340.栄都
「ちょっと待っとくれ」
アキオが、街門に向かおうとすると、ユイノが引き留めた。
振り返った彼を見て、なんとも恥しそうに笑う。
「ダメ、かね」
そう言って、青い目で白い石壁を見あげる。
アキオの表情は変わらない。
なおもユイノは彼を見る。
「――」
アキオのもの問いたげな顔を見て、ついにユイノが吹き出した。
「もう、察しとくれよ。あんたがシミュラさまにやったみたいに、あたしも壁を越えたいんだよ」
「だが――」
あの時と違って、今回は王の招きを受けて王都に来たのだろう、と言いかけて、アキオはやっと気がついた。
どうやら、そういう問題ではないのだ。
彼は、ユイノの膝に手をやって軽々と抱き上げ、そのままジャンプした。
何度か壁を蹴って、頂上へ向かう。
「わぁっ」
驚いたユイノは、一瞬、目を瞑るが、すぐに目を開けて、
「すごいねぇ。シミュラさまには、景色がこんなふうに見えてたんだ」
長い足をパタパタさせてはしゃぐ。
街壁の頂上に立つと、少女は彼に抱かれたまま、陶然とあたりを見回した。
「ありがとう。いい景色だね――」
アキオの首に唇を当てる。
そのあとで少し顔を赤らめ、
「あたしの本当の歳を考えたら、こんなことを頼んだり、はしゃいだりするのはおかしいんだろうけど――」
アキオを見る。
「歳――君は君だろう」
「いいのかね」
「やりたいようにやるさ」
「そう、そうだね。ありがとう――」
一陣の爽やかな風が吹きつけ、舞姫の真紅の髪を吹き上げる。
恋人を見つめていた少女は、遠くを見る彼の視線を追いかけた。
速い風に乗って動く雲が王都の上に濃い影をつくり、ゆっくり横切っている。
彼の首につかまりながら、ユイノが叫んだ。
「あ、あれは――」
「螺旋塔だな。前に来たんじゃないのか」
「王と会ったのは、街の外の別邸なんだよ」
そういって、少女は手で目の上に庇をつくって塔を見る。
「あんなに大きいんだ。登るのも大変だろうね」
「行けばわかるさ、降りるぞ」
ユイノの返事を待たず、アキオは街壁から飛び降りた。
どういう工夫なのか、ほとんど衝撃を与えず柔らかく着地すると、少女を下ろす。
「ありがとう、アキオ。さあ、行こう、こっちだよ。今日はね、月に一度の廿日市の日なんだ」
彼の腕をとって、走り出さんばかりの勢いで通りへ向かうユイノを見て、アキオは苦笑する。
外見はもちろん、表情も行動も、どうみても10台の娘にしか見えなかったからだ。
肉体年齢ではなく、精神の瑞々しさが本当の若さだと、前に彼女に言ったことを思い出す。
もっとも、今のユイノは肉体も17歳なのだが――
路地から飛び出るように大通りに出た。
「わぁ」
ユイノが小さく叫ぶ。
行きかう多くの人々、賑やかな通り、そこに並ぶ様々な露店。
アキオの眼に映る街は、以前に来た時の様子、そのままだ。
だが――そこには決定的な違いがあった。
人々の表情が底抜けに明るいのだ。
露店から呼びかける声にも、以前にはなかった力強さがある。
「行こう」
踊るような足取りで、小柄な舞姫は通りに足を踏みだした。
「こんなに賑やかな場所に来るのは久しぶりだよ」
彼の腕につかまるように歩きながら、ユイノは、これまで見せたことのない、明るく幼い笑顔になっている。
「あ、アキオ、あれだよ。あれ」
ユイノが、人だかりのしている一角を指さし、彼を連れていく。
それは、的当ての露店だった。
遠目に見ても、かつてユスラのためにテルベ川沿いで、髪留めを手に入れた店と同じシステムと――おそらく同じ細工を施しているようだ。
明らかに軽い投げ玉と、棚に固定された高額な的。
「あたしも、あの襟玉石が欲しい!」
ユイノが、最上段に人目を引くように置かれた襟飾りを可愛くねだるが、彼は首を横にふった。
あの時はやりすぎたのだ。
あの店にしても、安い景品は落ちるようになっていた。
高額な景品を持っていかれないように工夫するのは、こういった店では必要なことなのだろう。
「欲しいのなら買えばいい」
アキオが眠っている間に行われた交渉で、ジーナ城には、3大国から莫大な戦時賠償が行われ、彼らは大陸一の金持ちになっているのだ。
もちろん、それらは、これから行われる研究の資金として当てられるためのものだが、少女たちがものを買うぐらいは自由にすればいい。
