350.美醜
すぐに、通りを行く人々が、彼を見てざわめき、大きく道をあけ始める。
静まり返ったその中を、アキオは無人の野を行くがごとく歩き続けた。
もちろん、通りの者全員が、ギオル事件の時に彼の姿を見たはずがない。
だが、噂のみを聞いて彼を知る人々も、いま通りを往く黒ずくめの男が彼の魔王であることを確信していた。
夕暮れの迫る大通りを、ゆっくりとした歩調で無言のまま歩くその姿は、闇そのものが形をとったかのように彼らの眼には映ったからだ。
彼らのほとんどは、ギオルが国を私物化しようとしていた奸物であったことを知っている。
公にはされていないが、悪事は風のように世の中を駆け巡って広まるものだ。
魔王がギオルを殺害したことも――
そのことで彼を責める者はいなかった。
だが、魔王が彼らのために、正義の刃を振るったと考える者も、またいなかったのだ。
自身の評判に頓着しないアキオの考えを受けて、シミュラは、シャルラ王に対して、魔王について語らないよう依頼していた。
その後、サンクトレイカとの国交が回復され、人の往き来が盛んになると、自然に魔王の噂はエストラにも流れ込んできた。
だが、それは、かつて意図的に偽物を使って作り出された、恐怖の象徴としての魔王像だった。
実際に奸物であった宰相を討った魔王と、噂に聞く破壊の化身たる魔王、そのふたつの魔王像が混ざり合い、さらに、あの魔王の霧を発生させたことで、エストラの人々は、魔王を単純な悪ではなく、触れるものではない、なにか禍々しいものとして考えるようになった。
この国の人々に、魔王は、竜巻のように突然やって来る厄災に等しいものとして理解されたのだ。
あの事件以降、親が言うことを聞かない子供に使う脅し文句に、次のようなものが増えたことで、彼らが魔王に持つ微妙な感情が分かるのではないか――そうメルクはシャルラ王に言ったことがある。
「いうことをきかないと、魔王がお前を攫いにくるぞ!」
「失礼なことをいいますね。なぜアキオさまが、見も知らぬ子供を攫わねばならないのですか」
それを聞いたシャロルは、涙ながらに腹を立てていたが――
アキオは、彼を見つめる視線の中に、魔王を目撃した驚き以外の、強い憎しみを感じていた。
彼が期待したように、群衆の中にレジオンの手の者が混じっているのだ。
オルトは、街の中で魔法の使える唯一の王都だ。
いきなり雷球や火球を打ち込んでくるかもしれない――
一応、アキオは警戒するが、さすがに彼らもすぐに攻撃を仕掛けてくるようなことはしなかった。
ただ、彼の後を、複数の視線が無言で執拗に追いかけてくるだけだ。
ゆっくり歩いているように見えて、彼の移動速度は速い。
人々の驚きの眼差しと刺すような憎悪の視線を引きずりながら、しばらく進むと、彼は街門に近づいた。
門を守る衛士の隊長は、黒づくめの男が王の賓客であることを知っていた。
若い隊士が、彼に誰何しようとするのを引き留め、アキオに目礼すると黙って門を通過させる。
街門をでたアキオは、夕方になって人通りの少なくなった街道を歩いていく。
すでに、オルトにいた者から、敵の本拠地に伝令が飛んでいるはずだった。
しばらく歩くと、彼は、おあつらえ向きの横道を見つけて通りを折れた。
山の陰に落ちかけている夕陽は、鬱蒼とした木々に囲まれた小径には届かず、彼の進む先には薄闇が広がっている。
アキオの口元に、優しい、といってもよい微笑みが浮かんだ。
あたり一帯に敵の気配を感じたからだ。
さりげなくアーム・バンドに手を伸ばし、ナノ・マシンを設定する。
小径が少し広がって広場のようになった場所に出た時、声も掛けられず、いきなり襲われた。
おおよそ30人の敵だ。
装備から見ても、魔法使はおらず剣士のみだった。
剣による、よく訓練された連携攻撃を連続で仕掛けてくる。
どの程度まで凌ぐのが妥当であろうかと考えながら、彼は素手で敵の攻撃を躱し続けた。
結局、疑われないように適当に反撃して、半数程度の男たちの手足を単純骨折させる。
頃合いを見て、左手と右足に刃を受けて倒れた。
このために、あらかじめナノ・コートの防刃機能を停止させておいたのだ。
レジオンの者たちの、彼に対する憎しみは相当なもののようで、倒れてからも手足をめった刺しにされた。
腹と背中も刺される。
「そこまでだ。殺すなよ。止めを刺されるのはザバドさまだ」
