352.鏖殺
地下牢に静かな時間が流れる。
おそらく、膝にのせた彼の頭は重いだろう。
腕は疲れて、痛みすら感じているに違いない。
だが、ソニャは、黙って彼の胸をさすり続けてくれる。
アキオは――
もとより、ナノ・マシンの痛覚遮断で痛みは感じていないが、同種株のナノ・マシンを持たないはずの彼女に触れられて、穏やかで満ち足りた気持ちになっていた。
彼女の掌の温もりでナノ・マシンが活性化している、というわけではない。
そんな、物理的なもの以外の何かが、肌を通じて彼に流れ込んでくる。
そして、彼は、人間に――そして人と人との触れ合いに、彼のまだ知らない秘密があることを知るのだった。
階段上の扉が開いて、男たちが降りてくる。
「さあ時間だ。ザバドさまが戻られた」
彼らはアキオに膝枕するソニャをみて言う。
「なんだ、ソニャの奴、色気づいてやがるじゃないか」
「お前も哀れだな。最後に触る女が、こんな化物だとは」
アキオはゆっくりと身体を起こした。
いま、声をかけた男たちを見る。
じっと見る。
牢の扉が開いた。
アキオは、縛られた腕を動かして、そっと少女の髪に指で触れ、唇に触れた。
「待っていろ。すぐに終わる」
ぱっと、ソニャが彼の手を掴んだ。
きつく握りしめて離そうとしない。
一度、離してしまえば、二度とその手に触れることは叶わない、とでもいうように――
アキオは立ち上がると、空いた方の手を、縛めの中で動かして、優しく少女の頭を撫で、
「心配するな」
そう言ってソニャの手をほどき、開いた牢の出入り口から外に出た。
さらにもう一段、ロープで縛られてから引き立てられていく。
階段を上がり、暗い通路を歩いて、堅牢な扉の前で待たされた。
「連れてきました」
男たちの言葉で扉は内側から開く。
そこは、おそらくこの屋敷で一番広い部屋だった。
その中に100人あまりの男たちが、入り口に背を向けた長身の男を囲んで立っている。
男はその手に、ザルドに使う短い鞭らしきものを持っていた。
腕を布で吊ったり、足に添え木を当てている者は、夕方に彼が負傷させた連中だろう。
無事に館に帰って来られて何よりだ。
「来たか」
ざっと、音がするような勢いで男が振り向く。
この背の高い男が、ザバドだろう。
ギオルにどこか似たところもある。
「貴様が魔王か」
そう言って、鞭を掌に叩きつけながら笑う。
「魔王と呼ばれるだけあって、さすがに強かったそうだな。われらの選りすぐりの手練れが、30人がかりで半数近く負傷させられたのには驚いた――」
ザバドは鞭を振りながら続ける。
「だが、所詮は人間。いくら強いと粋がっても、15人は倒せても30人は倒せない。それが人間の限界だ。初めは、お前がおとりになって、王軍がやってくるのかと思ったが――独りで街を出て、どうするつもりだった?。我々をおびき出して全滅させるか――うん?だが、悲しいかな、お前は大けがをさせられて、ここで処刑を待つ身だ。魔獣の王などとおだてられて実力を見誤るとこういうことになる」
シミュラやユイノがいれば、魔獣の王ではなくて、魔女たちの王だ、という突っ込みが入るところだが、アキオは黙ってザバドを見つめるだけだ。
「そもそも、ここには、魔術師30名に加え、剣士の精鋭70人が控えている。おまえごときが一人でいくら騒いでもどうすることもできない。頭の悪いお前に良い言葉を教えてやろう。数が力だ」
アキオの口元がわずかに動いた。
ユイノが見たら、珍しくアキオが人前で苦笑している、と言ったかもしれない。
「お前が王家に肩入れしていることは知っている。だが、我々は、そちらの暗殺計画も着実に進めているのだ。昼間のシャロル襲撃は陽動に過ぎない!」
ザバドは芝居っ気たっぷりに両手を広げ、
「近いうちに行われるであろう、城内の宴にて、同士メラドフが必ず我らの悲願を果たしてくれるだろう」
男は鞭でアキオの顎を上げさせ、続ける。
「もう分かっていると思うが、兄を殺したお前は死なねばならない。しかも、苦しんだ末に、だ」
「魔王に死を!残酷な死を!」
誰かが声を上げると、全員が床を踏み鳴らして、唱和し始めた。
しばらくしてザバドが手を上げると、皆が叫ぶのを止める。
沈黙が板張りの広間を支配した。
「だが、わたしは魔獣じゃない。人殺しのお前にも情をかけてやろう――最後に何かいい残したいことはあるか」
「ソニャの眼を潰したのは誰だ」
間髪をいれずにアキオが尋ねる。
「何だと?」
アキオはもう一度同じ質問をする。
