったら、アルメデたちは困ってしまうだろう。
だが、名を得たことで、彼の友軍は明確に定まった。
これまでどおり、最優先に味方を守るだけだ。
「シャルラ王は知っているのか」
「まだ伝えていないんだよ。ニューメアのクルアハルカと、サンクトレイカのノランには知らせたみたいだけど」
アキオはうなずく。
さっき、ユイノが言ったように、一般に公開しないどこにも存在しない国の名は、大々的に喧伝されるものではなく、密かに国の中枢にのみ伝えられるのが本筋だろう。
「明日にでも、王に伝えてくれ」
「わかったよ」
ユイノは、絡めていた足を外して、濃い小麦色の身体を泳ぐように滑らせると、アキオの首に手をかける。
「それで、明日のことなんだけど――」
「神、か」
「そう。場合によっちゃ、神との戦いってことになるんだろう――あたしには、その神ってのが、いまひとつよくわかってないんだけど」
アキオは首を左右に振る。
「危険なことにはならない」
彼には、相手の正体がだいたいわかっている。
その対策も一応は立てているのだ。
「その顔は、神の正体に見当がついてるんだね。対策もあるんだ――なんだい、せっかく、あたしたちの螺旋塔に飾る浮彫細工に、ヌースクアムと神との戦いを追加できると思ったのに……」
どうやら、彼の舞姫は、ジーナ城内に塔を建てようと真剣に思っているようだ。
「でも、本当に危ないことにはならないんだね」
少女の蒼い瞳が薄暗闇に灯るメナム石の光に揺れる。
それを見てアキオは気づく。
冗談めかした口調で話しながら、ユイノは不安なのだ。
普通の人間相手なら彼女も心配はしない。
だが、天から降り注ぐ声を持つ『神』という、得体の知れない者が相手であることが、少女を不安にさせている。
前回のホイシュレッケ、ギデオンの例もあるからだろう。
「やっぱり、城のみんなに――」
ユイノの声が止まった。
アキオが、不意に、美しく渦を巻く彼女の紅い髪に顔をうずめたからだ。
「ア、アキオ……」
ユイノは身体を固くする。
そんなことをされるのは初めてだった。
「心配するな。この世界に神は存在しない」
彼は、そのまま少女の髪に言葉を吹き込む。
「神は全能だ」
彼は少し考え、
「もし本物なら、その声は人によって違う国の言葉で聞こえるだろう」
「そ、そうかい」
彼の言葉と吐息を髪で感じた少女は身体を震わせる。
「眠ろう」
「わ、わかったよ」
アキオに抱きしめられ、すっかり脱力したユイノは、眼を瞑ってアキオの身体にすがるのだった――
だが、彼の言葉とユイノの願いとは裏腹に、次の日、まさに神と魔王の戦いが勃発したのだった。