リーダーらしき男の言葉で蹂躙が止まった時には、片目も潰されていた。
ロープで、がんじがらめに拘束されて、ザルドの背に乗せられる。
さっきの男の言葉で予想できた通り、彼は、レジオンのアジトに連れていかれ、そこでリーダーのザバドによって殺されることになるのだろう。
襲撃者たちは、オルトの街から離れるように移動を始めた。
アキオによって傷つけられた者は、森に置いていかれる。
後で迎えの馬車が来るのだという。
30分ばかりザルドを走らせると、彼らは街道を折れて小径に入った。
しばらく進むと、道の行き止まりに石造りの大きな建物が見えてくる。
造り自体はかなり古いが、最近になって手を加えられたのか、木製部分は新しかった。
これが、レジオンの拠点らしい。
アキオは片目で館を観察する。
今は魔獣がいないから問題ないが、灰色の拡散以前は、いかにしてゴランから館を守っていたのか、その秘密は、この世界では珍しい、館の横の巨大な四角い建物にあると思われた。
館の位置は、ザルドの速度と経過時間から、王都から20キロばかり離れた場所になるはずだ。
「黒の魔王を捕まえてきた。ザバドさまはおられるか」
襲撃隊のリーダーが戸口で叫ぶ。
「現在、留守にしておられますが、夜半までには戻られるはずです」
「わかった」
男たちは、見張りをおいて建物に入り、しばらくして出てきた。
屈強な男たちも、50人ばかり出てくる。
「武装解除しろ」
アキオをザルドから降ろしてロープを解き、コートと上着を剥ぎ取る。
ブーツも脱がせた。
「ずいぶん痛めつけたな」
裸のアキオの怪我の具合を見て、館の男が襲撃隊のリーダーを責める。
すぐに怪我が治っては相手を警戒させてしまうため、あらかじめナノ・マシンの治癒効果は限定してあった。
「王都で仲間を捕えられ、森で15人がケガさせられたんだ。仕方ないさ。おまけにこいつはギオルさまの仇だ」
「ザバドさまが帰られるまでに死なれたら困る」
「だが、治療しようにも、いま医者はいないだろう。看病しようにも人質に取られたら面倒だ」
「なら――ソニャを使え」
「ああ、その手があったな」
「よし、こいつを地下牢に運べ」
アキオは再び上半身をロープで縛られると、建物に連れ込まれ、地下に引き立てられた。
石造りの湿っぽい牢獄の戸口に立つと、背中から小突かれて牢内に放り込まれる。
男たちは彼に唾を吐き掛けると、扉を締めて出て行った。
アキオは、そのままじっと待つ。
彼の行動計画は単純だ。
ザバドが彼を殺しに来たら、全員を行動不能にしてメルクに引き渡す。
以上だ。
以前にノランと戦った時は、人間相手の戦いしかしなかったため、彼の実力は知られていない。
そうでなければ、腕や足を数度刺して腕を胴ごと荒縄で縛るだけ、などという杜撰な拘束をするはずがない。
彼らは、チャチな地下牢に、ゴラン100体分の戦闘力を持つ魔王を、閉じ込めたつもりになっているのだ。
階段の上に明かりが見えて、それが下に降りてきた。
牢の鍵が開けられ、人が入って来る。
最初はザバドかと思ったが、彼ならアキオを階上へ引き出すだろう。
アキオは、片目を開けた。
牢にいるのは、まだ若い、少女といってよい女だった。
手に水桶と布とメナム石を持っている。
「いいか、ソニャ、手当なんかしなくていい、ただ、死にそうになったら俺たちに知らせろ」
男たちは少女に向かって言い、
「おい、気がついているんだろう。この女を人質にしても無駄だぜ。俺たちは、こいつが死んでも痛くも痒くもないからな」
アキオに向かって、そう言い残すと、牢に鍵をかけて階段を上がって行く。
アキオは黙ってそれを見ていた。
眼を閉じる。
牢内に一人敵が増えようと何の問題もない。
予定通りに計画を実行するだけだ。
不意に彼の頭が、冷たい石の床から持ち上げられた。
そのまま柔らかいものの上に乗せられる。
目を開けると、少女が上から覗きこんでいた。
顔を片手で覆っている。
アキオは、彼女に膝枕をされていたのだ。
「大丈夫ですか」
少女の声が上から落ちてきた。
低く、掠れた声だった。
アキオは無言のままだ。
この少女が、本当は何の目的でここに来たか分からなかったからだ。
「わたしは、ソニャといいます。あなたのお世話をするように命じられました」
