333.悔恨
アキオはセント・バートルの街を駆けていた。
人気のない路地を走り、人通りのある道を横切る時は、高く跳ねて壁を走り人を避ける。
彼が気づいた時、アカネはすでに病院を後にしていた。
なぜ病院を出たのかよく分からないが、今の状況で少女が向かうとしたら、十中八九彼女の家だろう。
どの道を使って家へ向かっているか分からないので、とりあえず最短経路を選んでいるが、夕方が近づいて、どの通りも人通りが多くなっているため、あまり速度を上げられなくなってきている。
「軍曹!なぜです?なぜ、自分が彼女を解放するまで待たなかったんですか。自分がすぐ後ろに近づいているのは分かっていたはずです」
少女が中庭から走り去るのを見て、マミロッドが上官に近づきながら不平を言った。
「なぜ?計画どおりの行動だろう」
「いや、あの時、アキオの様子は明らかにおかしかった。彼は撃つことをためらっていたのに――」
「それがおかしいんだ。あいつは戦闘機械。人の形をした武器だ。そんな奴が撃つことをためらうなんて考えられない――」
「あなたは彼を何だと思ってるんです!」
一気にまくしたてる部下の言葉を聞き流す。
「とにかく、だ。我々に彼女は必要ない。必要なのはヘルマンの血だけだ」
自分の言葉が届いていないことに気づいたマミロッドは、黙り込んだ。
深いため息をつく。
「では、次の仕事だ」
しばらく部下の作業を見守っていたサルヴァールが面倒そうに言う。
「奴との交渉は――俺の役目だな」
「アキオ?アキオはどこに行きましたか?」
マミロッドが、少年の姿が見えないことに気づいた。
「いないのか?」
「さっきまでここにいたんですが――彼女が出ていったことに気づいて、探しにいったのでは?」
「まさか、そんな意味のないことをあいつはしないだろう。俺たちに必要なのは、彼女ではないことはわかっているはずだ」
サルヴァールは、そうつぶやいたが、何か思いついたように黙り込む。
やっとアパートが見えてきた。
ここに来るまでに、想像以上に時間がかかった。
道を往来する人が多かったためだ。
正面から見える玄関の扉は開いたままだ。
アキオは階段を使わず、そのままジャンプして二階通路の手すりを飛び越え、玄関から部屋に入った。
アカネは――いた。
少年は、いつものように少女へ近づこうとし――
「来ないで――化物」
アカネに拒絶される。
少女が口にしたのは、極東の研究所から連れ出されて以降、いや、それ以前に研究所で戦闘訓練を受けているころからの彼の二つ名だ。
聞きなれた言葉ではあるが、優しい少女の唇からこぼれ出るのを聞くと不思議な気持ちになる。
「近づかないで!人殺し」
アカネが叫ぶ。
これも彼には馴染みの言葉だ、今日だけで数十人の兵士を倒しているのだから、完全な事実でもある。
しかし――初めて向けられる少女の、あからさまな憎悪の表情にアキオは怪訝な顔になった。
「よくも……よくも!」
アカネが背後に隠していた腕を前に回すと、その手にはP99が握られていた。
おそらく、シンメイ工業の男たちが置いていった銃だろう。
アキオの眉がわずかに顰められた。
彼女はこの銃を手にするために、アパートに戻ったということになるからだ。
何のために?
