329.吐露
だが、彼より先にアカネに近づく人影があった。
ヒビトだ。
青年は、倒れた少女のスカートの裾をなおすと、優しく抱き上げた。
立ち上がった途端、少しよろめく。
「あ、あんたはぁ――」
ヒビトの顔に向けて、呂律の回らない声でアカネが言う。
「酔っているのかい」
「ええ、酔ってる。酔ってるわよ――あのバカ……」
「話はあとで聞くよ。さあ、家に帰ろう」
そういって、青年は、泥酔したアカネを抱いて人気のない路地を歩いていく。
アカネは、彼女を襲った男たちの末路を知らないようだ。
アキオは、ヒビトが、壁に張り付いた3つの死体がアカネの眼に入らないように自分の身体で隠したことに気づく。
青年は、今回のアキオの暴力について、見て見ぬふりをすると決めているようだ。
先日の言葉といい、ヒビトは、彼について何か思惑あるらしい。
アキオは、先を行く細い後ろ姿をしばらく見ていたが、地面に転がったアカネのバッグを拾うと遅れて彼らの後を追った。
通り過ぎながら、死体に目をやる。
この辺りは治安の悪い地域だ。
当然、監視カメラもない。
彼らが死んでも、ろくな捜査は行われないだろうし、もし捜査の途中で、ヒビトたちが浮かんだとしても、痩せた青年と少女、そして子供は容疑者にはなりえない。
殺人方法から、犯人は屈強な大男であるはずだからだ――
「ここは――どこよ!」
ヒビトによって部屋に運び込まれ、ソファに寝かされたアカネは、大きな声で叫んだ。
「君の部屋じゃないか」
「うーそーよー。あたしの部屋にはあんたみたいなイイ男はいない。あたしはーひとりっ」
そう言って、赤らんだ顔の頬を膨らます。
「随分酔ってるようだね。アキオ、水を――」
アカネは渡された水をひと息に飲み干した。
「おかわり」
飲み終えたコップを振り回す。
二杯目の水を飲んで大きく息をついた。
「どうしたんだい」
「おーそーわーれーたー」
「確かに襲われてたね」
「ちーがーうー」
普段の大人ぶった様子から考えられないほど子供っぽくアカネが叫ぶ。
「あーのー社長よー」
「社長に襲われたのかい!」
ヒビトが、美しい酔っぱらいをなだめながら、何とか聞き出した話はこうだった。
約束の場所でシンメイ工業社長のリュウと待ち合わせたアカネは、ホテルで食事をして、ラウンジで酒を飲み――部屋に誘われた。
ここまでは彼女の計画通りだ。
そのまま彼と一夜を過ごし、彼女の初めてが彼に捧げられたことがわかれば、この街の法律によって、アカネはリュウの正妻となる。
が――リュウはホテルの部屋に数人の男を用意していた。
部屋に入るまでに、アカネは言葉巧みにかなりの量の酒を飲まされていた。
リュウは、酒に酩酊させた後で、アカネの身体をもて遊び、ついで男たちにも彼女に乱暴させて結婚を回避するつもりだったのだ。
「なんてひどいことを考えるんだ」
ヒビトが拳を握る。
計画が成功すれば、翌日、アカネは複数の男と楽しんだ淫乱娘ということになって、結婚は反故にされていただろう。
「そういうー悪い噂はー聞いてたのよねーアイツの。だからーこれをー用意してたの!」
そういって、アカネは、アキオがソファの横に置いたバッグから、長い線に絡まった塊を取り出した。
「テーザー銃か」
「ふふーん。5連発よー」
美少女は、ポンとソファに銃を投げ出す。
「前はーこれをー持っていなくてー路地でー襲われたからー」
嬉しそうに笑うアカネに、ヒビトは、今日も襲われていただろう、とは言えなかった。
リュウたちの失敗は、アカネの酒に対する耐性を見誤ったことだった。
普通の娘なら飲み潰れる酒の量でも、彼女は軽く酩酊するだけらしい。
もちろん、全く酒の影響を受けないのではなく、今のように、後になって効いてくるらしいのだが――
ホテルの部屋に入った時、一応、リュウが手を出しやすいように、彼女は酔っぱらったふりをしていた。
だが、他にふたりの男たちが現れ、彼らの考えがわかると、彼女はバッグから五連テーザー銃を取り出して、躊躇なく撃ったのだった。
先日の失敗から何度か練習を繰り返していた電針は、狙い過たず男たちを直撃した。
