330.血脈
「正確には主席研究員だった、だね。帝都ムガルの研究所は辞めてきたんだ」
事もなげに言う青年に、アカネは言葉に詰まる。
「で、でも、武器研究所って軍の施設でしょ。そんな簡単に辞められないんじゃ」
「正直にいうと、先日死んだ父が主席研究員だったんだ。僕は、その穴埋めに一時的に入所させられただけで――だから締め付けも緩かったんだな」
「そう――なの?」
アカネの疑い深そうな表情に、ヒビトは苦笑する。
当たり前だ。
親子だからといって、息子が主席研究員の跡を継ぐ、などということは、普通ありえない。
だが、彼の場合はあり得るのだ。
呪われた血のせいで――
「まあ、辞めたといっても、いきなり辞職願を出したんじゃなくてね、一応、転属願いを出して受理はされたんだよ。ほら、この近くのセント・バートル武器研究所にね」
「このお金は?」
「ああ」
青年は笑顔になる。
「これは、この街に本社と研究施設のある会社――」
ヒビトは、アカネも知っている家電企業の名を挙げ、
「そこに出かけて、父から教えてもらった技術を秘密裏に売った金さ。契約は早かったんだけど、馬鹿な若造を騙して情報だけ奪おうとする会社との駆け引きで一日かかってしまった――ついでにいっておくと、その技術は、軍と全く関係のない個人的な発明だから、僕が軍に捕まることはない」
「研究所に働きに来たんでしょう?仕事を探しに来たといってたのは?一文なしで倒れてたし」
「さっきもいったように、僕はお飾りの主席研究者だからね。中央研究所から、こっちに来て、そのまま消えても、たぶんそれほど熱心に探されないと思うんだ。入所してからも、すぐに休暇願を出して家にいたから、機密情報も知らないしね」
ヒビトは微笑む。
「だから、昔風の生活様式が残るセント・バートルに来て、何か他の職業について、素敵な女性を見つけてのんびり暮らそうと思ったんだけど――」
彼が今、少女にした説明、それは間違ってはいない。
父親の代わりの、お飾りの研究員――
それが表向きの彼の存在だ。
短期間、働いた研究所でも、そう見えるよう努力した。
父や伯父と違う、凡庸な人間であると――
だが、事実はそうではない。
ヒビトは、幼いころから屋敷に持ち帰られる父のデータを解析し、研究を推し進める手伝いをしてきた。
しかし、自分以上の才能はあるものの、おっとりとした性格の息子を、軍の人間関係に巻き込みたくなかった父は息子の才能を巧妙に隠したのだった。
彼の父、シヅマ・スズキ・ヘルマンも、弟カヅマ同様、癖のある天才だった。
ヘルマンの血統、天才の血筋――それに対して世間が抱く信仰にも似た崇拝をバカげていると彼は思う。
まして、その血筋にあるというだけで、主席研究員の座を与えようとするなど、狂気の沙汰以外なにものでもない。
実のところ、もう、ずっと前にヒトゲノムの解析は終わり、彼らヘルマン一族の遺伝子情報も公開されている。
それによると、偏屈な精神傾向はみられるものの、彼らのゲノムに、特に変わったところはないのだ。
にも関わらず、何世代にも渡って、科学、工学分野に突出した才能を排出するが故に、人々はヘルマンを尊ぶ。
馬鹿げたことだ。
科学は、それを愛する多数の科学者たちによって、たゆまない努力と研究が為されることで進むものだし、進むべきものだと思うからだ。
どこかの怪しげな天才が、ぱっと思いついて科学の基礎レベルの底上げをしたり、既存のものとは全く違う土台を作り出すことなどあるべきではない。
彼は、幼いころに一度だけ会った、父と年の離れた弟である、ヘルマンの名を世界に轟かせた天才、カヅマ・ヘルマンの才気走った顔と態度を思い出す――
「それで、あんた、どこで働くつもり?研究所に入るの?」
恋人の声で我に返った青年は首を横に振った。
「いや、僕は、このままトルメアへ行こうと思っている」
「えっ」
「亡命さ」
「本気なの!」
アカネが声を上げる。
僕の愛する人は、驚いた声もきれいで音楽のようだ、と思いながらヒビトは笑った。
「この国の一夫多妻制が気に入らないからね」
「亡命――」
「一緒に来てくれるかい」
少女は青年の言葉に目を丸くする。
「え、でも――」
「弟さんやお父さんとの再会は遠のくかもしれないけれど」
アカネは目を伏せる。
「そんな簡単に亡命はできないでしょ。いったいどうやって」
「案外、そのきっかけは近くにあるものだよ。僕に任せて――ダメかい」
少女は、しばらく俯いていたが、彼の首に手を回すと、自分から優しく口づけて――言ったのだった。
