355.女傑
22本もの弦が張られた弦楽器を、メラドフは長い髪を揺らしながら自在に扱う。
彼の手元から流れる哀愁を帯びたメロディは、高く低く、強く弱く宴の場を流れていく。
「義弟クレイル・セミョヌ・メルメードフは、誰よりも王家に忠実な貴族でした――」
その曲を聞きながら、噴水の近くに設えられた、椅子代わりの白亜の石に腰かけたメルメードフ伯爵夫人ルイズがつぶやく。
「わたしは、兄である夫より、クレイルと気が合って、まるで本当の姉弟のようだとよくいわれたものでした」
ユイノは黙ってうなずく。
「ですから、クレイルが結婚相手を求める年ごろになると、わたしは迷わず妹のラニャを彼に勧めたのです。ラニャも――あの子も、うちによく遊びに来て、クレイルと気心が知れていたので、ふたつ返事で彼の申し込みをうけてくれました」
サンクトレイカではあまり聞かないが、西の国やエストラでは、兄弟姉妹同士で結婚することはよくあると聞いている。
「ギオルが王家に対して、不穏な動きをしているとの噂が流れ始めると、クレイルは、ギオル一派に近づき始めました。あの子は――わが身を犠牲にして、王家の役に立ちたかったのです」
「おそらく、ソニャさまのこともあったのでしょう」
横で聞いていたシャロルが微妙な口調で言う。
ユイノは、その言い方にひっかかりを感じるが、年相応の大人の対応で聞こえない振りをする。
「シャロルさま」
ルイズが苦しげな顔を見せるが、王女は、子供らしい率直さで、はっきりと言い放つ。
「ソニャさまは、お顔が――貴族向きではなかったので、つねにクレイル殿はそのことを気にされていたと伺っています」
「会ったことはあるのかい」
ルイズが顔を曇らせるのを見て、ユイノが尋ねる。
「いいえ、ずっと家に籠られたままで、一度も王宮には出て来られませんでしたから」
「ですが、本当に心の美しい、優しい良い子だったのです。父に似て、しっかりと気持ちに芯の通った――わが妹、母親のラニャが2歳の時に事故で死んでからも、常にあの子はクレイルの気持ちの支えとなってくれていました。今も、わたしの耳には、あの子のルーさま、という呼びかけが残っているのです」
「ルーさま?」
「あの子だけが呼ぶわたしの名前です」
「そうでしたか」
「ですが、アキオさまと大姫さまが来られる少し前に、クレイルの裏切りが発覚して、ふたりは殺されてしまったのです」
「お可哀そうなソニャ――でも、噂にきくお顔なら、その方がいっそ……」
ルイズが大粒の涙をこぼすのを見てユイノは言った。
「アキオは――」
「はい」
シャロルが愛しい人の名を聞いて、顔を近づける。
「姿形で人を判断しません。言葉の上ではなく本当にそうなのです。あの人が見るのは、その人の気持ち、精神のありようだけ――あなたがお聞き及びのジーナ城の女の子たち……ひとりは獣のように地面を這う生活をしていました。ひとりは雲を衝くような大女で、ひとりは毒で顔の形も判別できない少女でした。ひとりは女の盛りをとうに過ぎたダンサーで――」
少女は、ふ、と笑い。
「ひとりは100年の長きにわたり孤独に耐え、身体さえ失った魔女でした」
いつもと、まったく違う口調で話す踊子に、少女が顔を青ざめさせる。
「ユイノさま――」
「姫さま、あなたはまだお若い。だからこれは忠告です。アキオは外見で女性を見ない。目で見ない、といってもいい。あの人がもっとも尊び愛するのは、折れない気持ち、恐怖に負けない心――」
「憎むものは?」
ルイズが微笑んで尋ねる。
「ありません。彼には愛するものがあるだけで、それ以外は存在しないも同然なのです。ですから、もしアキオがソニャさまといわれるその女性と出会っていたら、その方の精神の美しさを愛したかもしれません」
「わ、わたしは決して――」