目を剥いて痙攣する男たちを蹴っ飛ばすと、そのまま、ホテルを出てタクシーを拾って、表通りまで帰り、路地を抜けようとして――酔いが急に回り始めた彼女は、男たちに襲われたのだ。
「これでわかっただろう」
ヒビトが硬い声を出す。
「金で男を選ぶから、こんなことになる。もう金ばかり追いかけるのはやめるんだ」
「いやよ!」
きっぱりとアカネが断言する。
「お金はー大事だもの!」
「君は、きちんと働いているし、決して貧しい生活をしているわけじゃない――」
「ダメダメ、あたしのー稼ぐぐらいのお金じゃ――ダメなの!」
「なんてバカな女だ」
「そうよーあたしはバカよ。バカでー愚か――でもそれでいい、お金がないと――ダメなのよぉ」
歌うようにつぶやく。
「事業で失敗して、ものすごい借金ができて――父さんはいなくなった」
アカネの声が小さくなる。
「母さんは、借金取りに責められて死んじゃった――父さんの知り合いの弁護士が、いろいろ苦労して、借金をあたしが払わなくていいようにしてくれたけど、子供ふたりでは生活なんてできなくて、年の離れた弟は、どこか知らない街に引き取られてしまった――」
「それで、君はアキオを……」
「一年前、突然、父さんは帰ってきたけど、あたしにお金がないことを知ると、すぐに出て行った――」
ヒビトはうなずく。
彼が最初の夜に来た服は、その時のものなのだろう。
「お金がなくて――みんなバラバラになって――独りでごはんを食べて、独りで寝て、独りで起きて……」
わっと、アカネが子供のように泣き出す。
「お金がないから独りになる。お金がないから家族がなくなる。弟はどこかに連れていかれる。一度帰ってきたお父ちゃんも、また出て行ってしまう。お金があれば、お金さえあれば――お父ちゃんも」
「アカネ――」
ヒビトが少女を抱きしめた。
「父さんを引き留め、弟を探しだして一緒に暮らすためにお金が必要なの。あたしは頭が悪いから、それ以外の方法は考えられない。ただ家族いっしょに――」
「そう、そうだね――やっぱり、アカネさんは素敵な人だ……」
ソファで膝をかかえる少女を抱きしめながら、背中を撫でて青年が言う。
「優しいし、よく気がつくし、料理は上手だし、なにより、とんでもないお節介だし――最高に美人だ」
「何よー褒めたってダメなのよ。あんた、お金ないから――」
うんうんと、ヒビトがうなずく。
膝を抱えたまま、アカネは黙って床を見つめた。
やがて――
彼女の手が、背中を撫で続ける彼の手を取った。
「でも、でも――もうお金はいいかな……」
この夜、初めてアカネが笑顔を見せる。
憑き物が落ちたような愛らしい笑顔だ。
「アカネさん。僕じゃ駄目かい」
ヒビトが気負いなく言葉を発する。
「顔と性格は好みよ。でも――」
「でも?」
少女は口を閉じる。
そのまま黙り込み――
心を決めるように、きっぱりとアカネが言った。
「あんたでいい」
「僕でいい?」
「あんたが、いい」
「アカネ!」
青年が少女をきつく抱きしめた。
アキオはそれを見ると――
いつものように扉を開けて部屋を出て行った。
今夜も研究所を見張らなければならないし――部屋にいない方が適切であるような気がしたからだ。
「あの子は?」
青年の首に手を回し、うっとりした表情でアカネが尋ねる。
「――出て行ったよ。気を利かせてくれたんだろうね」
「夜なのに――」
夜だから、と彼はいわず、アカネの髪を撫でる。
彼女は、夜な夜な少年がアパートを抜け出していることに気づいていないのだ。
「彼は――心配ないよ」
青年は、ひとりうなずくと、ぱっと少女に口づけて真剣な口調になる。
「アカネさん。僕には何もないけれど――ひとつだけ取り柄があるんだ」
「顔以外に?」
「顔?」
「いいのよ。それで」
「信じられないかもしれないけど、僕は――頭がいいんだ」
アカネは吹き出す。
「なぁに、それ」
「自分の知識を教えるだけで――」
そういって、青年は、床に落ちていた紙包みを手にすると、包装を破って中から札束を取り出した。
「これぐらいのお金になるほどにはね――」
「ヒビト、あんた――」
「僕の名は、ヒビト・スズキ・ヘルマン。国立武器研究所の主席研究員だ」