328.吐息
「ただいま」
夕方になって、アカネが機嫌よく帰ってきた。
「ああ、君が帰ってきたら、急に部屋の中が明るくなったみたいだ」
ヒビトが勢いよく立ち上がって言う。
「何いってるのよ」
「本当だ」
「あんた、その調子で、たくさん女を泣かしてきたんでしょう」
「いや、女の子と殴り合いはしたことがないな」
真面目な顔で言う青年に、アカネは呆気にとられると、ぷっと吹き出した。
「あんたは変わってるわね」
ヒビトはアカネの呆れ顔を気にせず、
「おかえり。疲れただろう。さあ。ここに座って――」
甲斐甲斐しく世話を焼く。
アカネは満更でもない様子で、彼に言われるままソファに座った。
「今日はありがとう。アキオと一緒に広場でおいしく昼食を食べたよ」
「楽しんだ?良かった――でも、明日からは、あんたも仕事を探しに出るのよ」
「もちろんさ。こう見えても僕は――」
「いつまで、あんたの世話をできるかわからないし――あ、あたしはこれから出かけるからね」
アカネはヒビトを遮ると、隣にある自分の部屋から服を取り出して、脱衣所に持って入る。
それが、アカネのとっておきの服だと、昨夜聞かされていたヒビトが呻くように言う。
「まさか、これから、あの社長と――」
「ええ、昼に連絡があって、一緒に食事をするの」
アカネは、鼻歌交じりに扉を閉める。
再び扉が開いて、
「これからシャワーを浴びるけど――」
「わかった、変な気は起こさないよ」
小さく両手を挙げてヒビトが言った。
「いい子ね」
そう言ってアカネは扉を閉めた。
二人で適当に夕食を食べるように言い残して、アカネは出て行く。
その姿を見送ったヒビトが、椅子に座り込んで、ぼんやりしているのを見て、アキオは部屋を出る。
2ブロック離れた研究所を調べに行く。
兵器研究所といっても、サイベリアやトルメアのように、広い敷地に白亜のビルが建っているわけではない。
もとは、酒の醸造所で、レンガ造りの古い建物の内部を改造しただけの造りだ。
おかげで、簡単なレーザーと赤外線警報装置にさえ気をつければ、アキオが見つかることはまずない。
逆にいえば、この程度のセキュリティしかない場所に重要な研究成果があるのはおかしいのだ。
おかしくはあるが、アキオはそれ以上の詮索はしない。
考えるのは上官の役目で、彼は任務を遂行するだけだからだ。
サルヴァールは言わなかったが、与えられた情報自体が罠である可能性もあった。
今回、アキオたちが所属する傭兵部隊、名無しの道化師の雇い主はトルメアだった。
王国が、正規の諜報員を使わないのは、おそらく情報源が怪しいからだろう。
路地に隠した赤外線ゴグルを取り出して身に着けると、アキオは、いつものように研究所の警報装置を避けながら、3階の高さにある換気口から内部に潜り込んだ。
大人では不可能だが、小柄な彼なら可能な芸当だ。
監視カメラに注意しつつ、長時間、我が家のように研究所内を歩き回る。
そのまま、しばらく身を潜めたアキオは、相変わらず所内が静まり返っているのを確認して、アパートに戻った。
階段を上がると、薄い扉と壁を通して言い争う声が聞こえてきた。
「あたしが誰と付き合おうと勝手でしょ。なにより彼はお金持ちなの」
「金、金って、世の中、金が一番じゃないだろう」
「一番よ。飛びぬけて一番。あんたを見てたらわかる。これまでお金に苦労したことはないんでしょう。今回、初めてお金に困っただけで」
「それは――そうだけど」
「そんな人にはわからない。本当に、お金がない苦しさは。お金がなければダメなのよ。絶対に」
「金より大切なものが――」
「ないわよ。ありません」
扉が激しく閉められる音がした。
アカネが自分の部屋に閉じこもったのだろう。
アキオは、音を立てないように玄関の扉を開け、部屋に入った。
握った拳をテーブルに乗せ、宙を見つめるヒビトを横目に、いつものように壁にもたれて座る。
その夜、ヒビトは眠らなかった。
まんじりともせず夜を明かし、朝早くに家を出て行く。
「じゃあ、行くからね。あたしは、今夜、たぶん遅くなるから先に寝てて。食べるものは――あるわね」
朝、起きてアキオと食事をすると、ヒビトがいないことを話題にしないままアカネが玄関に向かった。
彼が初めて目にする赤いハイヒールを履く。
彼の視線に気づいて彼女が笑う。
「初めて見るんでしょ。これは、あたしの幸運のピンヒールよ。今の職場が決まったときも、これを履いていたの」