シャロルは声を震わせる。
「責めているわけではありません。シャロル姫、アキオとはそういう男だということを、お伝えしているだけなのです」
音楽が変わり、踊りにふさわしい楽曲が流れ始める。
「さあ、姫さま。踊りの時間だ。早くイワーナさまのところに行ってあげないと」
「わ、わかりました」
王女はさっと立ち上がると、優雅なカーテシーを見せて、壁際に立つイワーナのもとへ早足で歩いていく。
「ユイノさま」
ルイズが声をかけた。
「ありがとうございます」
「いいや、ちょっといい過ぎたよ。お節介だね、あたしも」
「あなたのお話を聞いて、アキオさまにお会いしたくなりました」
「い、いや、ただの不愛想な男だよ――いい男だけど」
「アキオさまが、あなたのいわれるとおりのお方なら、なんとしても、ソニャに会わせてあげたかった……」
「ソニャさまが、ルイズさまの仰られるとおりのお方なら、必ずアキオは好きになっただろうねぇ」
シャロルが、手に何かを持って、駆けるように戻ってくる。
「いま、父上に、わたしと踊るようにお願いしてきました。そのあとで、自然にイワーナさまとわたしが交代する予定です」
少女が手にしている容器には、例のミリノ酒が入っているのだろう。
「うまくやるんだよ」
「はい」
すっかり機嫌を直して早足で歩いていく少女を見て、ユイノは微笑んだ。
「ルイズさまは、今宵の計画を?」
「少し聞いております。自分の娘を王妃にするなど、恐れ多いことではありますが――」
「反対はしていないんだね」
「9年前のあの子の嘆きようと、あの年になるまでずっと独り身を通したその気持ちを考えたら――たとえシャルラ王のお気持ちがあの子に向かなくても、やれるだけはやらせてみたいと思います」
「人の気持ちは難しいからね」
「はい。おまけにあの子は――本来なら、王妃などに絶対に向かない子なのです」
「それは――」
その時、音楽が変わって、舞踊曲になった。
シャロルが、おしゃまな感じで王に近づいて、手を差しだす。
王はゆっくりと立ち上がると、身に着けた儀礼用の剣をどうするか、少し迷ってから、そのまま娘の手を取って長身をフロアの中央に運ぶ。
結果的に、その行為が王の命を救うことになった。
ふたりで穏やかに踊りだす。
「へぇ。なかなかのもんだね」
以外に達者なシャルラ王のダンスにユイノは感心する。
夫婦でやって来ている人々も、王と王女の踊りに誘われて踊り始める。
フロアにいくつもの踊りの花が咲き、舞い踊った。
「いい雰囲気になってきたね」
そういって、ユイノはケシュラを弾く男を見る。
「なんといっても、あのケシュラ弾きがうまいよ」
そう言ったあとで、何かが気になるように美しい眉を軽く顰める。
「どうされました」
「い、いや、なんでもないんだ」
伯爵夫人に尋ねられた舞姫は頭を掻いた。
だが、ユイノは、なにかよくわからない違和感を一瞬感じたのだった。
念のため、舞姫はメルク宰相を探した――が、彼がさきほど、衛士に呼ばれて部屋を出て行ったことを思い出す。
やがて――曲が終わり、王と王女が軽く会釈して、シャルラ王が手を離そうとすると、シャロルが手をさし述べて、ホールの隅にいたイワーナを招いた。
「父上、どうか踊ってさしあげて」
王女が小声でそう囁くのを、ユイノの、ナノ強化された聴力が拾う。
シャルラ王は快く承諾し、笑顔でイワーナの手を取った。
――やったね。
ユイノは心の中で快哉を叫ぶ。
これで、あとはしくじらずに踊るだけだ。
舞姫は、緊張してイワーナの踊りを見つめる。
が、すぐに肩の力を抜いた。
彼女は大丈夫だ。
初めのうちは、ぎこちなさの残るダンスだったが、すぐに硬さも取れ、教えたとおりの魅惑の女性リードのパターンを展開できている。
