343.小舟
目抜き通りに戻ったユイノは、黙ったまま身体をぶつけるようにアキオの腕にしがみついた。
顔を腕にこすりつける。
まるで十代の小娘のようなはしゃぎ方だ。
さっきまで、三十路前の男に説教していた態度からは想像できない豹変ぶりだった。
アキオは――彼も、しばらく黙って賑やかな通りを歩いていたが、つと立ち止まって、少女を見る。
「ん、どうしたんだい」
「ユイノ、さっき君は、俺を槍から守ろうとしてくれた――ありがとう」
「ど、ど、どういう風の吹き回しだい!」
思いもかけない言葉にユイノが慌てる――が、すぐに納得の顔になり、ついで笑い出した。
「あんたって人は――まったくかなわないよ」
つまり、彼は、さっき彼女がカフールに言った、気の利かない男はたまには言葉にして感謝の気持ちを伝えるべき、という言葉を、そのまま実践してくれたのだ。
少女は、お腹を押さえて笑う。
笑い続ける。
ついには涙が流れた――そして、そのまま彼に抱き着く。
「うれしいよ、アキオ。あんたには嘘がない。あんたは決して気が利かないんじゃないよ」
しばらく恋人の胸に顔を埋めていたユイノは、ぱっと身体を話すと、いつもの調子で言った。
「さあ、そろそろお昼だね。運動もしたし、あたしはお腹が空いたよ。なにか食べないかい」
アキオはうなずく。
「何を食べたい?と聞くのはやめとくよ。あたしが決めていいね――確か、もうちょっとエストラル城寄りに小さな湖があるんだ。通りを左に折れて少し歩けば湖畔公園もね」
その言葉でアキオは思い出した。
確か、その湖の北側にオルトにおける高級住宅街があり、メルク宰相の屋敷はそこにあったはずだ。
「じゃあ、通りで食べ物を買って、そこで湖を見ながら食べるけど、いいね」
そういうと、ユイノは食べ物の屋台に片っ端から顔を突っ込んで、気に入った食べ物を買い始める。
湖畔公園へ向かう四つ角に着くころには、買い込んだ食料は、かなりの量になっていたが、少女は気にせず買い続けていた。
両手に持ちきれなくなった時点で、紙のような素材でできた袋を店で買って、それをアキオが腕に抱えている。
目抜き通りを左に折れ、少し傾斜した道を登って行くと、
「こっち、こっちだよ」
先に立って彼を呼ぶユイノ越しに、煌めく湖水が見えてきた。
坂を登った分だけ見晴らしが良くなっている。
かつてのオルトでは決して吹かなかった、穏やかで優しい風が頬を撫でていく。
「アキオ!」
手を振る少女は、湖に張り出した木製のデッキに作られたテーブルに彼を招いていた。
席に着くと、ユイノは、木を薄切りしたような皿に、食べ物を取り分けて並べ始める。
蓋をした木製の飲み物のカップと手を拭く布も並べた。
「庭園でよくやるピクニックみたいだね」
少女は笑う。
テーブルの上には、少しでも彼女の食指が動いた食べ物が所狭しと並べられていた。
「さ、食べよう――いただきます」
ダンスのおかげで、腹が減ったというユイノの言葉は嘘ではなかったらしく、旺盛な食欲を見せて嬉しそうに食事を始める。
アキオも積極的に食べ物に手を伸ばした。
近頃、少しは味の違いもわかり始めているのだ。
並べられた大量の食べ物だが、彼らに食べ過ぎという心配は必要ない。
現時点での、身体に必要な栄養分と熱量を越えた分は、灰色の拡散以降にカマラが改良を加えたナノ・マシンによって、高濃度栄養体に変換されて、体内に維持されるようになっているからだ。
ラピィの代謝を研究した成果だ
これにより、彼らは、緊急時に1ヶ月は食事をとらずに過ごすことができるようになっていた――
「昼からは、いよいよ螺旋塔だね」
「そんなに登りたいのか」
「前にもいったように、あたしは若いころ――」
言ってから、周りをみて声のトーンを落とす。
「何度かこの国に来たことがあるんだ。街道にアルドスの魔女、シミュラさまがおられたから、その回数は少ないんだけどね――でも、この国は、なぜか決められた場所しか行かせてくれないんだよ。今思うと、ヤル、だったかね。エサが無くても増える家畜。その食料の秘密を知られたくなかったんだね」
