342.無頼
「よかったよ。素晴らしい踊りだった」
ユイノが、座ったまま固まったようにふたりの踊りを眺めていたエシャに声を掛けた。
「どうしたんだい」
「あんな――踊りができるようになるんだね」
まだ心ここにあらず、といった様子で少女がつぶやく。
「最後のすごいやつじゃないよ。その前の、あたしと入れ替わってすぐに踊った舞踊――」
「楽しかっただろ。あれが踊りさ」
――人は、時にあまりに強烈な経験をすることで、精神に火傷をしてしまうことがある。その記憶が原体験となって、以後の人生が決まってしまうような……
かつてミーナが、そうアキオに言ったことがある。
その言葉の意味を、当時の彼はよく理解できなかったが、いま、まさに目の前の少女が、人生を方向付ける焼き付けを行われてしまったことが彼には分った。
「あたし、もっと踊りがうまくなれるかな」
「もちろんさ、あんたの――」
「おい、おまえ」
ユイノの言葉を遮って、男の胴間声が広場に響いた。
顔をあげると、大きな男が、仲間とともに、積みあがった貨幣ごとエシャの帽子を踏みつけながら彼女を睨みつけていた。
「誰に断って、ここで商売をしてやがる」
「ああ、来たね。あんたたちのような輩が出てくるのは織り込み済みさ」
「ユイノ」
「はい」
穏やかなアキオの声が、普段より冷たい声音で発せられるのを聞いた少女は、反射的に素直な返事を返す。
そっと恋人の顔を見た。
彼の表情はいつもと変わらなかったが、彼女にはその違いが分かった。
アキオは怒っている――
たぶん、本人は気づいていないだろうけど。
あたしたちの踊りの評価であるお金と、エシャの帽子を踏みつけられたから。
彼女は、気の毒そうに男たちを見た。
彼らは十五、六人いて、全員が屈強な大男ぞろいだった。
さすがに暴力で人を恫喝しようとするだけのことはある、が――
漆黒の魔王相手では、力自慢の素人が何万人いても敵うはずがない。
「君は――」
そう言いながら、アキオは、すっと間の取れない動きで男に歩み寄り、身を屈めた。
「おう、謝るのか、いい心がけだ。だからといって――」
ならずものの声などまったく気にせず、彼は男の薄汚れた靴先を掴むと、何の値打ちもない糸くずでも捨てるように上に跳ね上げた。
おそらく体重130キロを超える大男は、見事に空中を飛び、遥か後方の噴水に落ちて、高い水柱を上げる。
アキオは、そのまま貨幣を一枚手にすると、ユイノに向けて指で弾いた。
まっすぐに飛んできたコインをユイノが掴む。
「それで的当てを。ここは――」
そういって辺りを見回し、
「俺が排除する」
「ア、アキオ――」
殺しちゃだめだよ、という言葉を何とか飲み込んだユイノにアキオが微笑んだ。
「静かにさせるだけだ」
「わかった。じゃあ、行くよ」
そういって、ユイノはエシャを立ち上がらせると、通りを歩み去る。
リーダーを失った男たちは、ユイノの背とアキオの顔を見比べて、どうするか迷っているようだ。
そこへ、ずぶ濡れになりながらも怪我一つない男が走り戻ってきた。
衛士カフールが、ボザンヌ噴水広場で喧嘩騒ぎが起こったとの知らせを受けたのは、少し前のことだった。
だが、その時、彼は果物売りと客との口論を仲裁しているところで、手が離せなかったのだ。
どうにか、果物の返品を納得させると、急いで、相棒のサジウスと共に広場に向かう。
シャルラ王が復帰されてから、食料状態も良くなり国の治安も改善した。
それは、王都オルトにとっては良いことであったが、街中において大きな争いは起こらなくなったため、巡回兵士の数も減らされて、彼らの仕事は結果的に増えることになったのだった。
――広場での喧嘩?どうせ、つまらない縄張り争いなのだろうが、喧嘩の規模が大きければ、自分とサジウスだけで収められるかは心許ない。
そう思って広場に入ると――
噴水の前で、大きな男が石畳に座って何かしていた。
この辺りを縄張りとする、ならずもののゴリスだ。
カフールも、何度か、この男の犯罪の尻尾をつかんで牢屋に入れてやろうとしたのだが、いつも身代わりが出頭してきて本人を捕まえることはできなかった。
