346.ガール・ミーツ・ボーイ、
展望台から塔内に戻ったふたりは、巨大レリーフを避けて、そのまま下りのスロープへ向かった。
塔を下り始める。
螺旋塔の特徴は、登りの螺旋スロープがそのまま下りのスロープへ繋がっていて、決して往きと帰りの人々がすれ違わない点にある。
同じように塔内を螺旋回転しながら登り、下っていくのに、二つの道は完全に分けられているのだ。
帰りのスロープには、レリーフは飾られていなかった。
その代わりに、登りより多くの小窓が、大小、高さを違えて作られている。
ガラス加工の技術が発達していない世界であるから、大きく壁を切り取って防風シールドをはめ込むことはできず、小さな複数の窓で代用しているのだ。
ユイノは少し歩調を緩めてアキオの後を歩いた。
彼女の前を、アキオは大きな背中を見せて、黙って歩いていく。
あの事件の後――いや、彼女たちがキラル症候群に罹患したことを知ったあたりから、アキオの口数は極端に少なくなった。
彼女は――彼の声が好きだった。
地球で言うバリトンの声だ。
いつも、もっと聞いていたいと思う。
先に歩くとき、アキオは決して振り返らない。
前だけを見て歩いていく。
それは、背後の者を忘れているわけでも、無視しているわけでもないことを彼女は知っている。
彼の鋭敏な感覚が、いつも彼女をとらえていることを――
何か事が起きれば、いや、その前に彼は彼女を守ってくれるだろう。
だけど――ユイノは思う。
それでも、彼には振り返ってほしい。
歩く時も、前だけを見ないで、彼女を見てほしい。
前だけをみて歩く彼の姿は、彼女を、彼女たちを不安にさせるのだ。
同じ風景を見ても、彼がどう感じるか彼女たちには理解できない。
300年を生き、幾多の戦場で、多くの死と悲劇を眼にしてきた彼の心象風景がどんなものか彼女には分からない。
ただひとり、彼とそれを分かち合えた女神は、もういないのだから。
ミーナの不在が、彼の存在を不確かなものにしている――
少女は頭をふって不安を振り払うと、背後からアキオの腕に飛びついた。
だから、今は、こうやってしっかりつかんでおくのだ。
勝手に彼がどこかに行ってしまわないように――
ゆっくりと進んだが、帰りは往きの半分の時間で降りることができた。
入り口の反対側、専用の降り口から広場に出る。
振り返って見上げると、塔の上を雲が速く流れていた。
それを見たユイノは、何かを思いついたように、
「ほら、アキオ」
そういって彼の腕から離れ、塔の土台に抱き着く。
上を見上げて――
「本当だ。キィがいうように、塔が倒れてくるように見える」
大きな声を上げてはしゃぐ、が――
広場に集まった人々の視線を感じて、恥ずかしそうにアキオの後ろに隠れた。
そのまま、そそくさと広場を出ていく。
「いやぁ、恥ずかしかったね」
螺旋塔から少し離れて、目抜き通りに入る頃には、ユイノはいつもの調子を取り戻していた。
「さっきのは」
「あれはね――」
アキオに問われて話し始めようとして、
「いや、話せば長いんだよ。だから、細かいことは帰りのセイテンの中でね」
ユイノは青い眼を器用に片目だけ瞑って見せる。
少女の望みで、お茶は露店ではなく、目抜き通りに面した酒場で飲むことにした。
彼女が聞いている話では、例の事件以後、サンクトレイカの文化がエストラにも入って来て、昼間の酒場では、お茶やお菓子を食べることができるようになったらしい。
アキオは、酒場を見回した。
たしかに女性客が多い。
シミュラの記憶を含め、以前のオルトでは考えられないことだ。
「ここも、ずいぶん変わってきたね」
運ばれてきた花茶を口に運びながら、ユイノがしみじみという。
かつて、彼女が、ミストラやユスラ、ピアノと初めて馬車で落ち合った時に飲んだお茶だ。
あの時はシュテラ・ミルズで茶葉を買ったのだった。
「花茶ってのは、サンクトレイカの象徴みたいなお茶だからね。それを、エストラで飲めるなんて何だか不思議だよ」
アキオは、少女の笑顔に向かってうなずく。
「ちょっと、聞いていいかい」
ユイノが通り過ぎた店の男に声をかける。
「なんでしょう」
「あたしは、サンクトレイカから来たんだけど、ここもずいぶん変わったね」
「ええ、この一年足らずで、すっかり変わりました」
「そうだね、あたしが前に来たのは16年ほど前だけど――」
男の視線に気づいてユイノが咳をする。
17歳以上には見えない少女の16年前は赤ん坊だ。
「いや、その、ずっと前に来たんだけどね。その頃とはまるで違うね」
「最近までは、ほとんど変わりなかったのですよ。しかし、ギオル宰相が広場で魔王に殺されて、王がご病気から回復されてからは、ひと息に変わりました。その上、この間の魔王の霧――」