そういうと、布を桶の水に浸して絞り、傷口とロープを避けて血にまみれた彼の身体を拭き始める。
「不要だ」
アキオが言っても少女はやめない。
彼は、ソニャの手を持った。
「あ」
「何もしなくていい」
「でも、血まみれですし、傷の手当てはできませんが、せめて布を当てないと」
「それもいい」
「やっぱり嫌ですか――」
少女の口調に悲しみがにじむ。
「わたしなんかに触れられるのは」
言葉の意味が分からず、彼は少女を見た。
「わたしが――醜いから」
そういって、彼女は顔を押さえていた片手を外した。
ソニャの左目は、瞼がなく、白く濁って視力はなさそうだった。
「その眼のことか」
「そうです。でもそれだけじゃないでしょう」
「わからないな――」
正直に彼は言う。
「太い眉、垂れ下がった目じり、大きな鼻、分厚い唇――太い首、男みたいな声、ぜんぶぜんぶぜんぶ!わたしは醜いんです!」
「そうか」
「そうでしょう?」
「すまないが、俺にはわからない」
「うそ――」
「片目なのは不自由だと思うが、それ以外は健康そうな女性に見える」
「信じられない!」
ソニャは、泣き笑いの声を出す。
「醜いから、わたしは女として扱ってもらえず、この館で、人ではなく屋敷付きの使用人として使われているんです」
「奴隷のいないこの世界で、か」
「ドレイ?」
「なんでもない」
それは、長い眠りから覚めて、湯に浸かりながらサフランに確認した事実だった。
ドラッド・グーンが忌み嫌うものが2つある。
概念としての神と、制度としての奴隷だ。
それゆえ、ケルビの次の継承者である人類の進化が始まると共に、その二つを徹底的に排除し続けた結果として、この世界がここにあるのだ。
つまり、アラント大陸に奴隷制度は存在しない。
「とにかく、血を拭いて、傷口をきれいにさせてください」
そういって、少女は彼の身体を拭き始め、アキオは抵抗をあきらめた。
作業をしながら、少女は話し続ける。
「わたしの父は、ギオル派の重鎮でした――こう見えてもわたしは伯爵の娘なんです。元、ですけど」
ソニャは、床に置いたメナム石に顔を近づける。
「貴族なのにこんな顔――父はそれでもわたしを愛してくれましたが、使用人をはじめ、会う方々は、みんな私を生んですぐに死んだ母の不貞をうたがいました。哀しいけれど、それは仕方なかったと思います」
少女は血に塗れた布を桶で洗って絞る。
「ギオル宰相が亡くなられて、メルクさまに通じていたことがわかると、父は殺され、わたしは目と喉を潰されました」
少女は、しばらくの間、手を止め、
「その時に死にきれなかったわたしは、この屋敷に連れてこられ、ずっとここで働いています。でも――王都にいて、醜い姿を見られないように部屋に引きこもっていた頃より、ここで皆に馬鹿にされながらも仕事をしている方が幸せなんです」
「そうか」
「あなたも――眼を潰されたんですね」
「そうだな」
「片目って不便ですけど、しばらくしたら慣れますよ」
「誰にやられた」
「え」
「眼だ」
「――」
ソニャは答えない。
「さあ、終わりました。目と手足が焼けるように痛いでしょう。胸に傷はありませんね。しばらくのあいださすってあげます――不思議と痛みがましになるんですよ。わたしも怪我した時、乳母が、一晩中、わたしの背中を美しい歌を歌いながらさすってくれて、乗り切りました」
言いながら、少女がアキオの胸を優しく撫でる。
「人って、他の人の肌によって慰められるものなんですよ」
「知っている」
アキオは、そう言って目を閉じ――深い声で、もう一度繰り返した。
「よく、知っている」
再び目を開けたアキオに向かって、ソニャが続ける。
「本当は、歌ってあげられれば良いのですが――この声ですから、却って具合が悪くなってしまってはいけません……」
そう言って微笑む。
メナム石によって仄かに照らされる少女の笑顔を見ながら、アキオは言う。
「だが、君の声は優しく、笑顔は美しい――」
「いじめないでください」
ソニャが顔を背ける
アキオは、彼の真意が伝わっていないことを知り、しばらく考えて――言った。
「俺は君が美しいと思う、が、もし、君自身が美しいと思える容姿になれるなら、なりたいか」
ソニャは彼の言葉に取り合わず、
「さあ、もう黙ってください。目を閉じて――」
そういって、やさしく彼を撫で続けるのだった。