この世界には、未だ、まともな特許制度は整備されていないが、シジマとカマラが現行の科学に影響を与えない程度の発明品を、エストラ経由で各国に販売し始めているため、そちらからの収入もある。
「そういう問題じゃないんだよ」
ユイノは、がっくりと肩を落とした。
彼女としては、アキオが、わざわざ苦労して手に入れてくれた景品が欲しいのだ。
仲間の少女たちの中でも、ユスラの髪留めは、別格のものとして羨ましがられているのだから――
「せっかく空いてきたのにねぇ」
店を見ながらユイノがため息をついた。
どういう加減か、一時的に客が少なくなって、的当てに挑戦しているのは、薄汚れた帽子をかぶった子供一人になっていたのだ。
彼女が見守る中、少年は4つある投げ玉を器用に投げて、中壇のガラス玉に2個連続して当てていた。
「あ、あれは――」
「知っているのか」
「あのガラス細工は、カマラが作ったものなんだよ」
「カマラが――」
「ガラス玉の中に、メナム石の破片をいくつかいれてあってね、上下左右に傾けることで、いろんな光の模様をつくることができるおもちゃなんだよ。値段はそれほどしないんだけど、人気があるからなかなか手にはいらないらしい。名前は確か――メナム・ブライト」
少年が3個目を当てると、ついに景品は下のクッションに落ちた。
「やった」
飛び上がって喜ぶ少年に、大男の店主が言う。
「惜しかったな、坊主、こいつは3個までで落とさないとダメなんだ」
「3個で落としたじゃないか」
「いや、俺には4個目で落としたように見えた。手許にひとつも残ってないだろう」
「一番最初は違うやつを狙ったんだよ」
「証拠は――ないだろ。だったら、ダメだな」
「どこの露店も変わらないねぇ。あいつら、まだ、こんなことをやってやがるのかい。周りに客が少ないと、すぐにこうやって景品の出し惜しみをするんだ」
ユイノはつぶやいて、男たちの前に一歩踏み出した。
「ちょっと待ちな。あたしは最初から見てたけど、その子は、確かに3つで落としたよ」
「証拠がないな」
「あんた、あたしが嘘をいっているとでも――」
アキオが少女の肩を軽く抑える。
「もう一度当てさせればいい」
彼の言葉の裏の意味を知って彼女は満面の笑みを浮かべた。
少年に、もう一度挑戦させて、彼女が密かにサポートすればいいと、彼女の愛しい人は言っているのだ。
「そうだね」
ユイノはうなずき、
「あんた、名前は」
懸命に抗議をしている子供にユイノが声を掛けた。
「――エシャ」
澄んだハイトーンの声で答える。
エストラ特有のものだろうか、変わった名前だ。
「もう一度、的当てをしてごらん。今度は皆見ているから、こいつも、ごまかしがきかないだろう」
ユイノとのやり取りを聞いて、店には人が集まってきていたのだ。
「ダメなんだ」
「なんでだい」
「もう――お金がない」
「少しぐらいの金なら――」
「施しは受けない」
硬い表情でいう少年にユイノは微笑んだ。
「いい心がけだね――でも、欲しいんじゃないのかい、あれ」
少年は、壇の上のガラス玉を見る。
「欲しいけど、施しはいらない」
薄汚れてはいるが、よくみると整った顔をしている少年は、きっぱりと断言した。
「自分の力で掴めないものは、手にいれたらいけないんだよ。この金も、いろんなところで手伝いをした手間賃をためたものなんだ」
「とんだ意地っ張りだ――でも、困ったねえ」
不意に、少女の小さな手がアキオの手でくるまれる。
〈その子供に稼がせればいい〉
アキオの指が話し始める。
〈え〉
〈君が一緒に踊れば、それぐらいは稼げるだろう〉
〈その手があったね〉
ユイノは目を輝かせる。
うなずく舞姫の紅い髪を見下ろしながら、彼の脳裏には、かつてヒビト・ヘルマンが、彼と出かけた市場で、ブルースハープを吹いてひと稼ぎした光景が浮かんでいた。
「よし、あんた、ちょっとこっちへ来な」
ユイノが少年の手を引く。
その勢いで、大きい帽子が頭から落ちた。
途端に、栗色の長い髪があふれて背中で踊る。
「おやまあ、女の子だったのかい」
「女じゃいけないのかい」
帽子を拾いながら、エシャが怒ったような声を出す。
「あんた、踊ったことは」
少女の言葉に頓着せず、ユイノが尋ねる。
「え」
「踊りはできるのかい」
「祭りで少し踊ったことなら――」
「なら、いい。こっちへ来な」
「なんだよ」
「あんたに稼がせてやろうっていうのさ」
こうして、王都オルトの廿日市始まって以来の、劇的な露天舞踊が始まったのだった。