327.市場
サイベリア南西部にある、泥沼のT地帯から辛くも脱出し、傭兵の住処である移動兵営に戻ったアキオの前に、サルヴァールが立ったのは5日前のことだった。
アキオは、燻らしていたジャルニバールの紫煙越しに彼を見上げる。
敬礼のために立ち上がろうとするが、サルヴァールはそれを止めた。
「ネオ・ネイシアに行ったことは?」
50年前に、大陸南部から突き出た半島と多くの島々を、英雄ジャモスが一国にまとめ上げた国家だ。
アキオが首を横に振る。
「だろうな……」
サルヴァールは、ひとりうなずくと、続けた。
「今回は潜入任務だ。セント・バートルに動きがある」
「ハマヌジャン軍曹、彼に都会での潜入任務は無理では――」
最近入隊し、何かとアキオを気にかけてくれるマミロッドが口をはさむ。
「たしかに、こいつの本領は荒野か密林あるいは湿地帯で発揮されるだろう。だが、アキオは、以前、行った市街戦演習でも最優秀の成績をあげてるんだ。言葉も分かるしな」
「いや、そういうことじゃなくて――無口な、しかも、こんな子供が都会に潜むのは難しいのではないでしょうか」
「別に生活させるんじゃないさ。都会は孤児も多い。単純な家の鍵、暗い路地、都会といっても、セント・バートルは旧世界のままの生活様式の街だ。目立つのが嫌なら、路地か空き家――下水にでも潜んでいればいい」
「あなたは、もっと彼を人間扱いすべきです」
「するさ」
きつい調子でサルヴァールは言い、
「人間ならばな――」
サイベリアの研究所から連れだして、まだ日の浅い戦闘機械のアキオを、彼は信用していないのだ。
サルヴァールは、黙り込んだ部下からアキオへ視線を移す。
「潜入場所は、ネオ・ネイシアのセント・バートルの3街区付近だ。そこに、武器開発研究所がある。俺たちに依頼されたのは、1週間以内に完成すると言われている兵器の奪取あるいは破壊だ。お前は、街に潜んで研究所を探れ、動きがあれば俺たちに連絡して内部から手引きしろ」
「それは傭兵の仕事じゃない。諜報員の仕事だ。T地帯での戦闘が我々の本分でしょう」
「分かってるさ」
珍しくサルヴァールが語気を荒らげる。
「だが、前回の戦闘で俺たちは疲弊しすぎた。有体にいって密林も沼地も懲り懲りなんだ。せっかく、上層部も今回は仕事を俺たちに選ばせてくれるといっているんだ」
彼は部下を見た。
「この仕事なら、アキオを送り込むだけで、俺たちは都市近くの村で羽を伸ばし――いや、身体を休めることができる」
「あなたも、あの機械を改良できるというわけですね」
マミロッドが当てこする。
「誰であろうと俺のクマリをバカにすることは許さない」
彼は部下を睨んだ。
しばらくして目を逸らしたサルヴァールは、吐き捨てるようにアキオに言う。
「武器は――ワルサーPPKと予備弾倉3本だ。戦闘任務ではないから、お前ならなんとかなるだろう。行け。数日の間に目立った動きがあるはずだ」
そして、彼は、街に潜入し、アカネに拾われ、セント・バートルで暮らしている。
「じゃ、そろそろ行くかい」
昼前に、部屋の掃除を終えたヒビトがアキオに声をかけた。
どうやら、アカネに言われたとおり、彼を連れて市場に出かけるつもりのようだった。
少年は表情を変えなかったが、内心、困ったことになったと考えていた。
ヒビトひとりで買い物に出かけてくれたら、彼は、今日も研究所を探るつもりでいたのだ。
この都市に潜入してから、ほぼ毎夜、研究所を内外から見張っている。
おかげで、警備の穴などは完全に把握した。
事が起これば、内部に潜入して、サルヴァールを手引きすることができるだろう。