この踊りのポイントは、男性がリードをしていると、周りのみならず、当人たちまでもが思い込む点にあるのだ。
「よし」
そういった途端、再びユイノの感覚に違和感が生じる。
アキオは言っていた。
なにかおかしいと感じる時、それを気のせいにしてはならない。
君たちがそう思う時には、それだけの理由が確かにあるのだ、と。
ユイノの浮ついた気持ちが一瞬で冷静なものに変わる。
封印の氷以降、命の遣り取りの戦いを経験した少女たちの中で、何かが変わったことを全員が感じていた。
ユイノもそうだ。
その、彼女の変わった部分が警報を発しているのだ。
シャルラ王とイワーナは気持ちをひとつにして、素晴らしい踊りを見せ始めている。
わかった――
ユイノは違和感の理由に気づいた。
いつのまにか、楽団が、噴水のすぐそば、ダンス・スペースの近くに移動しているのだ。
これはおかしい――
ユイノが動こうとした時、ケシュラ弾きが、楽器を持ったまま高く飛びあがってシャルラ王に襲い掛かった。
ケシュラの中に武器が仕込んであるらしい。
「いけない!」
ユイノは、咄嗟にコートに仕込んである銀針に手を伸ばし――ドレスに変形させた際にシルエットを乱すため、それらを部屋に置いてきたことを思い出して、王に向かって駆け出そうとした。
だが、同時に他の6人の楽団員も、それぞれに楽器に仕込まれた武器を使って、人々に襲い掛かろうとしているのが眼に入る。
ユイノは、まず、ルイズに斬りかかる男の腕を振り払った。
美しい旋回を見せて、まともに腹に蹴りをいれる。
考えられない勢いで男が宙を飛び、壁にぶつかり沈黙する。
次いで、彼女は、他の客に襲い掛かる男たちへ向かった。
とても、シャルラ王まで手が回らない。
が――王に視線を転じた彼女は、驚きに目を見開いた。
イワーナが、王の儀礼用の剣を抜き放って、見事にケシュラ弾きメラドフの剣をさばいていたのだ。
だが、殺人用の隠し武器と、儀礼用の剣では強度が違う。
数合撃ちあったあとで、イワーナの剣は真ん中から折れてしまった。
美女は、迷うことなく剣を捨てると手を広げ、身体を張って王を守ろうとする。
ユイノは、ナノ強化した体で、4人目の男の膝関節を蹴って両足を折ると、そいつと戦っていた衛士らしき男の剣を奪って叫んだ。
「イワーナさま!」
美女の意識が自分に向くと、矢のような速さで彼女の手に向けて剣を投げる。
狙い過たず、剣の柄はイワーナの手に収まり、そのまま宙を飛んで斬りかかって来ていたメラドフの胸に切っ先が突き刺さった。
それを見ながら、ユイノは6人目の男の腹を殴って泉に放り込む。
「やれやれ」
胸をなでおろす少女に、
「ユイノさま」
駆け寄ったルイズが抱き着く。
「怪我はないかい」
「はい」
「しかし、イワーナはいったい――」
シャロルに泣きながら飛びつかれた王が、ゆっくりとイワーナの前で膝を追って、最高位の感謝を彼女に表すのを見てユイノはつぶやく。
ルイズは微妙な笑いを見せながら、それに答える。
「あの子は、子供の頃から、他の何よりも――シャルラ王さま以外は――剣技が好きで、今も密かに、練習の相手を呼んで、毎日、屋敷で練習に明け暮れているのです。そのことは、夫によって厳重に秘匿されているので、世間には病弱で気弱な娘ということで通っていますが……」
「なるほど――」
ユイノが納得の声を出す。
だから彼女は、ダンスは下手なのに身体の動きと切れが良かったのだ。
さっきの、王妃としては相応しくないというルイズの言葉も理解できる。
それも、ここでの話が世に漏れれば、オルト中に露見してしまうだろう。
「でも――」
立ち上がった王に、人目も憚らず抱き着いて号泣する薄緑の髪の美女と、その髪を優しく撫でる王の姿を見ながらユイノはつぶやく。
「結果的にそれが良かったようだね」