バックルをとめると、アカネは背をまっすぐに伸ばして立った。
すっきりとバランスのよい立ち姿だ。
「アキオ、祈ってて。今夜で決めるわ、第三夫人の座」
そういって彼女は部屋を出て行った。
が、すぐに扉が開き、中に戻ってくるとアキオを抱きしめる。
戦闘のプロであるはずの彼は、なぜかその抱擁を避けられなかった。
彼女は、アキオから体を離すと、彼の顔を覗き込んだ。
アカネの大きな目は、すぐ近くにあり、桜色の唇から漏れる甘い吐息が顔にかかった。
「アキオ、可愛いわね。今、会えたら、あたしの弟もきっとあんたみたいになってると思う――あんた、大きくなったらヒビト以上の美形になるわ、きっと。たくさんの女性があんたに夢中になる――」
そう言って、彼の頬に手を当てて、ひと撫ですると、
「心配しなくてもいいのよ。あの人には、歳の離れた弟がいるっていってあるから。あんたは、あたしが守ってあげる。一緒にお金持ちの生活ができるわ」
そういって、輝くような笑顔を見せて、部屋を出て行った。
残されたアキオは、しばらく閉じた扉を見つめていたが――ホルスターからPPKを取り出すと、分解と整備を始めた。
独特の用心鉄を下げてロックを外すシステムを使って、スライドを完全後退させる。
後部を持ち上げると、スライドが外れ、内部機構がむき出しになった。
ホルスタ―横のポケットから、布と棒とミニ・オイルを取り出して、汚れをふき取り新しくオイルをさす。
再び組み立てる。
それを、素早く数度繰り返すと、アキオはいつものように、牛乳箱に鍵を入れて、研究所に向かった。
今日も目立った動きはない。
サルヴァールは一週間以内に何かが起こると言っていたが、この様子では、何事も起こらないかもしれなかった。
夕方、部屋に戻るとヒビトが帰っていた。
朝には見られなかった四角い包みが、ソファの横に置かれている。
アキオの姿を見ると、
「今日は一日放っておいて悪かった。食事にしよう」
そういって、手早く野菜と肉の炒め物を作って、テーブルに並べる。
「アキオ、君には言っておく。僕はアカネさんと一緒になるつもりだ」
アキオはヒビトを見た。
その視線をどう取ったのか、
「ああ、心配しないで、もちろん、君も一緒に暮らすんだ」
青年は屈託なく笑う。
その夜、遅くなってもアカネは帰ってこなかった。
いくら待っても帰ってこない。
アキオは、ヒビトにアカネの計画を伝えていない。
待つことに耐え切れなくなったように、ヒビトが窓を開けた。
身を乗り出して、通路を見る。
冷たい冬の空気が室内に流れ込むが、ふたりの男は気にしなかった。
都会の真ん中、ビルの奥の奥に、奇跡のようにできた空き地に建つアパートは、夜になると静寂に包まれる。
帰り道が物騒なために、住人がほとんどいないからだ。
不意に、風に乗って、遠くから微かな叫び声が流れてきた。
アキオは窓から廊下へ飛び出る。
満月に照らされたアパートの、外付けの階段を一息に飛び降りると、風のように路地を駆け抜けた。
少し行くと、月明かりの届かない通りに人の気配がした。
男が3人だ。
アキオは、足音を消して近づいた。
3人のうち2人は、以前にアキオに殴り飛ばされた男たちだった。
残りひとりは、地面に倒れた何かにのしかかろうとしている。
性懲りもなく、新しい獲物を襲っているのだ。
アキオは、月明かりの届く場所に跳ね飛んだ赤いピンヒールを目にし――
ドン、と重低音が響いて男が吹っ飛んだ。
「アキオ――」
出かける用意をしている彼にマミロッドが話しかけた言葉を思い出す。
「いいかい。戦闘になったら仕方ないが、街の中では、できる限り人は殺さないようにするんだ。自分の姿を見られた時以外は――」
この男に顔は見られていない、しかし――
アカネを襲っていた男を殴る時、アキオは、なぜか――ほんの少し力の加減を間違えてしまった。
レンガの壁にたたきつけられた大男は、体中の穴から血を吹き出して絶命する。
「ば、化物!」
アキオの姿を目にした残り二人が、全力で逃げ出そうとした。
これは仕方がない。
姿を見られたのだから。
アキオは、難なく男たちに追いついた。
その結果――
これまで、数多くの女を襲ってきた男たちが、その人生の最後に口づけたのは、赤く硬いレンガということになった。
二人の男の頭が完全に潰れたのを確認して、少年はアカネに近づく。