男の言葉に、ユイノが眉を顰める。
ジーナ城や、詳細を知る者の間では、灰色の拡散と呼ばれているあの現象は、一般的には「魔王の霧」と呼ばれているのだ。
「あれで、サンクトレイカの王が代わってからは、人も食料も、どんどん流れ込んで来るようになって、オルトもすっかり変わりましたよ」
「そうだね。やはり、王さまが元気になられたのが大きかったのかい」
ユイノが水を向けると、
「それもありますが、王女さまのご尽力のおかげだとのもっぱらの噂です」
「シャロル王女のおかげ――」
「ギオル宰相が国を牛耳ってから――」
ユイノがアキオを見る。
どうやら、ギオルの悪事は、彼の死後に露見したらしい。
「長らく姿をお見受けしなかったので、おそらく御病気だったのだと思われますが、元気になられてからは、あの方が中心となって新しいエストラ王国を作ろうとなさっているのです。噂では、天才であらせられるとか――」
「なんだって――」
ユイノが大きな声を出す。
「また天才かい」
そう言ってから小声で、
「王族で天才って、もう流れはできてるみたいじゃないか」
「何か?」
「い、いや、ありがとう――あ、王女さまって綺麗な方なのかい」
「まだ、御年8歳であらせられますが、豊かな黒紫色の髪と知的な瞳、これからご成長なされたら、どれほど美しくなられるか――我々王国の民は、期待に胸を膨らませているのですよ」
そう言って、壁にかかった絵画を指さす。
そこには、背景のない壁の前に立った美しい少女の姿が描かれていた。
「うーん、やっぱりシミュラさまに似てるねぇ」
「絵の才能がおありで、この店に掛けられている絵は、すべて姫の――」
「絵なのかい」
「はい。複製画ですが……」
「なるほどね」
ユイノは大きくうなずいた。
なぜ、浮彫細工のアキオが、彼そっくりだったのか、その理由が分かったのだ。
おそらく王女がアキオの画を描き残していたのだろう。
男が去ると、ユイノが恋人に尋ねた。
「アキオ、あんた、王女さまとどのくらい話をしたんだい」
「少しだ」
「本当かい」
しかし、舞姫にはもうわかっていた。
それは、言葉の多寡の問題ではないのだ。
場合によっては言葉すら必要がない――それが、ミーナ言うところの、ガール・ミーツ・ボーイ、だ。
がっくりと肩を落とした少女は、お茶を飲み干すと、言った。
「そろそろお城に向かうかね」
店を出て、目抜き通りをエストラル城に向かう。
相変わらずユイノは、アキオの腕をつかまえて、きつく締めあげるようにして、跳ねるように歩いている。
ジーナ城では決して見せない密着度の高さだ。
この機会に、今だけは全開で、アキオを我が物にしておこうという彼女の決意が如実に表れた行為だ。
「アキオ――」
ユイノが、彼を見上げて甘い声で話しかけた時、アキオの手が彼女の小さな手を包んだ。
一瞬、はっとした舞姫は、すぐに表情を緩め、
「あたし、あんたと二人きりの場所に行きたくなったよ」
そういって、アキオの腕を持って、彼を路地に連れ込む。
曲がった途端、アキオとユイノは、同時に上に跳ね上がって、石造りの建物の露台につかまって下を見た。
彼らのすぐ後ろから、マントにフードを身に着けた尾行者が路地に駆け込んで来る。
独りだ。
彼らは、あらかじめ指話で打ち合わせた通り、ベランダから手を放し、ユイノが尾行者の前に、アキオが後ろに、同時にそっと降り立った。
「なぜ、あたしたちを尾行けたんだい」
ユイノが腰に手を当て、胸を反らせて問いかける。
尾行者は、顔を隠したまま、後ろに向かって逃げようとし、
アキオに気づいて――
ぱっと抱き着いた。
「え、え、な、なんだい」
アキオに比べて、あきらかに――すごく小さい人影が、彼の足のあたりに抱き着いている。
人影は感極まったように顔をこすりつけた。
その拍子に、フードが外れ、中から豊かな黒紫色の髪があふれ出る。
アキオは、それが誰なのか、すでに分かっていたのか、相手のなすがままに抱きしめられている。
「その髪、子供、まさか……いやたぶん、間違いなく――」
ユイノがつぶやくと、小さな影はアキオから離れて、優雅なカーテシーを見せた。
「アキオさま。お久しぶりです。シャロル・エストラです。お会いしとうございました」
にっこり微笑むその顔は、小さいながら﨟たけた雰囲気すらあって、人形のように整っている。
「やっぱり、これは間違いなく城の席が――」
つぶやくユイノに向かって、少女が言い放つ。
「そこなあなた。アキオさまは、大姫さま専用の殿方です。先ほどから観察するに、あなたは少々馴れ馴れし過ぎるように思います。今後は適切な距離を保ちますように」