とりあえず、昨夜の段階で、まったく動きがなかったため、昼間の事態急変はないと考えて、アキオは市場に同行することにした。
「さあ、行くよ。君は僕を見張らないとね」
ヒビトは器用に片目をつぶって見せる。
男ふたりで、部屋を出た。
鍵はアカネに言われたとおり、玄関横の牛乳箱に入れておく。
「でも、驚いたな。牛乳箱なんて過去の遺物だと――」
アキオも、軍事国家の多くで乳製品はクローン製造による配給制であることは知っている。
わずかにトルメアだけが、国を挙げて乳牛を守ったおかげで、生乳よる乳製品を流通させているのだ。
「トルメアでは、乳製品が豊富にあるらしいね。どうだい、僕たち三人でトルメアに行かないかい」
ヒビトが事も無げに言う。
アキオは青年を見た。
本気かどうか計りかねたのだ。
国交のない、というより一瞬即発の状態である、敵国のトルメアに行くということは、亡命するということだ。
よほど特殊能力があれば可能だが、花嫁修業に熱心な少女と、浮浪者の青年ではその実現は不可能だろう。
「きっと楽しいだろうな」
籐籠を左手に持って、夢見るような笑顔で青年が言う。
「アカネさんは優しいし、愛情深いし、よく気がつく人だ。おまけに綺麗だ。君は――」
ヒビトが軽く笑い、
「そのままでいい。普通の子供とは違うだろう。僕にはわかるさ」
アキオは答えない。
路地を出て、広い通りを南に向かった。
しばらく歩くと、大きな円形広場が見えて来る。
そこでは、円周に沿って店が立ち並び、数多くの露天が、その内部の広場に並んでいる。
なかなかの盛況ぶりだ。
「さあ、買い物だ――なになに」
ヒビトが籠からメモを取り出す。
「サザン豆2袋――聞いたことがないな。すみません」
青年は、愛想よく近くの店の主に声をかける。
陽気な店主は、快く豆の在り処を教えてくれた。
品物を買った後で、次の商品を売っている店を尋ねる、という行為を繰り返し、昼過ぎに買い物は終わった。
「さあ、これで終わりだな。あとは――」
いっぱいになった籐籠からメモを取り出したヒビトは、その裏側を見て笑顔になる。
「アキオ、やっぱりアカネさんは優しいよ。買い物に使った残りのお金から、2オーグルで昼ごはんを食べるように、と書いてある」
青年は、メモを彼に見せる。
そこには美しい文字で、楽しんで、と書かれていた。
青年と少年は、広場の端にある、少し高台のテラスのテーブルに腰を下ろした。
そこでは、市場で買った料理を食べることができる。
アキオは固辞したが、ヒビトは、鶏肉の焼いたものと野菜を彼のために皿に取り分けてくれた。
冬とはいえ、晴れ渡る空に照りつける太陽のお陰で寒さは感じない。
「本気なのかな」
ヒビトが、誰に言うともなくつぶやく。
アキオは、茫洋と広場を見ている。
「君は、彼女が本気だと思うかい」
直截に尋ねられてアキオはうなずいた。
この数日見ているだけでも、アカネが本気で結婚しようと考えていることがわかったからだ。
「でも、おかしいだろう。愛もなく、ただ金のために結婚するなんて――あんなに綺麗なのに」
少年は青年を見た。
さっきから、いや、買い物をしている間もずっと、道行く女性たちの視線は青年に引き寄せられたままだ。
実際、今も、食事する彼を盗み見ている女性は多い。
人の視線に敏感なアキオが感じるのだから間違いはない。
彼にはよくわからないが、青年には、女性の興味と視線を惹きつけるなにかがあるようだった。
それは、アカネと同じものではないだろうか。
「この国が悪いんだな。一夫多妻など認めているから。トルメアなら――」
青年が、Bカップのコーヒーを見つめながら考え込むのを、アキオは黙って見つめていた。