「あんたと一緒に行く」
翌朝、いつもより遅めにアキオは部屋に帰ってくる。
昨夜も研究所に動きはなかった。
扉を開けて部屋に入ると、青年と少女はテーブルについて話をしていた。
昨日までと同じような会話、言葉遣い、しかし微妙に何かが違っている――
「あ、アキオ、朝ごはんを――」
呼びかけるアカネに首を横に振ると、いつものように彼は窓際の壁にもたれて床に座った。
とりつく島のない少年の態度で、困った顔になる少女の肩にヒビトは優しく手を置いた。
「そうだ、あんたに渡したいものがあるんだ」
アカネが小さく手を打って、自分の部屋に入っていく。
「これを受け取って」
アキオが目を向けると、少女は青年に銀色の丸いものを渡していた。
手のひらよりかなり小さいものだ。
「これは――方位磁石だね」
「ええ、母が日本から脱出する時に持ってきたの。あの人は、どんなにお金に困っても、これだけは手放さなかった――」
「きちんとした銀細工だね。しかも、磁針の台は――アズルタイト!」
「母の祖母が形見にくれたものらしいわ。進むべき道を間違えないようにって」
「いいのかい、そんな大事なものを」
「持ってて欲しい。あんたの進む道が、あたしの進む道だから。それに、もし――もし離れ離れになったとしても、それを使って、あんたがあたしの許に帰ってこられるように」
「一生、君の傍から離れたりしないさ――でも、ありがとう。大切にするよ」
その時、アキオはポケットが振動するのを感じた。
呼び出しの合図だ。
彼は、そっと立ち上がると、笑顔を交わす恋人たちを置いて部屋を出た。
初めてアカネと出会った路地に向かう。
両側を高いビルに囲まれて、昼なお暗い路地を歩く。
ほどなく到着した。
彼が近づくと壁の窪みから影が離れ、人の姿を取った。
サルヴァールだ。
「どうだ」
上官の質問に、アキオは首を横に振る。
「だろうな――別な筋から情報が入った」
アキオはうなずく。
部隊が、彼以外に情報チャンネルを広げているのは当然のことだ。
彼の探索が無駄足に終わっても、成果が出れば問題はない。
「手に入れるべきは、武器ではなく人だった」
サルヴァールは、辺りに人影がないのを確認してさらに声を落とす。
「2カ月前、首都ムガルの兵器研究所で、主席研究員のシヅマ・スズキ・ヘルマンが死んだ――ヘルマン一族は知っているか」
アキオは首を振って否定する。
「代々、科学の天才が生まれる家系で、特に世紀の天才と名高いカヅマ・ヘルマンによって有名になった一族だ。羨ましいことだな」
若いサルヴァールは、不満げに口を尖らせる。
「カヅマの兄がシズマだ。シヅマが死んで、その息子がヘルマンの家系というだけで主席研究員の席についたんだが、凡庸過ぎて使い物にならず――数カ月で追われるようにこっちに左遷された――」
彼は、自分の言葉が少年に届いているか確かめるようにアキオの顔を覗き込む。
「その後、息子は、しばらく行方不明となっていた。ネオ・ネイシアとしては、そんな無能な人間など消え去ってもいいと思っていたようだが、最近、シヅマ博士の資料が必要となって、軍の許可で博士の家を調べたところ、とんでもないことが分かった――博士の為した研究成果の多くを、息子が行っていた証拠が見つかったんだ。俺たち名無しの道化師にもたらされた情報は、その事実を事前につかんでいた他国の諜報員の、別件の拷問でもたらされたものらしい。だから詳細が曖昧だった――」
サルヴァールは言葉を切り、
「当然、軍は、頭脳流出を恐れて息子を確保しようと動き出した――そこで俺たちの出番だ」
彼はタブレット端末を取り出した。
「基本的に、命令は変わっていない。モノが人に変わっただけだ。つまり、その人物の確保、あるいは、それが不可能なら抹殺だ。お前ならすぐに見つけられるだろう。これが標的、ヒビト・スズキ・ヘルマン、18歳だ」
タブレットに映し出された長身で痩身の青年を一瞥すると、少年はうなずいた。
表情は変わらない。
「では、行け。なるべくなら確保しろ。だが――駄目なら抹殺だ。ヘルマンの家系など死んでも構わん」
天才を自負して単独で妹の精神を蘇らせようと苦闘する、いち傭兵員であるサルヴァール・ハマヌジャンは、恵まれた天才一族が気に入らないようだ。
だが――
皮肉なことに、およそ二十年後、彼の生み出したAIミーナは、カヅマ・ヘルマンの娘の死に臨んで、世界で最初の自我を持つAIに進化するのだ。