言われてアキオは、手にする串に刺さった肉を見る。
「それは、ただのムサカの肉だよ。そっちはセロルっていう鳥肉さ」
ユイノは、形の良い小さな口でぺろりと肉を平らげ、
「天候の変化と、ユスラさまが伝えた土壌改良でこの国の農作物は劇的に豊かになっていくだろうっていわれているし、ノランが王となったサンクトレイカとは国交も復活して豊富な畜産物も輸入されている――っていうのは、ミストラからの受け売りだけどね」
「そうか」
「話をもどすけど、そんなわけで、ここでの興行は宿屋とホールの往復だけで退屈だったんだよ。それだから、窓から見えるあの変わった形の塔へ、いつか登ってみたいと憧れていたんだ」
ユイノは王都にそびえる奇妙な形の塔を見て、その目を湖へ転じた。
心地よい風の吹く水上では、それに乗った水鳥が、空中に静止しているかのようにゆっくりと空を飛んでいる。
「あ、アキオ、あれを――」
ユイノは湖水を指さした。
小さな手漕ぎボートがいくつも水面に浮かんでいる。
「あんなものもあるんだ――」
ユイノはじっと湖面を見つめた。
しばらくすると、大量にあった食べ物のほとんどはユイノが食べてしまった。
「ああ、お腹いっぱいになったよ」
小柄な体のどこにそれだけの食べ物が入るのか分からないが、食後もその折れそうに細い体形はまったく変わっていない。
「そろそろ行こうかね」
グレオというエストラ特産の柑橘系のジュースを飲み干して少女が言った。
「ちょっと待っとくれ」
そういうと、ユイノは公園に設置されている廃棄場所まで走り、袋や皿を投入して帰ってきた。
彼の手を引いて、湖の方へ歩き出す。
「ユイノ」
アキオが名を呼ぶと、少女はにっこり笑って言った。
「方角が違うって?こっちでいいんだよ。これから、あの乗り物に乗るんだから」
そういって、太陽の光を受けて輝く湖面に浮かぶボートを指さした。
アキオはうなずく。
ボートには作戦任務で何度も乗ったことがあった。
空気注入式のゾディアック・ボートに命を預けて、破壊工作に赴いたことも――
湖水公園から少し下るとボート乗り場についた。
小型で木製の手漕ぎボートが並んでいる。
アキオが金を払って、管理者が揺れを抑える小舟に二人で乗り込んだ。
構造自体は、地球の手漕ぎボートとほとんど変わりがない。
アキオは、渡された二本のオールを、ボートにつけられたクラッチに差し込むと、ゆっくりと力強く、澄んだ青い湖水に向けて漕ぎ始めた。
手漕ぎボートは、わずかなクラッチの軋みと、水音以外、音を立てない。
しばらくすると、
「この辺りでいいよ」
ユイノに言われて、漕ぐのを止める。
小舟は陽光に煌めく湖水の中央付近をゆっくり進んでいた。
船体を叩く水音と空をゆく水鳥の鳴き声だけが遠くに聞こえる。
さっと、ユイノが中腰になって体の向きを変え、アキオにもたれてきた。
もちろん、天才ダンサーのユイノであるから、それによってボートが不用意に揺れることはほとんどない。
彼は優しく少女の身体を受け止める。
ユイノは、アキオの身体の上に仰向けになって横たわり、空を見た。
白い雲がいくつかぽっかりと浮かんで、風に乗って流れている。
「なんていい気持ちなんだろう。夢を見ているみたいだよ」
そう言うと、少女は身体を滑らせ、横向きになってアキオの顔に自分の頬を当てた。
アキオが髪を撫でると、猫のように喉を鳴らす――
ボートは青い水の上を滑るようにゆっくり移動していく。
ユイノは手を伸ばして指先を水につけた。
ボートの航跡とは別の、彼女の指によって分けられた水の船跡が、長く尾を引いて伸びていく。
「アキオ――」
ユイノがつぶやく。
「今日、一緒にここに来られて本当によかった。嬉しいよ。ありがとう」
少女は湖面から手を上げ、滴り落ちる水を見つめた。
「なんであたしは――泣きたいほどあんたが好きなんだろうね」
少女の真摯な気持ちに対して、軽々しく返す言葉を持たないアキオは、ただ黙ってユイノを抱きしめるのだった。