近づいてみると、そのゴリスが、一心不乱に貨幣を布切れで磨いている。
残りの男は、きれいになった貨幣を積んで数を数えていた。
それは、昼前の陽光に照らされて、なんとものどかな風景だった。
「ちょっといいか?喧嘩があったと聞いたんだが――」
カフールは、昼食の時間に備えてセロルの肉を焼いていた露天商の男に尋ねる。
「喧嘩なんてなかったよ」
「だが、そう報告を受けてやって来たんだ」
「ああ、そういえば、誰か大声で怒鳴ってたな。あれを喧嘩だと思って、あんたに知らせたんじゃないか」
言いながら、男が串に刺した肉をひっくり返す。
「そいつらは、どこにいった」
「そこにいるでしょう」
店主は石畳に座る男たちを指さす。
「あいつらは何をしているんだ」
「金を数えているんでしょうな」
「何があったか教えてくれるか」
カフールの質問で、男が教えてくれた経緯はこうだった。
この辺りの屋台の配置を差配するゴリスが、広場で勝手に踊りを披露して金を稼いだ3人組を締め上げようとやってきたらしい。
3人組とは、男ひとりと少女2人のダンサーだった。
女2人が去り、残った男にゴリスが詰め寄ると――足を掴まれて噴水に投げ込まれ、戻ってきて男に殴りかかろうとして――おとなしくなってしまったのだという。
「おとなしくなる?」
「はあ、よくわからんのですが、肩をとん、と叩かれただけで、黙って男の話を聞くようになって――他の連中も、友達に挨拶するように肩を叩かれると、じっと男の話を聞いて、それから石畳に座って金を磨いて数えだしたんですよ」
「その男は?どこへ行った」
「あそこにいますよ。ほら」
焼肉屋の屋台の主は広場を指さす。
そこには、無防備にならずものたちに背を向けて、噴水を眺める男が立っていた。
カフールが近づくと、彼より先に、小柄な紅髪の、彼が見たこともないほど美しい少女が声をかけながら走り寄ってきた。
美少女は、年下の少女を連れている。
その栗色の髪の少女も、少し薄汚れてはいるが美しかった。
世の中には、こんなに美しい女たちが存在するのだ――驚く彼の耳に、少女たちの会話が飛び込んでくる。
「取れたか」
「もちろんだよ。大勢の前で、エシャが3つの投げ玉で落としたから、店の親父も文句をいえなかった」
そう言って、少女は年下の少女の栗色の髪を撫でる。
彼女はその胸に大事そうに包みを抱きしめていた。
「ありがとう。ふたりのおかげで、これをカシャに渡すことができるよ」
「あんた、自分が欲しかったんじゃなかったのかい」
「あたしも欲しいけど、弟が欲しがっているんだ」
「そうだったのかい」
「ちょっと、あんたたち」
カフールが声を掛けた。
「あんたは何だい」
「衛士だ。名はカフール」
「そりゃ、恰好を見ればわかるけどさ――で、そのカフールさまがいったいどんな用だい」
「ちょっと話がききたい」
そう言って、
「特におまえ――流れソマルだな」
ソマル、という言葉にアキオが反応する。
それは、シスコが育った集団、集落の名だ。
なぜ、その名がここで出てくるのか、アキオが尋ねようとして――
それより早く、ユイノが口を開いた。
「ちょっとあんた。おまえって誰にいってるんだい。場合によっちゃ承知しないよ」
カフールは、燃えるような紅い髪、大きな目をした美少女に見上げられ、威勢のいい啖呵を切られて眼を白黒させる。
「い、いや、あんたじゃなく、その子供ですよ。彼らは、この国への入国が緩やかになってから、外国からやってきて王都近くに住み着いた流れ者なんですよ。言葉のなまりでわかるんです」
「そうか――」
アキオはつぶやき、
「それについてシャルラはどういっている」
次の瞬間、アキオは軽くバックステップした。
衛士ふたりが、瞬時に肩に担いでいた槍を構えて突き出したからだ。
もちろんアキオには当たらない。
「アキオ!」
ユイノが叫んで、槍とアキオの間に身体を入れる。
少女は彼の顔を見た。
意外なことに優し気な微笑みが浮かんでいる。
「すまなかった。君たちの王を侮辱するつもりはない」
アキオが素直に謝罪する。