事態は、完全に収拾され、敵は壊滅したのだ。
「アキオ、あんた殺したね」
アカネの眼から涙がこぼれ、床に落ちた。
「よくも、よくも……あたしの未来を、あたしの夢を、あたしの心を――死ね、化物」
少女の大きな瞳に鬼火が宿り――
アカネの手にした銃が火を噴いた。
テーザー銃で練習を重ねたはいえ、所詮は素人の射撃だ。
戦闘の化身であるアキオが避けられないわけがない――はずだった。
だが、一瞬、アキオの動きは止まっていた。
それでも、銃声とともに体を捻って直撃を避けると、次の瞬間、アカネの前に立って銃の撃鉄に指を挟んで、遊底を掴む。
手首を捻って銃を取り上げ、ブカブカのジャケットのポケットに落とし込んだ。
「やめて、離して。あんたを殺して、あたしも死ぬんだ!」
アキオは少女の言葉にとりあわず、そのまま横抱きにすると部屋を飛び出した。
階段を数歩で飛び降りると、凄まじい速さで走り出す。
「や、やめ――離して……」
はじめのうち、アキオを叩こうとしていたアカネは、流れる景色の速さに恐怖を感じて彼の腕にしがみついた。
アキオは走る。
全力に近い速さで走る。
今は、もうすれ違う人影など気にしない。
ただ、人に当たらないようにだけ気を付けて、凄まじい速さで走っていく。
地面を跳ね、壁を蹴り、通路を飛び越えて。
やがて――
建物の中に入ったアキオは、眼を閉じたままのアカネを下ろした。
少しよろめきながら立った少女は、目の前に信じられないものを見た。
黒髪の青年が、灰色の軍服の男に食ってかかっていたのだ。
「だから、僕は、独りではトルメアであろうとサイベリアであろうと、どこにも行かないっていってるだろう。逆に、彼女さえ一緒で、平和に暮らさせてくれるなら、どこへでも行く、と」
「あ、あ、あ……」
見る間にアカネの目に涙が溢れ――頬を伝って流れ落ちた。
「ヒビト!」
その声に振り返った青年が少女に駆け寄る。
「アカネさん」
抱き合う二人を、アキオは黙って見つめている。
「お前が連れてきたのか」
背後から近づいたサルヴァールが尋ねた。
彼はうなずく。
「お前にしては良い判断だ。ヘルマンは、なかなか頑固で、ひとりでは動こうとしなかったからな、だが――」
アキオを見る。
「なぜ彼女を連れてきた」
上官の質問に、アキオは少し考え、喉から無理やり言葉を押し出すように答えた。
「番は、共に、いるべき」
サルヴァールはじっと彼を見つめ、
「どうして、すぐに撃たなかった」
ふたたび尋ねる。
少年は答えない。
「奴を殺せとはいっていない。怪我をさせるだけだ。それはわかっていただろう」
彼らの符丁で、攻撃の前にアキオと名を呼べば、殺さず確保しろ、という意味なのだ。
「撃てなかったのか、それとも撃ちたくなかったのか、あいつを――」
口調は厳しかったが、心なしかサルヴァールの眼の光は優しくなっている。
「それはなんだ?」
彼は、アキオの足元に血だまりができていることに気づいた。
「珍しいな、負傷したのか――」
少年は黙ったままだ。
「マミロッド!」
「はい」
いつものようにベレー帽をかぶった兵士が走って来る。
「アキオが負傷している。衛生兵を呼べ」
「分かりました。アキオ、来るんだ」
「ヒビト、ヒビト――」
泣きながら、アカネは長身の青年の胸に顔を押し当てる。
「でも、なぜ――」
「生きているかって?アキオのお陰さ」
「わからない!」
「さっき指揮をしていたネオ・ネイシアの諜報員、彼は軍部所属らしいが――彼に僕が死んだと思わせる必要があったんだ」
「どうして」
「ちょっと事情があってね。僕がこの間売った技術のことで、亡命を阻止される可能性があったんだ。国内法をもとにね。トルメアは建前に弱いから――それはあとで話すよ。アキオたちは、そのことを知っていて、敵を壊滅させたあとで、あえて僕を殺したように見せかけたんだ。そして彼と部下数名をわざと逃がした」
「でも、でも血があんなに」
「僕も驚いたよ。まさか本当に撃たれるなんてね」
あまり驚いたようすもなく青年が笑う。
「やっぱり撃たれたのね!」
驚いたアカネが、ヒビトの身体のあちこちを触る。
「あー、アカネさん?さっき、衛生兵に止血シートを貼ってもらったけど、まだ痛いからお手やわらかにね。腕の外側や足の外側といった体の何箇所かを撃たれたんだ。血を流すためにね」
「大丈夫なの」
「医者の話だと、すぐ治るらしい。彼らが急いで逃げ出してくれたから、止血も早かったしね。なによりアキオは射撃がうまい」
「そう、そうだったの……」
はっと少女は顔を上げ、
「――あたし、あの子にひどいことを。ちょっと待ってて!」
アカネは、さっきまで少年と話をしていた肌の浅黒い男の許に走り寄った。
「あの、彼は――アキオは」
「ああ、怪我をしたので治療を受けています」
「え、まさか、あたしの撃った弾が――」
「それはありえません。あいつは……」