「最後に何かいい残せ――泣き言を、という意味でいったのに、貴様は勘違いをしているようだな」
ピシ、と音が鳴ってアキオの頬に赤い血の跡が走る。
「だが良いだろう。質問に答えてやる。その代わりこう言え、『わたしは人殺ししかできない怪物です。ですからザバドさまに存分に痛めつけられた挙句、成敗されて当然です』」
アキオは表情を変えずに男を見ると、言われた通りに復唱した。
ザバドは大声で笑い出す。
「見たか、この情けない姿を。何が魔王だ。この人殺しめ」
そう言って、アキオの顔を鞭で滅多打ちする。
「やめてください!」
必死の声が響いて、何かがアキオに走り寄った。
そのまま、彼の上に覆いかぶさる。
ソニャだ。
「なんだ、化物か」
一瞬、驚いたザバドは、そんな自分に腹を立てたのか、アキオをかばう少女を蹴りあげた。
「あっ」
「化物が怪物に惚れたか!貴族のくせに醜い顔をしおって、やはりお前も父親同様の裏切者か、片目を潰しただけで助けてやったのに、恩を仇で返し――」
ザバドの言葉が途中で止まった。
再びソニャの身体を蹴ろうとした足を、少女の下から伸びた手に掴まれたからだ。
アキオの手だ。
ゴキ、と嫌な音が響き、女のような甲高い悲鳴が部屋に轟いた。
アキオがザバドの足首を折ったのだ。
「ぎぃやぁあ」
サイレンのように叫び続けるザバドの声を無視して、皆が驚く中、ゆっくりとアキオは体を起こした。
立ち上がる。
静かに腕を開くと、濡れた紙でできたかのようにロープは千切れ、その断片がバラバラと下に落ちる。
見る間に腕と腹の傷が塞がり、眼球も復元した。
彼は、ガラス細工の宝ものでも扱うように優しく少女を立たせると、硬直して動けない男たちを後目に、転がって喚くザバドの頭を掴んだ。
知りたかった情報は得られた。
ソニャの眼を潰したのはザバドだ。
空気人形のように、片手で軽々と長身の男を持ち上げると、無造作に左目に親指を突っ込む。
眼球を潰され、再び絶叫をあげる元貴族を、手首の力だけで部屋の隅に放り投げた。
「もっと痛みに耐えろ」
小さくつぶやく。
男たちは動けない。
彼の見せた奇跡的な肉体復元と驚異的な力の強さ、それと非情さに膝の震えが止まらないのだ。
ザバドの言った、怪物という意味が、嘲りでも言葉の綾でもなく、真実であることを彼らは知った。
俺たちは、とんでもないものに手を出してしまった――
一瞬、アキオの姿が消える。
再び彼の姿が現れると、5人単位で男たちが吹っ飛んで壁に激突していく。
魔法使たちは慌てて雷球や火球を作ろうとするが、その前に、腕を複雑骨折させられて、魔法どころではなくなる。
折れた骨が腕から飛び出た状態で、精神を集中させて魔法を練ることができるものは、レジオンにはいないようだった。
練度の低い、多寡のしれた組織だ。
男たちの中で、二人だけが、手刀で鼻を削がれ口を真横に切り裂かれた。
「なんで、俺たちだけが」
不明瞭な言葉でわめく男たちをアキオは壁際まで蹴り飛ばす。
むろん、ソニャに悪態をついた連中だ。
1分と経たないうちに、室内で立っているものはいなくなった。
まるで、竜巻が部屋の中で吹き荒れたような惨状だ。
その間、ただ一撃の剣風も起こらず、一発の雷球、火球も発生しなかった。
彼らは、決して触れてはならない厄災に手を出してしまったのだ。
それも仕方のないことだ。
この世界でも地球でも、かつて後悔が先に立ったことはない。
アキオは、部屋の隅に置かれた彼の服を身に着けた。
ゆっくり歩いてソニャのもとに戻る。
「怖がらせたか、すまない」
再び床に座り込み、小刻みに震える少女を見て、彼は、申し訳なさそうに身を屈め、目を合わせて謝った。
そっと少女の首に手を触れる。
「い、いえ、驚いただけです。あなたが殺されるのではないかと――お強いのですね」
「それだけだ――俺にあるのは」
「しかも、あなたは不思議な力を持っておられる……」
「アキオ」
「え」
「俺の名だ。覚えてくれるか」
「はい、アキオさま」
彼はソニャに手を貸して立ちあがらせる。
少女は背伸びして彼の顔に手を触れ、
「目が治ったのですね」
うっとりした表情でつぶやく。
「きれいな、黒い瞳――」
「君の薄緑の眼も美しい」
そう言って、アキオは、ポーチから取り出したカプセルを指で弾いて、部屋の壁に巨大な鏡を作った。
少女の肩を持って鏡に向かせる。
「いや、やめて――ください」
少女は両手で顔を覆う。
アキオは、その手をそっと外した。
