345.予兆
少女は駆け寄ると、浮彫を見上げた。
「これにだけ名前がついているよ――永遠の女王と救世の英雄」
「そうか」
アキオは、じっとシミュラを見る。
「よくできているな」
しかし、ユイノはそれどころではない。
頂上にいる、かなり多くの人々が、浮彫と、その前に立つアキオを見比べて、ひそひそと囁きを交わしているのだ。
「アキオ、わかってるのかい。シミュラさまが似てるってことは、あんたも似てるってことなんだよ」
ユイノは、アキオを前から押して、浮彫前から続く展望台へ彼を連れていく。
小さな扉をくぐって外へ出ると、強風が少女の髪をかき乱した。
「外は風が強いね」
ユイノが、燃え上がる炎のように乱れる真紅の髪を押さえながらつぶやく。
彼らの後から来た女性が、スカートの裾を巻き上げられて悲鳴を上げているが、彼女のコートと、その下の衣服は、ナノ制御を受けているため、逆立ちしても下着が見えるようなことにはならない。
シジマやユイノ、カマラやピアノたちほとんどの少女たちは、そんな機能は必要ないと言ったのだが、おもにヴァイユが絶対に必要だと主張したのだ。
ラピィにいたっては、その議論の意味すら理解していなかった。
「でも不思議だね。どうしてユイノは、この、下着どうなっても見せないぞ機能、がいらないの。絶対に欲しがると思ってたのに。年の割に恥ずかしがりだから――あたっ」
「あんたはいつも、ひと言余計なんだよ――わかってないね。ダンスは、ある意味、足のあげ方、回る速さで、下着が見えないギリギリの動きに挑戦するものでもあるんだよ。二人で踊る時、人の眼は男の襟足と女の裾に惹きつけられるものだからね」
「はぁ、なるほど」
そういって、拳を握って持論を展開する彼女を、少女たちが呆れてみていたのを思い出す。
「でも、アキオ、本当にあんたに似ていて驚いたよ。ちょっとの間、この国にいただけだろう?いったい、どうやったんだろうねぇ」
ユイノは腕を組み、
「しかし困ったね。浮彫じゃ、いくら髪の色を変えても、顔かたちが似ていれば気づかれるし――」
「そうだな」
広場で、塔から降りてきた人々が見ていたのは、彼女ではなくアキオだったのだろう。
「まあ、でも、あれは救世の英雄であって、漆黒の魔王じゃないからいいかね」
そう言って、ユイノは高所特有の強風にさらされる展望台の手すりに向かった。
石畳が敷かれた展望台は、かなりの広さがあり、休むための椅子もいくつか設置されている。
「ごらんよ。ずっと向こうまで見えるよ」
少女は、明るい日差しに眼を細める。
展望台には太陽が当たっているが、さっきまで快晴だった空には、ところどころ分厚い雲の塊が広がり、王都はその影に覆われ始めていた。
「なんだか妙な雲だねぇ」
手すりにつかまったユイノがつぶやく。
「あっ」
突然、吹きつけた強風に押されて後ろに下がったユイノをアキオが受け止めた。
「あ、ありがとう、アキオ」
風はなおも強く吹き続け、人々は、次々と塔内に戻っていく。
しばらくすると、見晴らしのよい展望台に残っているのは、ユイノとアキオだけになってしまった。
「アキオ――」
景色を見ながらユイノが声を掛ける。
「どうした」
「あたし、ちょっと寒くなったよ」
「そうか」
「寒いんだ」
「ナノ・コートの調整で――」
「あんたのコートに入れておくれ!」
少女の要求に応え、アキオは黙ってコートでユイノを包んでくれた。
突然の驟雨に、木陰でアキオのコートに包まれ、雨をやり過ごしたユスラの話は、ジーナ城の少女たちの憧れ、その2なのだ。
その1は、もちろん、アキオが手に入れてくれた髪留めだ。
「考えてみれば、景品の話といい、ユスラさまって、なんか扱いが別格なんだよね」
ナノ・コートの改良をしながら、シジマがぼやいたことがきっかけで、その話題は始まった。
「何をいうか、おぬしだって、牢屋でアキオに抱かれてぐっすり寝たと聞いておるぞ」
「そそそ、それは――」
珍しくシジマが慌てる。
「シミュラさまも、ダラム・アルドス城を出られた最初の夜に、アキオのコートに包まれて眠られましたね」
「うむ。あやつは、よい男だ」
その話を聞きながら、ユイノは、機会があれば、ぜひ同じ経験をしてみたいと願っていたのだ。
「ありがとう、温かいよ」
背後からのアキオの温もりを感じながら、ユイノは礼を言った。
彼のコートから首だけを出して景色を見る。
「あそこに見えるのが――」
「ダルネ山だな」
アキオがシミュラといっしょに越えた山だ。
「向こうに続くのがパルナ山脈だね」
「そうだ」
「ああっ」
思わずユイノが声を上げた。
いかなる風の悪戯か、分厚い雲に切れ間ができて、そこから漏れた太陽の光が、カーテンのようにゆったりとしたドレープを見せて地上に降り注いだのだ。
「なんて綺麗なんだろう」
ユイノのつぶやきに、アキオは微笑む。
かつて、彼女に見せてもらった絵画集には、このような神々しい景色が多かったが、神のいないこの世界では、その言葉自体が存在しないのだ。
「――」
不意にアキオの眼が細められた。
瞬時に、ナノ強化された視覚で雲の切れ間を凝視する。
黒みがかった灰色の雲の中に、不自然な発光が見られたからだ。
その規模と間隔から、自然な発電現象とは思えない。
彼は、しばらく雲を観察したが、やがて視力をもとに戻した。
「どうかしたのかい」
コートの中から、彼の顔を見上げていたユイノが尋ねる。
彼の緊張は、同種株のナノ・マシンを通じて、特に体を密着した際には、少女たちに敏感に伝わる。
その感覚で振り返った彼女が恋人の顔を見ると、彼の眼はクーゲルの眼のように銀色に変わっていたのだった。
クーゲルは、大陸一眼が良いと言われている鳥の名だ。
「いや――気のせいだった」
「そうかい」
シミュラは、再び景色に眼をやり、
「あのエストラル城の東の塔にある幽閉所に王と姫さまが閉じ込められていたんだね」
そう言って、他国の城より、細く高くそびえたつ城を指さす。
「そうだ」
「これから、あの城で王と会ってから、あの――」
そう言って、ユイノは、城とは反対の方角を再び指さした。
そこには、巨大な鉄塔が、わずかに霞んで見えている。
「カヅマ・タワーを見に行くんだ」
「わかった」
「もちろん、その前に、通りの店でお茶を飲むんだよ――慌てることはないだろう、ただの視察だからね」
そういって、ユイノは、アキオのコートの中で向きを変え、彼にきつく抱き着いた。
展望台から人が消えたことと、彼のコートに包まれていることで、彼女の気分は最高潮に高まっていたのだ。