槍が引かれると、ユイノが足を開き、腰に手を当てて毅然として言った。
「あんたたちにいっておく。あたしの名はユイノ・ツバキ。そして、この人の名は――」
少女の言葉を聞いて、ふたりの顔色が変わった。
「失礼いたしました」
槍を石畳に置き、膝をつく。
やはり、シャルラ王は、今日、彼ら二人がくる通達を兵士たちに出していたのだ。
「しばらく待っとくれ」
ユイノはそういって、眼を丸くしているエシャを見る。
「さあ、あんたは早くそれを弟に持っていってやりな」
「うん」
「あ、ちょっと待って」
駆けだそうとする少女を引き留め、
「あのお金はあんたが稼いだもんだ。持っていくといい」
そういって、大男に向かって尋ねる。
「あんた、名前は」
「ゴリスっていいやす」
「で、いくらになったんだい、ゴリス」
「は、はぁ、いま8回目の数えなおしをしたので間違いはないと思うんですが――」
そう言って、裏返ったような声で金額を告げる。
「そ、そんなにもらえないよ」
「あんたが稼いだんだよ」
「姉さんたちの踊りのお金だ」
赤髪の美少女は少し考えて、
「わかった。じゃあ、こうしよう。一番安い硬貨を全部持って帰るんだ。どうだい」
「それなら――」
「あんた、10アンギル硬貨の山を持ってきてくれるかい」
男が大きな手にいっぱいの硬貨を持ってやって来た。
1アンギルで、さっきの的当てが4回できる。
「これじゃ持ちにくいね。袋かなにかないかい」
男が合図すると、ついて来た手下が、ポケットから布らしきものを出すが、
「なんだい、この汚い布は――」
ユイノに拒絶される。
「あんたは?何かないかい」
尋ねられたカフールが、立ち上がって、懐からきれいに畳まれた布を取り出した。
「今朝、妻が用意してくれたものなので、たぶん大丈夫かと――」
それを見てユイノが満面の笑みを浮かべ、
「おお、いい奥さんをもってるじゃないか。あんたには勿体ない人に違いないね。大事にするんだよ。あんた気が利かなさそうだから、たまには、言葉にして感謝の気持ちを伝えるんだよ。それだけで女房はうれしいもんだからね」
そう言って、衛士の背中をバンバン叩く。
自分より10歳は若い少女に妻の扱い方を教えられて、カフールは眼を白黒させている。
「すまないが、もらっていいかい?」
「もちろんです」
「ありがとう」
ユイノは、ゴリスから受け取った硬貨を器用に布で包むと、エシャに渡した。
「落とすんじゃないよ」
「ありがとう、ユイノ姉さん、それと旦那さんも」
「さあ、行きな」
少女は走り出した。
踊るような足取りで駆けていく。
のちに――成長したエシャは、ユイノとともに舞姫として、大陸全土を巡ることになるのだが、今はまだ、自分の集落に帰る道すがら、踊りの余韻が抜けずに、覚えたばかりのステップを踏んでしまう少女に過ぎなかった――
少女が駆け出すと、その背中が小さくなるまで見送ったユイノが、アキオに抱き着こうとし、ゴリスやカフールたちに見られているのに気づいて踏みとどまった。
小さく咳をして、カフールに言う。
「すまないけど、その金をまとめて城まで運んでおいてくれないかい。いずれ、あの子に渡してやりたいからね」
「わかりました」
最敬礼するカフールにユイノは微笑んだ。
「王さまには、予定通りの時間に城に出向くと伝えておくれ――それとあんた」
ゴリスを指さし、
「あんまり阿漕なマネをするんじゃないよ。時たま、あたしと――」
今度はしっかりとアキオの腕に抱き着く。
「この人が見に来るからね」
「わ、わかりやした」
「じゃ、頼んだよ。行こう、アキオ」
小柄な少女に手を引かれるまま歩き出すアッシュグレイの髪の男を、衛士とならずものたちは呆気にとられたように見送るのだった。
「ゴリス、お前、あの人に何をされたんだ」
カフールが尋ねる。
「な、何でもねえよ」
大男は、似合わない態度で頭を振った。
「ただ――」
「ただ?」
「俺たちはあの人に3回は殺されたな」
カフールは吹き出した。
「お前は生きてるじゃないか」
「だから!」
男は身体を僅かに震えさせて言う。
「だから、恐ろしいんじゃねぇか」