きつく目を閉じる少女に彼は囁く。
「見るんだ。君の本当の姿を――」
何度か促され、恐るおそる目を開けた少女の両目に――
黒ずくめの男と、その横に立つ、すらりとした美しい少女が映る。
「え、わたし――両目で見ています」
「君の眼は完治した。そして君の姿は、本来、あるべき姿に戻った」
彼女の首に手を触れた時、彼は、ナノ・マシンを彼女の身体に注入したのだった。
そして、同時にあるコマンドをマシンに発令した。
それは、かつて、キィがアルメデと同じ容姿であることを申し訳なく思い、悩んでいたころに、カマラとシジマが、ミーナと共同で開発した容姿最善化プログラムだ。
アキオの脳裏に、ガラテア・メーカーと名付けられた、そのプログラムの説明をした時のシジマとカマラの表情が浮かぶ。
「これはね、すごいんだよ。その人の遺伝子にそって、人間が美しいと思う容姿に変えるプログラムなんだ」
「もともと美醜というものは、ほんの少しの身体パーツの微妙な角度、配置、形によるところが大きいのですが、それを、元の遺伝子に、わずかな変更を加えて、その人の本質を変えずに佳人に変えるプログラムなんです」
「これのすごいところはね、遺伝子の成長予測から外挿的に理想の美を数値化して、量子的揺らぎを加えた計算で、自然さを生み出しているところなんだ。もちろん、単純に左右対称な顔にして、嘘くさい不自然さが出るようなこともない。顔に比べて眼だけが異常に大きくなったりもしない。もともとの、その人のあるべき姿がベースなんだから」
今、思えば、その量子的揺らぎ、という作業はヴァイユが行ったのだろう。
結果的に、キィは、アルメデの姿を受け入れて、ピュグマリオンは使われなかったのだが、一応、ナノ・マシンのプログラムとしては実装されていて、今回、それが役に立ったのだ。
「これが――わたし……」
透き通るような薄緑の髪、細い眉、くっきりとした目、形のよい鼻、口づけを待って濡れたような唇……
つぶやく声も銀鈴のように美しい。
「そうだ、君本来の姿だ」
茫然として立ちつくす少女にアキオが断言する。
さらに、彼は、ミーナとキィの間で交わされたという会話を思い出して付け加える。
「もちろん、君の子供にもその姿は受け継がれる」
容姿に加えられた変更は、遺伝子情報にフィードバックされるのだ。
わっと、少女が泣き始めた。
「気に入らないか」
少女は大きく頭を振る。
「いいえ――いいえ、嬉しいんです」
ソニャは、濡れた瞳でアキオを見て、
「感謝いたします。アキオさま。この――」
そういって、深呼吸をすると、美しいカーテシーを見せ、
「ソニャ・セミョヌ・メルメードフの名にかけまして、心よりの感謝を――」
いきなり、凄まじい音が響いて屋敷の壁が崩れた。
濛濛たる土埃の中から、巨大なゴランが5体現れる。
「殺せ、殺せ、鏖にしろ」
屋敷の外に建つ、四角い建物の最上部の見晴らし台で、どうやって登ったのか片目のザバドが、腕を振り回して叫んでいる。
塔の下の扉が開いているところを見ると、そこからゴランが出てきたらしい。
おそらく――
アキオは考える。
かつて、魔獣が跋扈した灰色の拡散以前の森で、屋敷を守るために、生け捕りにしたゴランをあの塔の中に閉じ込めていたのだろう。
ゴランのいる場所には、他の魔獣は近寄らない。
それを、やけになったザバドが解放してしまったのだ。
小物は逆上すると、前後の見境が無くなって手に負えない。
このまま放置すると、骨折の痛みで気絶させたレジオンの兵士たちが、それこそザバドが言うように、鏖殺されてしまうだろう。
だが、それもソニャを粗末に扱った者たちの末路としてはふさわしいような気もする。
アキオは、彼の腕にすがる少女の手に震えを感じて、ソニャを見た。
「怖いか」
「いいえ、あなたがおられますもの」
アキオはうなずき、
「では、行くか」
要は、ザバドさえ生け捕りにすれば事は足りるのだ。
ぱっと少女が彼の胴に抱き着いた。
「どうした」
「アキオさま、どうか――どうか屋敷の人たちをお助けください」
「だが――」
彼らは、少女の優しさと尊厳を踏みにじってきた者たちだ。
当然、彼の中で、その存在価値はゼロ以下だ。
おまけに矮小な数の力を実力と勘違いしている愚かものでもある。
「お願いいたします」
アキオは見下ろす少女の眼に必死の懇願を見て取る。
「そうか」
それならば仕方がない。
彼は、薄緑の髪の少女の頭をポンポン叩くと、ゴランに向けて足を踏み出した。