素人に撃たれるような奴じゃない、という言葉をサルヴァールは飲み込んで、
「不死身ですから」
「いいえ、いいえ」
アカネの眼から涙が溢れる。
さっきまで、あの子は無傷だった。
あたしが、あの子を撃ったから――
「彼に聞いてみましょう。マミロッド!」
そういって、彼は黒いベレー帽を被った男を呼んだ。
「どうだった」
「思ったより傷が深かったので、兵営へ送り返しました」
聞き覚えのある声だった。
さっき、彼女の腕を掴んでいた兵士だ。
「傷が深い!あたしが、あたしが――」
「いいえ、お嬢さん。あなたのせいじゃありませんよ。あれほど激しい戦闘だったんです。傷ぐらい受けますよ。大丈夫。命に別状はありませんからご安心を」
「アカネさん」
ヒビトが後ろから彼女を抱きしめた。
「アキオは大丈夫だよ。強い子だ。あとは、彼らに任せるんだ」
「でも、あたし、お礼もお詫びも、さよならもいってない」
ベレー帽を被った男が、優しく微笑んだ。
「では、お嬢さん、こうしましょう。わたしをアキオだと思って、別れをいってください。一言一句たがえず伝えることを誓います」
「――わかりました」
そう言って、アカネは目をつぶって、胸に手を当てる。
「アキオ、ごめんなさい。いくら謝っても謝り足りないことを、あたしはしてしまった。あたしが撃った弾丸が当たったことを、あたしは知ってる。あんたが、一秒でも早くあたしをヒビトに会わせたくて、傷ついた身体であたしを運んでくれたことも。あんたは、あんたは化物じゃない。人間よ。強く、優しい――ありがとう、アキオ」
目を開けたアカネは、大柄な軍人がベレーを取り、それを胸に当てて深く頭を下げるのを見た。
「ありがとう、お嬢さん。今のあなたの言葉こそ、彼に一番必要なものでしょう。必ず伝えます」
「お願いします」
ヒビトはアカネの肩を抱いて、頭を撫でる。
彼は振り返ってサルヴァールに尋ねた。
「それで、いつ、トルメアへ連れて行ってくれるんだ」
「荷物をお持ちになれば、すぐにでも」
青年の人となりを知って、サルヴァールの態度は随分と軟化している。
「荷物、か。君は何かあるかい」
ヒビトがアカネを見る。
「ないわ。あなただけ」
「僕も、君と――これだけだな」
天才科学者は、ポケットから銀色の方位磁石を取り出した。
「では、すぐに出かけたい。もう、この一夫多妻の街には居たくないんだ。妻は一人いればいいからね」
「わかりました」
「すぐになくなるわよ。こんな制度」
そう言って、アカネは微笑んだが――
実際は、ネオ・ネイシアから、その制度が消えるまでに、さらに200年近くの時を待たなければならなかった。
「文化的成熟の成果?」
国家併合後の会議で、いかにその制度がニュー・ネイシアの中で重要な文化かを熱弁する識者に対して、アルメデ女王は言下に否定した。
「そこに文化はありません。廃止」
苛烈な女王の鶴の一声によって、その制度はなくなったのだった。
「あなた、何をしているの。お仕事?」
「いや、これは……なんというか、趣味、僕の夢だよ」
円筒の書類入れに蓋をしながら男が言った。
「あなたの夢――トルメア王立科学研究所の所長になったのに、まだ夢があるの?」
「うん――おいで」
ヒビトはデスクからソファに座りかえ、アカネを呼んだ。
先に自分が座り、身重の妻を横に座らせる。
彼女が腰を下ろすと、彼はアカネの控えめに膨らんだ腹に手を当てた。
「この中に僕の未来がある」
「まあ――」
アカネが甘い笑顔になった。
「その未来を守ってくれ、与えてくれたのは彼だ」
彼、それが誰を指すかは彼女にも分かる。
「僕も彼の戦いを見た。あの時の戦闘で、巨大な武器より、動きの鋭い小型の兵器が有効だと悟ったんだ」
「本当にそうだったわね」
「だから、僕は、将来この国を守る守護神となる兵器をつくりたい。そして、できれば、おそらく戦い続けるであろう彼の味方になり、彼と共に世界を守って欲しい。まだ原型にもなっていないけどね」
そういって、筒から取り出した大きな紙をソファの前のテーブルに広げる。
細かく指示が書き込まれた設計図だ。
丸まらないように、ガラスの紙押さえを四隅に置いた。
それは、ガラスの中に、アカネがデザインした研究所のマークである、銀色の方位磁石が封入されたものだった。
「技術的な問題で、まだ一つ一つは大きくて実用にはならないが、研究を続ければ、きっと役に立つ、人を守る道具になるはずだ」
アカネは、設計図の端に書き込まれた設計概念を読む。
「たくさんの小さいロボットが集まっていろいろな形になるのね――素敵。小さくて強い。まるでアキオみたい」
アカネは遠い眼になり、
「それで、名前はどうするの。まだ書かれていないけど」
「それは決めてある。君が教えてくれた話にぴったりの名前があった」
ヒビトは笑顔になり、言った。
「ホイシュレッケさ」